思うことを。
バトン練習をする。ここに関してはある程度考えながらやっています。当然ですが。渡ればいいという話ではなくきちんとやることが重要だと思っています。中学校でどれくらいの練習をするのかわかりません。高校になて初めてバトンをやるわけではないのにあまりにも下手だなと思うことがある。細かいことは言っても仕方ないなと思っていますが。それでもあまりにひどいなと。
バトンを渡す。これに関して「押し込む」形でバトンを渡すのを見かけます。これって見た感じは「すごい」と思うかもしれませんが、飛んでいくというリスクを考えるべきです。あんなに押し込んだら受け取る側が大変なことになります。押し込むことでまっすぐ手を運ぶことができなくて大きく回るような形になります。ロス。アンダーハンドパスだったら回らないかもしれませんが、これは「利得距離」が全くないし、大きく減速してしまう。これって意味があるの?と思うことが多い。
バトンを渡した瞬間に減速する前走者。もらった瞬間に減速する次走者。これって「渡ればいい」と思っているだけではないのか。一度空振りをしたらどうするのか。前走者はそれも含めてある程度並走することが必要だと思っています。次走者、バトンをもらえばいいのか。本当に大切なのはもらってからきちんと「トップスピードに乗せる」ことではないのか。渡る渡らないだけではなく「どうすれば記録が短縮できるか」が重要だと考えています。バトンに関して多くの要素が入っていると思っています。そんなこと言わなくてもわかっているといわれるかもしれませんが。が、見ていて大半はきちんとできていない気がしています。ここは技術的な要素が多く含まれています。もちろん、走力がなければ勝負にはなりませんが。
さらにバトンをもらう側の手の出し方も。大半の選手は一度で入らなかったら慌てます。慌てることでバトンを取りに行く。そうなると渡す側は目標がないので大変なことになります。もらう側は絶対に手を動かさずに待つことが重要だといつも話しています。手を動かすと渡らない。渡す側を信じて「手を動かさずに待つ」だけ。これを普段からやっておかないとバトンが安定して渡らないと思っています。もらう側が慌てて取りに行くと間違いなくロスが大きくなります。そして渡らない。
とにかく「絶対に渡す」というのは徹底するべきだと思います。早出する。だから渡らないで練習が終わる。いやいや、試合の時にどうするのか。渡らないから仕方ないで練習を終わらせるわけにはいきません。なにがなんでも渡すのです。私は「バトンを渡すエリア」をある程度決めています。そこで渡すためにはどうすればいいか。10バトンや25並走をやります。加速しながらバトンの受け渡しをする。加速する段階で「ハイ」と声をかけてから手が出るまでどれくらいの時間かがかるか。それを最初の段階で理解ます。25並走では25m地点でバトンを渡す。25mのマークの上でバトンの受け渡しが終わるように設定する。これが10バトンからの流れです。手が出てくるタイミングと渡るまでの感覚。これは繰り返しやっていく。バトンが渡ればいいというだけではなく「狙った場所で渡す」というのが重要。
実際のバトン練習でも。「渡すエリア」を決めているのでそこで渡るかどうかを前走者も次走者も感じ取るべきだと思っています。前走者は次走者が出た時の距離感で「渡るかどうか」が判断できます。遠いようであれば指示を出さないとそのまま走ってしまいます。これではオーバーゾーンになる。次走者は出てから「渡すエリア」までの距離感をつかみながらここで「はい」という声がかからないのであれば「早い」というのがわかるようになる。だから少しスピードを抑える。一気に減速するだけではなく少し抑えることで済む。ここは重要な要素だと思っています。「何がなんでも渡す」というのを徹底する。
他にもいろいろと要素があるのですが。これも自分の中では「当たり前」と思っています。が、それは「特殊」なのかもしれない。だからもう別にどうでもいいなという気になっている。バトンの話を本気でする相手もいませんし。興味さえ持ってもらえないと思います。競技に対することや技術に関すること。ここも本当に話をしなくなりました。誰も興味を持っていないので。先日gt先生から質問されたので少し話したくらい。この状況でどうやって競技力の向上を図るのか。陸上競技に興味関心がなくなっていく原因んはここにあるのかなと思っています。
まーどうでもいいことですが。一応陸上日記という感じのテーマだったので久しぶりに関係することについて触れてみようかなと。なんとなくですが。
思うことを。
