かぶれの世界(新)

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55年ぶりの邂逅

2014-08-10 22:18:21 | 日記・エッセイ・コラム

 4月末に田舎に来ていつもの散歩コースの川沿いの道に向かう道を歩いていると、前方に車が止まり大柄な老人が出てきて笑顔で声をかけて来た。彼が名を名乗るまで、誰か全く分からなかった。それもそのはず、最後に口を利いたのは55年前に小学校を卒業した頃だったはずだ。彼は私の後ろ姿と歩き方が父そっくりだったので私だと分かったという。良く言われる。

 その後暫く話し合って近況を確かめ合い別れた。彼は東京の大学を卒業後貿易商社に勤め、その後のれん分けして松山に会社を作ったと母から聞いた。こちらにある実家は豪邸だが今はもったいないことに誰も住んでいない。リーマンショック後ずっと経営が苦しく、70才を過ぎてまだ現役だと笑いながら言った。4人の子供は全てお嬢さんで後継者をどうするか悩んでいるという。

 最後に我々がどういう家系の下にあるのか、きちんと纏めて子供に残しておきたいので協力してくれと頼まれ、私も是非そうしたいと快諾した。この年齢になると皆そういう気持ちになるのかと改めて思った。その後、我々が持っている情報をメールで交換し合った。実は、両家は親戚ではないが遠い昔に祖先を同じくする家系にあるという記録が残っている。

 長宗我部氏の家臣だった祖先太郎兵衛元忠(~1690)は一族郎党を引き連れ伊予大洲に来て土着した。何故この地に移ったのか。私の推測は徳川秀忠が二代目将軍になった慶長10年(1605)山内一豊が土佐の国主になった時、長曾我部氏の元家臣は甘んじて下士になるか、抵抗して殺されるか、逃げるか選択を迫られ、我々の先祖は土佐を逃れた。

 私の推測を補強する説を幼馴染は聞かせてくれた。それは元忠が農民になる条件でこの地に住むことを大洲藩主に許されたというものだ。この地に来た時はよそ者で山の中に隠れてひっそり過ごしただろうことは、国土調査時に我が家の山林の一部が妙に細かく分割された地番から推測された。この辺は江戸時代からの地図のまま登記されていた。

 土佐から逃げた(だろうという)件に関連して今年4月に「400年ぶりの邂逅」と題した記事を投稿した。その子孫の私が山内家の血を引く子孫と仕事上で交わったという内容だった。ネットで調べたところ長曾我部氏の主な家臣の中に先祖の名前は無く、中級以下の無名の家臣だったと思われる。高知県南国市に長曾我部氏由来の博物館があるのでいつか調べてみたい。

 10日前に調べた内容を纏めた資料にお茶と菓子を入れた小包が幼馴染から届いた。資料をチェックし現状の家族状況をアップデートしてくれというものだった。残念ながら新しい発見は何もなかった。■

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