オリンピックは必要か
来年はパリ五輪の年とのことで、盛り上がっている人はそれなりに居るだろうが、一方ウクライナのようにロシアから一方的に侵略され、兵士たちはまさに命がけで必死に戦っている所もある。五輪って「平和の祭典」ではなかったっけ。
もっともこれまでだって、局地的な戦争がありながら、規模があまりに小さい紛争は仕方がないけれど。知らない振りしてかどうかオリンピックってやっていたんだろうね。ソ連がアフガニスタンに侵攻した時は、西側諸国は翌年のモスクワ五輪をボイコットしたことがあった。五輪そのものは参加した国や個人で実施されたわけで、ボイコットを決めた国の、特にメダル候補の選手からは怨嗟の声が大きかった。
しかし、われわれスポーツをやったといって、凡人レベルの人間からすれば、他国に武力で攻め込むような国家の主宰する五輪などキャンセルして、当たり前と思っていた。当該選手にしてみれば、個人的に一生一度かも知れない大きな大きなチャンスであり、そのために苦しい鍛錬にも耐えてきたのだ。何があろうが参加したい。しかし、その意識は、本当にスポーツマンシップに叶うものだろうか。
2021年に実施された東京五輪2020だって、コロナ禍に無観客ということで、無理やり実施された。どうしてもやりたい世界のアスリートに配慮したようで、実は五輪で儲かる人達の経済的理由が大きく、ハエがたかるように、そこに関連する政治家も群がっただけのものではなかったのか。後から随分と汚職が摘発されたけれど、政治家には司法の手は及ばなかった。
各スポーツの頂点として、プロスポーツがある。いつの間にかアマチュアイズムで売っていた五輪にもプロも参加するようになったので、業際が曖昧になっているが、初めからプロで、興行でやってますというならそれもいい。大谷選手の活躍には誰だって喝采を贈る。
最近亡くなられたけれど、広島県出身の女子体操選手だった池田敬子氏など、1950年代に世界で大活躍された方なんだけれど、広島県の柔道師範だった私の師から、池田選手の海外遠征の費用捻出に、親御さんは田畑を売っていたという話を聞いたことがある。1964年は東京オリンピックの年。あの頃の五輪は美しかったように記憶する。
わが国のオリンピックだけでなく、パリ五輪でもすでに関連汚職が摘発されている。要するに五輪さえ拝金主義に堕落しているのだ。大変な戦争を強いられている国がある。停戦さえ見えていない。五輪に使う費用があるなら、戦争で荒廃した当該国家の今後の復興に、残しておいて貰いたいものである。