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「おくりびと」

 日曜日にWOWOWで放送された「おくりびと」を見た。この映画を見るチャンスは今までに少なくとも3回はあった。最初に映画館で公開された時、アカデミー賞を受賞した直後に再上映された時、そしてDVD化された時、そのいずれの場合も見たいなと思ったのだが、どうしても分切ることができなかった。主人公の納棺師という職業柄、当然死体(正確に言えば死体もどき)が写し出されるだろうから、人間の死体が大の苦手である臆病者の私ではとても最後まで見通せないではないだろうか、そんな心配が常に邪魔していたように思う。さすがにこの年になれば何人かの死顔は拝んできているが、その誰もが生前とはかなり違った面立ちに変わってしまって、元気な頃の顔を知っている身には辛くて仕方がなかった。そのため、余程の思いに動かされるのでなければ、死顔は拝まないようになってしまった。それは、思い出は美しいままにしまっておきたいという打算的な気持ちからではなく、その人がもうこの世のものではなくなってしまったことを心に刻みつけたくはないという脆弱な思いからなのだろう。それでは亡くなった人に最後の別れを直接告げることが出来なくなってしまうが、そうやって誤魔化しておきたいずるい気持ちも働いているに違いない。
 そう考えると、この映画のように、身内の者が見守る前で亡くなった人を棺に納めるという儀式は、一人一人が死者に衷心から別れを告げるためには必要な儀式かもしれない。もちろん、今まで私はそんな場面に立ち会ったことはないが、死者が黄泉の国へと旅立つ旅装を調えるのをじっと見つめながら、その人との思い出を心に浮かべながら感謝の念を持つとともに、永遠の別れを告げる時間を持つことは、この世に残った者たちにとっては大切なことのように思う。かなり辛い時間ではあろうが、そうやって死者を彼岸へ送り出すことは葬儀以上に大事なことだと思う。
 この映画を見ての感想は、どれだけの人と永訣の時を迎えたかによって違うだろうし、もちろん年齢によっても違うだろう。だが、この映画を見て、難癖を付けたくなる人はまずいないように思う。確かに人間の死と正面から向き合っているが、決して深刻ぶるのでもなく、かと言って死者に対する畏敬の念は十分に伝わってくる。それは本木雅弘というストイックな役者だからこそ表現できたものであろう。アカデミー賞を受賞した直後から、彼のこの映画に賭けた熱い思いが各所で伝えられたが、昨今の芸能人としては珍しく、それを宣伝に使うわけでもなく、ただ淡々と静かに心境を語る彼の姿には、俳優を超えた一個の人間として心から敬意を表したいと思う。映画を見終わって、自分が死んだら彼に納棺してもらいたいと思った人は大勢いただろう。かく言う私もその一人だが・・。
 だが、彼を支えた他の役者たちの素晴らしさを忘れてはならないだろう。納棺会社の社長役の山崎努は怪しげな雰囲気をたたえながらも己の仕事に誇りを持っている姿が窺われるし、事務員役の余貴美子も辛い過去を背負いながら流れてきた女性の哀しみを見事に体現していた。ただ、妻役の広末涼子だけは、甘ったるい喋り方が鼻についてしまい、ミスキャストだなと思ってしまったが、それもご愛嬌に思えるくらいで、この映画の後に鬼籍に入ってしまった峰岸徹や山田辰夫も十分にその存在感を示していた。
 こうした助演陣に支えられながら本木雅弘が納棺師役を立派に演じきったのが、この映画の出色ではあろうが、ただそれだけの映画だったらここまで私は感動しなかっただろう。この映画での縦糸が納棺師の仕事であるとするなら、横糸として丹念に紡ぎ込まれていたのは、親子の絆・心のつながりの深さであろう。子供の頃に家出して顔さえも覚えていない父親の死が映画の最終盤に告げられる。それまでの人生に暗く影を落としてきたはずの身勝手な父の振る舞いを決して許せない本木演じる納棺師は、父に会うことを拒むが、妻に諭され父の元へと急ぐ。だが、父を父として認識できない彼は、納棺師といて父の死出の準備を整えることによって、父へのわだかまりが次第に氷解していき、記憶の中でさえヴェールに包まれたように判然としなかった父の顔が、焦点が定まって、亡くなって横たわっている男の顔と一致する。さまざまな思いが交錯しながらも、父とのつながりを確認できた本木雅弘の目は涙で溢れる。もちろん私の目も・・。

 死という冷厳この上ない主題をこうまで暖かく表現した映画は見たことがない。実に素晴らしい映画だった。


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