タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
徒然草の現代語訳いろいろ
用があり「徒然草」を読むことになった。
といっても、古文が読めるはずもない。
そこで、現代語訳をさがす。
まず、手にとったのが、「徒然草」(兼好/著 島内裕子/校訂・訳 筑摩書房 2010)。
序段を読んでみて驚いた。
その理由を説明するために、まず「徒然草」の原文を引用してみよう。
《徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心うつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。》
引用は、上記の島内裕子/校訂・訳から。
「徒然草」といえばまず思いだされる、大変有名な一節。
略したけれど、原文はまめにルビが振られていて読みやすい。
さて、この原文が、島内裕子さんの訳ではどんな風になるのか――。
《さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態が、このところずっと続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)っていた思いが、浮上してくる。まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで、次々と言葉が連なって出てくる。それは、和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこまでも連なり、揺らめくもの……。そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念を遊泳させながら、それらに言葉という衣裳を纏(まと)わせてこそ、自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか》
すごい超訳だ。
凡例にはこう書かれている。
《「訳」は、逐語訳ではなく、大胆な意訳も含まれる。徒然草の批評文学として魅力を、新鮮なかたちで現代日本語に置き換えたかったからである》
たしかに大胆。
大いに驚いた。
なんだか面白くなってきて、ほかの現代語訳もさがしてみる。
「絵本徒然草 上 」(吉田兼好/原著 橋本治/文 田中靖夫/絵 河出書房新社 2005)
橋本治さんは、「枕草子」を現代女性口語訳した「桃尻語訳」で名高い。
橋本さんなら、現代語訳の極端な例をみせてくれるだろう。
《退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!》
大変簡潔な訳。
分量も原文と同じくらいだ。
兼好法師は、序段と75段でだいぶ矛盾したことを書いている。
序段では、「徒然なるままに書いていると物狂ほしくなる」といっているけれど、75段では、「徒然こそ素晴らしい」といっている。
そのちがいを、橋本治さんは、文章が書かれたときの年齢の差とみた。
「徒然草」は一度に書かれたわけではなく、かなり時間のへだたりをもって書かれたという説があり、橋本さんはその説をとった。
つまり、序段を書いたのは、まだ出家前の卜部兼好青年であり、75段を書いたのは、出家後の兼好法師オジサン。
さらに、橋本さんは兼好ジーサンを創作し、このジーサンに本文の註をしゃべらせている。
兼好ジーサンが、物狂ほしいという兼好青年の文章にいうのはこんなことばだ。
《お前さんがまだ、ロクにものを知らない、しかし理屈ばかりは言いたがる若造だったというだけじゃ》
さらにもうひとつ。
「徒然草」(角川書店/編 武田友宏/訳・註 角川書店 2002)
本書は、角川書店が古典の入門書として出版した「ビギナーズ・クラシックス」シリーズの1冊。
ビギナーズ・クラシックと名乗っているくらいだから、これが平均的な訳なのだろうか。
《今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。
人から見れば狂気じみた異常な世界だろうが、私には、そこでこそほんとうの自分と対面できるような気がしてならない。人生の真実が見えるように思えてならない。独りだけの自由な時間は、そんな世界の扉を開いてくれる。》
うーん。
橋本訳がいちばん原文に近い感じがするのはどうしたことか。
序段と75段の矛盾を解消しようとするから、ことば数が増えてしまうのか。
古文の現代語訳は、外国語の翻訳とずいぶんちがうよう。
「硯」ということばを訳文でも用いているのは、橋本訳だけだ。
名詞は原文をみればわかるから、訳文に用いることはないということだろうか。
それにしても、なんという訳文の幅の広さだろう。
古文の現代語訳も、ならべてみたらきっと面白いにちがいない。
といっても、古文が読めるはずもない。