陸上をやる。走る。これはある程度の人であればできることだと思います。が、その目指すレベルがどれくらいなのかによって違ってくると思います。今はクラブチームなどもあって「ニーズに応える「というのがあると思います。それでいいと思っています。競技をする。これはまた別の問題になります。競技をやるということはある程度の「結果」を求めるべきだと思っています。「走るのが好きだから」という理由で陸上をやるというのは正しいと思っています。しかし、「競技」になったときにはそれだけではすみません。「楽しやりたい」という軽い気持ちではできない。学校によっては部員数がかなり多くなる。それは「陸上」をやって身体を動かすだけだからやめる理由がないというのもあると思っています。
私は「陸上競技」をやりたいと思っています。それは宣言しています。それに合うか合わないか。だから私のやり方を変えるというのもどうかなと。現実から目を背けてやっている選手もいると思います。それなりにやっていたら「驚くほど強くなる」ということは絶対にないと思います。正確にはすごい能力があれば可能ですが。大半の選手はそんなことはないので「一生懸命にやる」しかない。
が、人によってその「一生懸命」のレベルは違います。何度か書いていますが今まで「1」でやっていた選手が「5」くらいやるようになればこれまでの5倍だから「自分はやっている」と強く思うと思います。だから自分は頑張っていると感じる。本当に必要な努力が「10」だとしてもその基準がわからない。私は「頑張る」という言葉が好きではありません。これはここに書いているように「1」でも「頑張っている」ですし、「10」でも「頑張っている」からです。抽象的な基準であれば評価が難しいからです。私の基準で「やっている」「やっていない」という部分で見たいと思っています。「生徒の基準」であれば何も変わらないから。
ずっとずっと言っていることです。こちらが「力を貸そう」という気になればやりますが、そうでなければ「手助けはしない」と思っています。やりたくない者にやらせることは誰も幸せにならないからです。そんなにやりたくないのに「一生懸命やる」「県で勝ちたい」「IHに進みたい」と言わされるのは不幸だと思っています。目指していないのに「目指しています」というのは楽しくない。それなら「それなりのレベル」でやればいい。「IHに進む」ことだけが「陸上競技ではない」と強く思っています。それぞれに目標があってそこを目指してやる。それはきちんとした「陸上競技」です。それほど力がなくても本気でやりたいと思えば私は力を貸したいと思っています。本気になれない人間に力を貸すほど暇ではない。ここもしつこく言い続けています。
批判されてもいいと思っています。自分自身の考え方を他者から強制される筋合いはありません。blogに書くからもっと言葉を選べと言われたところで関係ないと思っています。自分自身がやりたいからやる。やりたくないからやらない。勤務時間のこともずっと言っています。勤務時間外のことをなぜ他の人から強制されないといけないのか。遊び半分でやっている人に対して私自身の時間を使うのは不幸。適当にやっている人たちに対して、礼儀を欠く人たちに対して何故私が我慢して対応しないといけないのか。冗談じゃない。
どこまでやるのか。ここに尽きると思っています。強制されてやる気はない。
世の中には心が広くて好い人はいると思います。残念ながら私はそんな人間ではありません。礼儀を欠く人間に対して何故こちらが譲歩しないといけないのか。それなりでいい人達になぜ私がイニシアティブをとって全力で引っ張らないといけないのか。やりたくないならやらなければいい。やりたくないのに「やりたい」というほど楽しくないことはないですから。これまで何度も見てきました。
まー独り言のようなものです。自分自身の考え方を示すだけ。練習についてもどこかで書きたいです。それほど楽しいことをやっているわけではないですが。ぼちぼちで。
最近はほとんど書いていないのでどうでもいい情報になっているかもしれませんが。
gooのblog機能がついに停止になるそうです。それはそれで仕方ないでしょうね。それほど収益性は高くないサイトだと思うので。こうなるとblog自体を続けるかどうかも問題になってきます。それほど更新していませんし。
色々と考えたいなと思っています。更新する意欲がわいてくれば・・・とは思います。長い間続けてきたので閉鎖するのはもったいないなとも思っています。引っ越し作業もできるようなので。考えたいなと思います。
