思うことを。
前の記事を書いてからfacebookに他県の指導者の方からコメントをもらいました。勇気づけられます。様々な場所で「本気で選手と向き合う」ことをしている方がいる。M先生は以前「指導する場所が違っても一生懸命にやっている指導者は同志だ」と言ってくださいました。こういう感覚を持って指導に当たる。本当に必要なことだと思います。
タイトルにした「何をするかを考える」という部分。これは今の指導の中で重要なことだと思っています。今までは私が選手に「メニューを提供する」形で練習を進めていました。もちろん今でもその形は大きくは変わりません。しかし、1から10まで道筋を示してそれにしたがってやらせることは「本当に必要な力」を育てられていないのではないのかと感じるようになりました。
競技場面において指導する人間の「力量」は大きいと思います。「順調に伸びた」といわれるかもしれないが本当にそうなのか。前の記事にも書きましたが私が指導した選手がインターハイに出場した。13秒1の選手が12秒1で走った。それは「すごい」ことなのかもしれない。まー普通の高校でこの程度の記録を出してもそれほど評価されないのですが。しかし、実際にこの選手がほかの指導者の指導を受けていたらどうなっていたのか?そこまで考えておきたいなと思っています。
どういうことか。13秒1が12秒1になった。ひょっとしてほかの指導を受けていたら「11秒台」で走っていたのではないかという感覚。そこは持ち続けたいなと思っています。正直、12秒1で走るだけでも大変なことです。それは「他ではできなかった」と自負しています。過信というわけではなくそれくらい選手と向き合ってきた自信があるからです。が、指導力のある本当の「指導者」の指導を受けていたらどうなっていたのか。インターハイで決勝に残るくらいになっていたかもしれない。私はその選手を本当に伸ばし切れていたのか。ここは自分自身を振り返る中で見直すべき部分だと思います。
同じ選手が全く別の指導者の指導を受けることはできない。だから「比較対象」がないのです。双子の選手が別の指導者の指導を受けて・・・というのはこれに当たりません。人格自体が違うのですから「練習内容」だけでは判断できない。だからこそ預かった選手に対して「最大限のこと」をするべきだと思っています。それがプラスになるかどうかはわかりませんが。
こういう考え方の中でやっています。気が付けば「すべて」をこちらの指導スタイルに合わせようとしている。これはで選手が「考える」という時間がなくなる。最も楽なのは「言われたことをやっていれば強くなる」と思うこと。上手くいかなかったら「指導者が悪い」という部分に置き換えることができる。本当はそうではなくて「自分で何をするかを考える」ことだと思います。ここが重要。
「放置」とは違います。たまたま「上手くいった」のではなくある程度の道筋を示す中で「自分で見つけていく」ということが必要かなと。もちろん、相手は高校生。簡単にできるわけではありません。間違った方向に進むことも当然出てくる。その時には道を正す方向で指導していけばいい。技術的な部分は「そのうちできるようになる」という感覚もあります。ここに関して少し書いたのですが「感じが悪い」と思ったので省略(笑)。
「他よりはうまくやっている」という過信。いやそうではない。もっともっと真剣に取り組んでいる指導者がいるという現実をきちんと見なければいけない。「やっていない」ものと比べると結局はそこで終わってしまう。選手も「○○よりは真面目にやっている」という表現をするがその部分と比較することに「意味」はない。本当に目指す場所がもっと先であればそこに必要な努力をするべきだから。
今の自分では足りない。そう思う。比較対象を変えなければ自分自身の「存在価値」がなくなる。強くそう思う。
うーん、当初書きたかった内容と全く変わってしまった・・・。まあいいか。
前の記事を書いてからfacebookに他県の指導者の方からコメントをもらいました。勇気づけられます。様々な場所で「本気で選手と向き合う」ことをしている方がいる。M先生は以前「指導する場所が違っても一生懸命にやっている指導者は同志だ」と言ってくださいました。こういう感覚を持って指導に当たる。本当に必要なことだと思います。
タイトルにした「何をするかを考える」という部分。これは今の指導の中で重要なことだと思っています。今までは私が選手に「メニューを提供する」形で練習を進めていました。もちろん今でもその形は大きくは変わりません。しかし、1から10まで道筋を示してそれにしたがってやらせることは「本当に必要な力」を育てられていないのではないのかと感じるようになりました。
競技場面において指導する人間の「力量」は大きいと思います。「順調に伸びた」といわれるかもしれないが本当にそうなのか。前の記事にも書きましたが私が指導した選手がインターハイに出場した。13秒1の選手が12秒1で走った。それは「すごい」ことなのかもしれない。まー普通の高校でこの程度の記録を出してもそれほど評価されないのですが。しかし、実際にこの選手がほかの指導者の指導を受けていたらどうなっていたのか?そこまで考えておきたいなと思っています。
どういうことか。13秒1が12秒1になった。ひょっとしてほかの指導を受けていたら「11秒台」で走っていたのではないかという感覚。そこは持ち続けたいなと思っています。正直、12秒1で走るだけでも大変なことです。それは「他ではできなかった」と自負しています。過信というわけではなくそれくらい選手と向き合ってきた自信があるからです。が、指導力のある本当の「指導者」の指導を受けていたらどうなっていたのか。インターハイで決勝に残るくらいになっていたかもしれない。私はその選手を本当に伸ばし切れていたのか。ここは自分自身を振り返る中で見直すべき部分だと思います。
同じ選手が全く別の指導者の指導を受けることはできない。だから「比較対象」がないのです。双子の選手が別の指導者の指導を受けて・・・というのはこれに当たりません。人格自体が違うのですから「練習内容」だけでは判断できない。だからこそ預かった選手に対して「最大限のこと」をするべきだと思っています。それがプラスになるかどうかはわかりませんが。
こういう考え方の中でやっています。気が付けば「すべて」をこちらの指導スタイルに合わせようとしている。これはで選手が「考える」という時間がなくなる。最も楽なのは「言われたことをやっていれば強くなる」と思うこと。上手くいかなかったら「指導者が悪い」という部分に置き換えることができる。本当はそうではなくて「自分で何をするかを考える」ことだと思います。ここが重要。
「放置」とは違います。たまたま「上手くいった」のではなくある程度の道筋を示す中で「自分で見つけていく」ということが必要かなと。もちろん、相手は高校生。簡単にできるわけではありません。間違った方向に進むことも当然出てくる。その時には道を正す方向で指導していけばいい。技術的な部分は「そのうちできるようになる」という感覚もあります。ここに関して少し書いたのですが「感じが悪い」と思ったので省略(笑)。
「他よりはうまくやっている」という過信。いやそうではない。もっともっと真剣に取り組んでいる指導者がいるという現実をきちんと見なければいけない。「やっていない」ものと比べると結局はそこで終わってしまう。選手も「○○よりは真面目にやっている」という表現をするがその部分と比較することに「意味」はない。本当に目指す場所がもっと先であればそこに必要な努力をするべきだから。
今の自分では足りない。そう思う。比較対象を変えなければ自分自身の「存在価値」がなくなる。強くそう思う。
うーん、当初書きたかった内容と全く変わってしまった・・・。まあいいか。