ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

JOUK秋田放送局を語る集い1

2008年04月27日 | その他
             
JR秋田駅に隣接したNHK秋田新放送会館。駅の構内から秋田市のビル(ホテル同居)とNHK会館までが棟続きなので、夜間以外は雨でも濡れないでNHKへ入館出来てしまう。
             
間もなく解体される官庁街の旧会館。国策によるデジタル化放送への移行に併せた秋田放送会館老朽化移転工事の落成記念式典が26日行われ、同時に秋田旧友会主催の「UKを語る集い」が旧会館隣接の平安閣で、ラジオ放送時代から秋田局に勤務した仲間が全国から集り16:30から開催された。
更地にして市に返還されるこの会館、地方のTV放送本格化に向けて昭和39年からこの地で運用されてきたが、翌40年7月TV中継車に同伴して東京から何故か青二才の自分が6年3ヶ月、そしてリタイアした翌年の平成7年8月、オリンピックに無い競技がアジアで初めて開催された第6回「秋田ワールドゲームズ」の国際映像制作で、思いも因らなかった約三週間の会館勤務と青春時代の懐かしい想い出も沢山詰まったところなのだ。アナログの象徴が自分(アナログ人間)より先に間もなく消滅してしまう。
             
南は九州、北は北海道からも参加した131人+協会から局長以下数人の役職の特別参加もあって大盛況だった。ご存知ない方もたくさん居たが、思わぬ人が自分と入れ違いに勤務していたなんて改めて再認識したり、ほぼ全員が料理や酒も皆んな不要な様子でそれぞれがお互いに話しに熱中した。耳はまだ健在のはずなのに、お互いに耳元に口を近づけないと聞き取れない程で、聞きたい事話したい事もサッパリ伝わらず時間ばかりが過ぎ去り、まるで学校の同級会そのものだった。お互いに知らない間柄ではないので、今更名刺など不要だと思ったが、予めこんな事が予測されたので、前日に文房具屋で用紙を求めてパソコンで名刺を作って持参した。初めは何とも渡し難かったが、一度渡して見ると先方からも意外と待ってましたとばかりに反応があり、そんな人達に限って紙面が真っ黒、ボランテアなどで社会へ数多く貢献していたりして、自分の道楽中心の生活が何とも不謹慎で恥ずかしかった。
お開き直前に技術の紅一点だったAさんにも渡す事が出来た。バックに手をのばして「今日皆んなにこれを貰いたくて、昨日これを買って来たの」と高級な名刺入を取り出した。Aさんは誰よりも一番長く在局したし“皆んな今どんな生活をしているのか”多分そんな事が一番知りたかったのではないだろうか・・・・・・。
             
美味しそうな料理もたくさん出てきたが、何故か腹いっぱいで半分も口にしなかった。皆んな同様で、こんなパーテーでは食欲よりも会話が何よりも優先してしまう。後半に出された秋田を象徴する“稲庭うどん”と“きりたんぽ”とても美味しかったが胸がいっぱいで何れも箸を付けた程度、心のこもった折角の料理なのに料理長ゴメンなさい。
   
                    
技術部39人の二次会は市役所裏の高陽青柳町付近で行われた。この辺は一面田んぼで、下宿を出た後この近くの田んぼの中のアパートにしばらく住んだが、近くには石油井戸もあって、当時既に細々とではあったが石油を汲み上げるポンプが窓越しから見えて、何故か風情と云うよりは何時も寂しさばかり感じていた。存知あげない方も9人ほど居られたが、それぞれの想い出を胸に和やかに仕切り直しとなった。
             
『アッ!ボンナだ!』と思わず秋田の逸品の出現に叫んでしまった。赴任して“かっぱ”に通い始めたばかりの頃だった。「カアさん、今日ボンナあるスカッ」と誰かが頼み「アンタも食べてミレ」とかあさんに薦められた。この時初めて口にした“ボンナ”衝撃的な美味は、以来自分の山菜の王様となりハタハタと共に春は市民市場で買って、客車便でよく実家や親戚に送った事もあったとても懐かしい味との再会であった。
             
予定の時間も一瞬にして過ぎ去ってしまった感覚でとても名残惜しかった。果して再び再会出来る機会はあるのだろうか。“神のみぞ知る”だが、お互いにその為にも元気で過ごして行きたいと念願する。

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