そこで、現代語訳をさがす。
まず、手にとったのが、「徒然草」(兼好/著 島内裕子/校訂・訳 筑摩書房 2010)。
序段を読んでみて驚いた。
その理由を説明するために、まず「徒然草」の原文を引用してみよう。
《徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、心うつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。》
引用は、上記の島内裕子/校訂・訳から。
「徒然草」といえばまず思いだされる、大変有名な一節。
略したけれど、原文はまめにルビが振られていて読みやすい。
さて、この原文が、島内裕子さんの訳ではどんな風になるのか――。
《さしあたってしなければならないこともないという徒然な状態が、このところずっと続いている。こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)っていた思いが、浮上してくる。まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いているようで、次々と言葉が連なって出てくる。それは、和歌という三十一文字からなる明確な輪郭を持つ形ではなく、どこまでも連なり、揺らめくもの……。そのことが我ながら不思議で、思わぬ感興におのずと筆も進んでゆく。自由に想念を遊泳させながら、それらに言葉という衣裳を纏(まと)わせてこそ、自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか》
すごい超訳だ。
凡例にはこう書かれている。
《「訳」は、逐語訳ではなく、大胆な意訳も含まれる。徒然草の批評文学として魅力を、新鮮なかたちで現代日本語に置き換えたかったからである》
たしかに大胆。
大いに驚いた。
なんだか面白くなってきて、ほかの現代語訳もさがしてみる。
「絵本徒然草 上 」(吉田兼好/原著 橋本治/文 田中靖夫/絵 河出書房新社 2005)
橋本治さんは、「枕草子」を現代女性口語訳した「桃尻語訳」で名高い。
橋本さんなら、現代語訳の極端な例をみせてくれるだろう。
《退屈で退屈でしょーがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると、ワケ分かんない内にアブナクなってくんのなッ!》
大変簡潔な訳。
分量も原文と同じくらいだ。
兼好法師は、序段と75段でだいぶ矛盾したことを書いている。
序段では、「徒然なるままに書いていると物狂ほしくなる」といっているけれど、75段では、「徒然こそ素晴らしい」といっている。
そのちがいを、橋本治さんは、文章が書かれたときの年齢の差とみた。
「徒然草」は一度に書かれたわけではなく、かなり時間のへだたりをもって書かれたという説があり、橋本さんはその説をとった。
つまり、序段を書いたのは、まだ出家前の卜部兼好青年であり、75段を書いたのは、出家後の兼好法師オジサン。
さらに、橋本さんは兼好ジーサンを創作し、このジーサンに本文の註をしゃべらせている。
兼好ジーサンが、物狂ほしいという兼好青年の文章にいうのはこんなことばだ。
《お前さんがまだ、ロクにものを知らない、しかし理屈ばかりは言いたがる若造だったというだけじゃ》
さらにもうひとつ。
「徒然草」(角川書店/編 武田友宏/訳・註 角川書店 2002)
本書は、角川書店が古典の入門書として出版した「ビギナーズ・クラシックス」シリーズの1冊。
ビギナーズ・クラシックと名乗っているくらいだから、これが平均的な訳なのだろうか。
《今日はこれといった用事もない。のんびりと独りくつろいで、一日中机に向かって、心をよぎる気まぐれなことを、なんのあてもなく書きつけてみる。すると、しだいに現実感覚がなくなって、なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。
人から見れば狂気じみた異常な世界だろうが、私には、そこでこそほんとうの自分と対面できるような気がしてならない。人生の真実が見えるように思えてならない。独りだけの自由な時間は、そんな世界の扉を開いてくれる。》
うーん。
橋本訳がいちばん原文に近い感じがするのはどうしたことか。
序段と75段の矛盾を解消しようとするから、ことば数が増えてしまうのか。
古文の現代語訳は、外国語の翻訳とずいぶんちがうよう。
「硯」ということばを訳文でも用いているのは、橋本訳だけだ。
名詞は原文をみればわかるから、訳文に用いることはないということだろうか。
それにしても、なんという訳文の幅の広さだろう。
古文の現代語訳も、ならべてみたらきっと面白いにちがいない。
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