公用語
社内の公用語を英語にするという企業が日本に現れて話題を呼んでいる。私のように英語に関して「読めず」、「書けず」、「話せず」の3重苦の人間がこのような案件にコメントしても何の説得力もないのだけれど、たとえば社長さんがいくら英語を得意だからと言って、社員全員に英語を強制するようなことは芳しくないなという印象は持った。もっとも社員は勤め人なのだから、英語が嫌な人は英語を公用語にするような会社から退職すればいいことで、社員でも株主でもない人間が当該企業をどうのこうの言う権利はなかろう。しかし、このような会社が増えることは、明確な根拠はないが、日本文化の衰退に繫がる懸念を感じ、どうか同調する企業の増えないことを望みたい気持ちだ。
グローバル化の進んだ現代企業で、外国語の重要性が増していることは事実だ。私のような内向きの人間でさえ、定年退職前の10年間を、出向ではあるが外資との合弁企業で仕事した関係で良く分かる。しかし、企業は組織で成り立っている。ほとんど英語を必要としない部署もある。今さら英語に煩わされるより、心おきなく現在の担当部署に関する業務処理や知識、技能の深化に務めた方が組織全体としてのパフォーマンスは上がる筈だと思う。
そんな中、文藝春秋11月号の塩野七生氏のエッセー「最近笑えた話」では、社内公用語を英語にした企業を名指しで「御冗談でしょう」と笑い飛ばしておられたのは痛快であった。一般の日本人と違い1年の多くをイタリアで過ごす塩野氏のような、外国語に対する免疫力の強いと思われる方が、大の反対意見であったことは心強い。塩野氏の経験からの考察では、想像力は母国語に限るということのようだ。さらに言語と言うスイッチを始終切り換える緊張感は、塩野氏でさえ精神の破綻さえ懸念されるほどの強さがあるという。
また、文藝春秋新年号には「英語より論語を」と題する「国家の品格」の藤原正彦氏と作家の宮城谷昌光氏の対談が載っていたが、ここでも複数の外国語に堪能な藤原氏が、『企業が決めたことですから「どうぞご自由に」と思いますが、いったんやると決めたからには、必ずやり遂げてほしいですね。日本の中で英語を公用語にすれば、企業は潰れるということがよくわかるでしょうから』とこちらも笑い飛ばしておられる。塩野氏、藤原氏のような外国語に堪能な賢人が英語の社内公用語化に疑問を呈していることはわが意を得たりである。
さらに藤原氏は、『経団連などの業界団体も、英語を国民全員が話せないと国際競争力に負けてしまうなどと言ってきましたが、英語と国際競争力に連関はありません。世界で一番英語がうまいイギリスの経済はどうですか。20世紀を通じて斜陽でした。ではどこの経済が優れていたか。世界で一番英語が下手な日本です。数年前のTOEFLの成績では、アジアでは一位がフィリピン、二位がインドで三位がスリランカ。ではこの三カ国がどれほど経済的に発展しているか。・・・』と続けておられる。
私が勤めていた会社も、以前から学卒者の管理職登用要件として、英語力をあげていた。最近はその適用範囲を広げ、またハードルも上げているように聞く。私なども英語が出来ない不都合はいろいろ経験しているので、業務に関わらず英語力の向上を目指すことはいいことだと思うが、人間やっぱり得手不得手があって、日常会話に支障がない程度の英語力を身につけるのは容易ではない人達もいる。また、ある突出した能力の陰には常識外れの無知があったりするものだ。管理職の条件、いわんや社員の条件にその能力が測りやすい特定の項目を取り込んだ場合、組織構成員の多様性が失われる懸念を持つ。「イノベーションはダイバーシティー(多様性)のシナジー(相乗効果)から生まれる」と言われているのだけれど、企業にとって非常に大切な組織としてのイノベーション(変革する能力)を低下させることにならないのか。
藤原氏と宮城谷氏の結論は、日本人ならば日本語をしっかり身につけること。経営者も1流を目指すなら、論語に代表されるような中国の古典を学んで欲しい。とのことのようだが、さて、社内公用語を英語と定めた日本企業の今後に注目である。
