たらいまわし本のTB企画第43回「音とリズムの文学散歩」

たらいまわし本のTB企画
通称「たら本」。

第43回目(42回目は欠番)の主催者さんは、おかぽれもん。のpicoさん。

今回のお題は「音とリズムの文学散歩」

●小説に登場した心を捉えて離さない音楽
●または小説の世界に興味を抱き実際に聴いてみた音楽
●好みの音楽が登場して親近感が沸いた小説
●小説に登場する気になる音とリズム、オノマトペ
●文体のリズムが踊り小説自体がすでに音楽と化している
●小説に感化され楽器(音楽)をはじめたくなった

などなど、音楽を感じ音楽を抱きしめた文学を教えてください。

…ということなのだけれど、うーん。
音楽は不得手なジャンルだ。
知識がないし、楽器もできない。
小説のなかで語られている曲が、頭で鳴り響くということもない。

それに、これは「たら本」に参加するようになって自分のクセに気づいたのだけれど、そもそも小説のディティールをろくに読んでいない…、ということがある。

でもまあ、気をとりなおして、音楽にかんする本を思いつくままに挙げていこう。

「黙されたことば」(長田弘 みすず書房 1997)
これは詩集。
なかに、クラシックの音楽家たちをとりあげて一篇の詩にした作品群がある。
とりあげられた音楽家は、バッハ、シューマン、フォーレ、マーラー、シューベルト、ビゼー、ショパン、ブラームス、ヴェルディ、ハイドン、他、他…。

例を挙げたほうが早い。
シューベルトをとりあげた詩で、タイトルは「短い人生」。

「幸福とは何一つ所有しないことである。
 自分のものといえるものは何もない。
 部屋一つ、机一つ、自分のものでなかった。

 わずかに足りるものがあればかまわない。
 貧しかったが、貧しいとつゆ思わなかった。
 失うべきものはなかった。

 現在を聡明に楽しむ。それだけでいい。
 無にはじまって無に終わる。それが音楽だ。
 称賛さえも受けとろうとしなかった。

 空の青さが音楽だ。川の流れが音楽だ。
 静寂が音楽だ。冬の光景が音楽だ。
 シューベルトには、ものみなが音楽だった。

 旋律はものみなと会話する言葉だ。
 神はわれわれに、共感する力をあたえた。
 無名なものを讃えることができるのが歌だ。

 遺産なし。裁判所はそう公示した。
 誰よりたくさんこの世に音楽の悦びを遺して
 シューベルトが素寒貧で死んだとき」

なにかクラシックの曲を聴いたときは、長田さんはなんていってたっけと、この本をひもとくのがくせになってしまっている。

「アメリカの心の歌」(長田弘 岩波書店 1996)
これも、長田さんの本で、アメリカのポピュラー・ソングについて記したエッセイ集。
紹介されている曲を聴きたくなり、何枚かCDを買ってしまった。
この本からは、ナンシー・グリフィスについての一文を。

ナンシー・グリフィスはカントリー・ソングの歌い手(長田さん風にいえば、歌うたい)。
アルバムのジャケットに小道具として本を用いるという、ほかのひとがあまりしないことをする。
その本は周到に選ばれていると長田さん。
「それは南部人。そしてテキサス人の作家たちの本に意識的にかぎられている」

ナンシー・グリフィスが本をジャケットの小道具としてつかうのは、彼女の歌に対する考え方から。

「ナンシー・グリフィスにとって、歌は本なのだ。歌を本とすれば、本は歌だ。歌と本は人びとの日々の経験の表裏をなして、同時代の生きる感覚を分けあう共通の場を、いま、ここにともにつくってきた」

「本を自己表現とするニューヨークの作家たちとちがって、南部の、そしてテキサスの作家がしてきたことは、ヴォイス(声)を本に書きとることだ。耳を澄ますと聞こえる、土地のヴォイス。日々の光景にひそんでいるヴォイス」

このあと、カポーティの本のタイトルからとったアルバム、「遠い声、遠い部屋」が取り上げられている。
本を抱きしめ、あごをそらして笑うナンシー・グリフィスのジャケットが印象的。
このアルバムも買ってしまった。
気持ちのよい、カントリー・ソング集だった。

主催者のpicoさんは、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」をとりあげられていた。
「セロ弾きのゴーシュ」は高畑勲監督により、アニメにもなっている。
このアニメで、音楽の間宮芳生さんによる「印度の虎狩り」を聴くことができる。

「セロ弾きのゴーシュ」で思い出した。
「日本語ということば」(赤木かん子・編 ポプラ社 2002)に収められた、「「あまえる」ということについてという作文。
書いたのは、当時、小学2年生だった中村咲紀さん。
中村さんが、それまでの全人生を投入して書いた、渾身の作文。