前の記事には「自分らしくやりたい」ということを書いたような。誰かを攻撃するために書く気はありません。誰かに「やらされる」のではない。自分自身の意思に従って活動をする。ここだけは譲れないなと思っているだけ。周りが面白おかしく揶揄するかもしれませんが、それは好きにすればいい。そこから何かを生み出すわけでもありませんから。私自身の考え方が「絶対的正義」だとは思いません。しかし、それなりの信念に従って活動をする、「生きていく」ことに対して他者からあれこれ言われる話ではないと思っています。
県選手権に行きませんでした。これは自由意志だと思っています。「指導者としてあるまじき」という人もいるでしょう。しかし、なぜ私が自分自身の時間を他者からから強制されてやらないといけないのか。どうしても「指導したい」と思うのであれば当然試合にはいくでしょう。が、そう思わないときになぜ「試合会場に行って指導する」「大会の役員をする」というのを求められるのか。「仕事だから仕方ない」というのではないと思います。部活動は「教育活動」だとは思いますが、そこから主たる収入を得ているわけではありません。文科省が「残業時間30時間以内」みたいなことを言っていますが、部活動を毎日2時間やればその30時間はあっという間にオーバーする。土日に試合があれば確実に超える。自分自身が納得してできるかどうかは大きな話だと思います。その競技にこれまで携わったことのない人が強制的に顧問にさせられて負担を強いられる場合、かなりのストレスになると思います。
私自身はこれまでは「陸上競技」が教育活動のツールでした。これも何度も言っていますが別に「陸上競技」だけが教育ツールではない。そして中途半端な活動に力を使うほど私には時間がない。そうなったときにある程度の自分の意志で活動を決めるべきだと思っています。起業家さんたちの話を聞く中で「前に進む気概」というのを常に感じます。現状維持、やるだけというのはありえない。「陸上競技」の指導だけが人生のすべてではない。こちらが自分自身の時間を「犠牲」にしてまで何かをやろうと思えばやるし、思わなければやらない。そこに関しては譲れない。
「陸上競技」に対して「本気でやる」という気持ちが選手にあれば行動自体が変わってくると思っています。言葉にして「上を目指したい」といったとしてもそれに行動が伴わずに客観的に見たときにそれが「正しい」と判断できない部分がある。その時には指摘をするべきだと思っています。それが「指導」なのではないか。見て見ぬふりをして時間を浪費するのであれば誰も幸せになりません。「特別扱い」をする気もさらさらない。ダブルスタンダードになるようなことは今の生き方として許されない。自分の中で。
これまでの指導の中で「無礼」だと思うことが何度もありました。我慢してきました。それが「教育」だと思う部分があったので。もう今はそんな気はありません。限りない「無礼」に対してもう我慢することは辞めました。そこに対して誰かから何かを言われる必要はないと思います。教員なんだから・・・なんてことはその人の視点でしかない。教員であれば「人権」も「感情」も存在してはいけないかのような批判は間違っている思います。明らかに「理由」がある。通すべき筋道がある。それをしないで「一方的な批判」を受けるのであればその瞬間から「指導」をするのをやめる。それは当然の権利だと思っています。「指導」をやめるというレベルだけではなく「関係性を断つ」ことさえ当たり前のことだと思っています。
「遊びの延長」ではない。「陸上」と「陸上競技」は同じようで違うと思っています。「競技」をするのだから。誰かと争う、自分自身と争う。その中で何かを見つけていく。それなのに「逃げ道」を常に作りながら「表」と「裏」があって「言行一致」がない。自分は「」一致していると思っていてもそれが間違っている。これは競技だけではない。だからこそ自分自身もいろいろと考えていきたいなと思っています。
「やらされる」のは嫌だなと思っています。高体連という部分も「やるのが当たり前」みたいな雰囲気になっていてその中で負担を強いられる。「誰かがやらないといけない」という強迫観念があるのかもしれませんが、別にやらなければ誰かが喜んでやるでしょう。自分自身の「存在」をそこでしか示せない人もいるでしょうから。その水準がどこにあるかであって、質が下がってもそれを気にしないのであれば問題ない。もっといえば「質」にさえ気づかない人もいる。その中で自分だけが我慢を強いられるのはもう限界だなと思っています。
自分の「心」の部分を大切にしたいなと思っています。誰かに強制されるのは面白くないので。まとまりませんが率直な想いを記しておきます。他意はありません。本当にそう思っているだけですから。