社内の公用語を英語にするという企業が日本に現れて話題を呼んでいる。私のように英語に関して「読めず」、「書けず」、「話せず」の3重苦の人間がこのような案件にコメントしても何の説得力もないのだけれど、たとえば社長さんがいくら英語を得意だからと言って、社員全員に英語を強制するようなことは芳しくないなという印象は持った。もっとも社員は勤め人なのだから、英語が嫌な人は英語を公用語にするような会社から退職すればいいことで、社員でも株主でもない人間が当該企業をどうのこうの言う権利はなかろう。しかし、このような会社が増えることは、明確な根拠はないが、日本文化の衰退に繫がる懸念を感じ、どうか同調する企業の増えないことを望みたい気持ちだ。
グローバル化の進んだ現代企業で、外国語の重要性が増していることは事実だ。私のような内向きの人間でさえ、定年退職前の10年間を、出向ではあるが外資との合弁企業で仕事した関係で良く分かる。しかし、企業は組織で成り立っている。ほとんど英語を必要としない部署もある。今さら英語に煩わされるより、心おきなく現在の担当部署に関する業務処理や知識、技能の深化に務めた方が組織全体としてのパフォーマンスは上がる筈だと思う。
そんな中、文藝春秋11月号の塩野七生氏のエッセー「最近笑えた話」では、社内公用語を英語にした企業を名指しで「御冗談でしょう」と笑い飛ばしておられたのは痛快であった。一般の日本人と違い1年の多くをイタリアで過ごす塩野氏のような、外国語に対する免疫力の強いと思われる方が、大の反対意見であったことは心強い。塩野氏の経験からの考察では、想像力は母国語に限るということのようだ。さらに言語と言うスイッチを始終切り換える緊張感は、塩野氏でさえ精神の破綻さえ懸念されるほどの強さがあるという。
また、文藝春秋新年号には「英語より論語を」と題する「国家の品格」の藤原正彦氏と作家の宮城谷昌光氏の対談が載っていたが、ここでも複数の外国語に堪能な藤原氏が、『企業が決めたことですから「どうぞご自由に」と思いますが、いったんやると決めたからには、必ずやり遂げてほしいですね。日本の中で英語を公用語にすれば、企業は潰れるということがよくわかるでしょうから』とこちらも笑い飛ばしておられる。塩野氏、藤原氏のような外国語に堪能な賢人が英語の社内公用語化に疑問を呈していることはわが意を得たりである。
さらに藤原氏は、『経団連などの業界団体も、英語を国民全員が話せないと国際競争力に負けてしまうなどと言ってきましたが、英語と国際競争力に連関はありません。世界で一番英語がうまいイギリスの経済はどうですか。20世紀を通じて斜陽でした。ではどこの経済が優れていたか。世界で一番英語が下手な日本です。数年前のTOEFLの成績では、アジアでは一位がフィリピン、二位がインドで三位がスリランカ。ではこの三カ国がどれほど経済的に発展しているか。・・・』と続けておられる。
私が勤めていた会社も、以前から学卒者の管理職登用要件として、英語力をあげていた。最近はその適用範囲を広げ、またハードルも上げているように聞く。私なども英語が出来ない不都合はいろいろ経験しているので、業務に関わらず英語力の向上を目指すことはいいことだと思うが、人間やっぱり得手不得手があって、日常会話に支障がない程度の英語力を身につけるのは容易ではない人達もいる。また、ある突出した能力の陰には常識外れの無知があったりするものだ。管理職の条件、いわんや社員の条件にその能力が測りやすい特定の項目を取り込んだ場合、組織構成員の多様性が失われる懸念を持つ。「イノベーションはダイバーシティー(多様性)のシナジー(相乗効果)から生まれる」と言われているのだけれど、企業にとって非常に大切な組織としてのイノベーション(変革する能力)を低下させることにならないのか。
藤原氏と宮城谷氏の結論は、日本人ならば日本語をしっかり身につけること。経営者も1流を目指すなら、論語に代表されるような中国の古典を学んで欲しい。とのことのようだが、さて、社内公用語を英語と定めた日本企業の今後に注目である。