「ゴーシュは、ようちえん時だいのわたしとそっくりでした」

と、書く、中村さんのこの作文は、「セロ弾きのゴーシュ」にかんする最高の手引き書だと思う。

「《セロ弾きのゴーシュ》の音楽論」(梅津時比古 東京書籍 2003)、という本のことも思い出した。
じつは未読。

著者の梅津さんは、長いこと毎日新聞にクラシックについてのコラムを書いている。
新聞のなかで、そこだけ湖面のようにみえる、静けさをたたえたコラム。
その文章は一種の美文で、マンガ「のだめカンタービレ」(二ノ宮知子 講談社)に、やたらと気の利いた文句を並べ立てる音楽評論家があらわれたとき、失礼ながら梅津さんのことを思い出した。

梅津さんのコラムは「フェルメールの音」(梅津時比古 東京書籍 2001)で読むことができる。
「《セロ弾きのゴーシュ》…」もいずれ読んでみたい。

またべつのことを思い出した。
花巻の宮沢賢治記念館にいったときのこと。
各国語に訳された賢治作品が展示されていて、中国語になった「風の又三郎」の冒頭はこんなふうだった。

「斗斗斗斗斗斗斗斗斗斗斗」

字の数はちょっとちがっているかも。

――小説のディティールを読まないなら、いったいなにを読んでいるのか?
たぶん構成ばっかり読んでいるんだと思う。

山本周五郎に「よじょう」という、宮本武蔵を題材にした短篇がある。
この作品は、ラヴェルの「ボレロ」から想を得たと、たしか文庫本の解説に書いてあったと思った。
どの文庫に収録されていたのか、忘れてしまったけれど。

「ボレロ」でまた思い出したけれど、アニメ映画「デジモンアドベンチャー」でも、「ボレロ」は効果的につかわれていた。
「よじょう」と「デジモン」は「ボレロ」でつながっている。

「ティーパーティーの謎」(カニグズバーグ 岩波書店 2000)
この作品も、クラシックから構成の想を得たもの。
巻末の、娘さんによる文章によれば、カニグズバーグはモーツァルトの交響曲40番ト短調の第一楽章を聴いて、いつの日かこの曲をモデルにして本を書いてみよう、と思ったそう。

「短い導入部分や主題のくり返しがある本を書いてみたいわ。それぞれ別のメロディーなのにからみあっていて、それがくり返しながらつながっていくのよ」

本書の導入は、「博学大会」州大会決勝戦から。
決勝戦の模様とともに、参加メンバーの4人と担任の先生の話が織りまぜながら語られる。
その構成はみごとのひと言。
カニグズバーグの本をぜんぶ読んだわけではないけれど、いまのところこの作品がいちばん好きだ。

気になってモーツァルトも聞いてみた。
クラシックは聴くとあれかあと思い当たるものが多いけれど、この曲もそうだった。

最初のほうで、長田さんによるシューベルトについての詩を紹介したけれど、シューベルトは絵本にもなっている。
「リトル シューベルト」(M.B.ゴフスタイン アテネ書房 1980)。

タイトルはすこし固いように思う。
「シューベルトくん」くらいでいいような気がする。

この作品でも、シューベルトくんは素寒貧。
火の気もない小さい部屋で、せっせとだれにも聞こえない音楽を書きつける。
寒さで指がこごえると、ぽかぽかするまで部屋のなかで踊る。

1980年に出版されたこの絵本には、付録としてレコードがついている。
「いまから150年ほど前、ウィーンの町のあの小さな部屋で、フランツ・シューベルトが書きあげた「高雅なワルツ」全12曲のうち5曲をおさめたものです」

でも、うちにはレコードプレイヤーはない。
いつか、CDででも聴いてみたいものだ。

ゴフスタインにはこんな作品も。
「ピアノ調律師」(M.B.ゴフスタイン すえもりブックス 2005)

デビーのおじいさん、ルーベン・ワインストックは素晴らしいピアノ調律師。
デビーもピアノ調律師になると心にきめているが、おじいさんはピアニストになってほしいと思っている。
ある日、ルーベンの友人で偉大なピアニスト、アイザック・リツプマンが町にやってくる。
ルーベンは、リップマンの演奏を聴けば孫娘も心変わりをするのではないかと思うが…。

リップマンの演目はこう。
・バッハの「幻想とフーガ」
・ベートーベンの「3楽章からなるソナタ」
こういうとき、教養があって、すぐ曲を思い浮かべることができたらなあ。

リップマンの演奏がどんなだったのかは、まるで書かれていないのだけれど、素晴らしい演奏だったにちがいない。
そう思わせるのはゴフスタインの筆力だろう。

…なんだか、とりとめがなくなってきた。
最後に、「ピアノ調律師」からリップマンの名セリフをひいて終わりにしよう。

「もし、ピアノを弾くことが本当に好きな人だけがピアノを教えてくれたら、世界はもうすこし良いところになっているかもしれないよ」


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