さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 カウナス その1

2015年06月25日 | 海外旅行
タリン到着後、ヴィリニュスまでは南下を続けてきましたが、第五日目からは折り返して北上を開始することになりました。まずはヴィリニュスから北西に110kmほどの距離にあるカウナスを訪れました。

カウナスは、15世紀にはハンザ同盟年として栄えたリトアニア第二の都市です。第二次世界大戦直前の1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されると、カウナスは臨時に首都になりました。

カウナスは長い歴史を持つ古都ですが、この街を訪れる日本人観光客が目的とするのは、この杉原記念館です。



旧市街地から少し離れた山の手の住宅街に、かつては旧日本領事館であった杉原記念館があります。

杉原千畝は、ユダヤ人に日本の通過ビザを発行して多くの命を救い、「日本のシンドラー」とも呼ばれていますが、そのいきさつを理解するには、第二次世界大戦直前のリトアニの置かれた政治状況も合わせて振り返る必要があります。



杉原千畝氏のとった行動については、実際にヨーロッパへの赴任に同行していた妻・杉原幸子氏と長男・杉原広樹氏によって著された「杉原千畝物語 命のビザをありがとう」(フォア文庫)によって知ることができます。この本は、子供も対象にしているようで、漢字には全てルビが降られていますが、内容は重たいものです。

第一次大戦後、リトアニア共和国が誕生しますが、ポーランドとの領土問題を抱えることになって、1920年にヴィリニュスがポーランドに併合されると、カウナスが臨時首都にされました。

1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されましたが、これはポーランド分割とバルト三国のソ連への帰属という秘密条項を持ったものでした。1939年9月1日、ドイツがポーランドに進攻し、英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まりました。9月17日には、ソ連もポーランドに進攻しましたが、これに対しては英仏は宣戦布告を行いませんでした。

1939年11月、ヘルシンキで公使代理になっていた杉原氏は、カウナスの日本領事館の領事代理に赴任しました。

ロシア語に堪能であった杉原氏の任務は、間近と思われた独ソ開戦の時期の情報を収集することでした。

そのために杉原氏は、亡命ポーランド政府の情報将校と関係を持ち、状況悪化後はポーランドの情報将校とその家族を安全地域に逃すために600名分ほどのビザを発給するという計画をたて、これは本省の了解も得ていたようです。しかし、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民のリトアニアへの流入とカウナスの日本領事館への殺到という想定外の事態になって、運命は大きく変わってしまうことになります。

1940年5~6月、ドイツがオランダ、フランスを占領。
7月 バルト三国がソ連加盟を決める。

オランダ領事ズヴァルテンディクは、祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでおり、ユダヤ人の国外脱出のため、オランダ領であったキュラソーへの入国許可書の発行を思いつきます。スタンプまで作って、その「偽キュラソー・ビザ」を大量発行しますが、次の問題は、日本の通過ビザでした。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外で、逃げ道としては、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていませんでした。

7月27日、突如大勢のユダヤ人難民が、カウナスの日本領事館を取り囲みました。これらのユダヤ人は、ドイツ支配地での迫害から逃れるため、シベリア鉄道経由で極東に到り、日本を経由して米大陸へと渡るため、日本の通過ビザを求めるために集まってきたものです。

領事代理として、杉原氏はビザ発給の許可を本国の外務省に問い合わせますが、日独同盟の関係で、許可は得られませんでした。

7月31日、悩んだ末、杉原氏は、職を失う覚悟の個人的判断で、ビザの発給を開始しました。それからは、毎日、朝から夜遅くまで手書きでビザを書き続けました。

8月3日にリトアニアはソ連に併合されることが決まり、ソ連からも退去通告が出されるようになりました。8月28日、ついにカウナスの領事館を閉鎖してベルリンへ移動せよという命令が届いてしまいました。領事館閉鎖の作業を終えてホテルへ移動しますが、期限ぎりぎりの8月31日までホテルに滞在し、ビザに代わる許可書を発行し続けました。9月1日、ベルリン行きの国際列車に乗り込みますが、発車まで許可書を書き続けました。

ヴィリニュスからの出発の様子は、本から引用しましょう。

それでも、とうとう出発の時間になりました。
パパの顔が、くるしそうにゆがんでいます。
「ゆるしてください、みなさん。わたしには、もうこれ以上、書くことはできません。みなさんのご無事を、祈っています。」
パパは、そういいながら、窓の外の人たちに、ふかぶかとおじぎをしました。
汽車はゆっくりと走りだします。
「ありがとう、スギハラ!」
だれかが、さけびました。
「バンザイ、ニッポン!」
といって、両手を上げる人もいます。
「スギハラ!わたしたちは、あなたを忘れない。もう一度、あなたにお会いしますよ!」
汽車とならんで、泣きながら走っていた人が。わたしたちが走りさるまで、何度も、そうさけびつづけていました。

杉原氏一家は、ベルリン、プラハと移動を繰り返し、東プロイセンのケーニヒスベルグに赴任していた時の1941年12月8日に真珠湾攻撃が起きて、日本とアメリカの戦争が始まってしまいました。次いでルーマニアのブカレストに赴いた時の1945年4月30日にヒトラーが自殺してドイツは戦争に敗れました。日本は、まだ戦いを続けていましたが、8月8日にソ連が日本に宣戦布告。8月15日に日本はボツダム宣言を受け入れて降伏しました。敗戦国の外交員は収容所に集められ、杉原氏一家が開放されてシベリア経由で日本に戻れたのは1947年2月のことになりました。

外務省に赴いた杉原氏ですが、「例の一件のこともあって」外務省の人員削減の対象になり、民間人として貿易の仕事につくことになりました。外務省の杉原氏への冷遇は、それ以降も続くことになります。

杉原氏は、カウナスにおいて発行したビザの結果については、知らないままにいましたが、1968年8月になってからイスラエル大使館からの呼び出しがありました。そこで出会ったのは、カウナスでビザを発行してもらい、現在ではイスラエル大使館の参事官になっているニシュリ氏でした。ニシュリ氏がまず見せたのは、ボロボロになっているビザでした。ビザを受け取って無事にアメリカい渡ったユダヤ人は、戦後、杉原氏を探していたとのことです。ただ、杉原氏は、チウネという名が外人には発音しにくいので、いつもセンポ・スギハラと名のっており、そのために探せませんでした。

「わたしたちは、あなたを忘れない。もう一度、あなたにお会いしますよ!」の言葉は果たされ、後に、ユダヤ人を助け、イスラエルの建国につくした外国人与えられる「諸国民の中の正義の人賞」を日本人として初めて授与されました。

杉原氏の「命のビザ」によって救われたユダヤ人は、6000人を超えるといいます。また、カウナスに残されたユダヤ人は、すべてドイツあるいはソ連の収容所で命を落としたとも言われています。

ちなみに、「日本のシンドラー」と呼ばれることから付け加えますが、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」は、ナチスドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を、自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描いています。

救った人数で優劣はつけられませんが、杉原氏の救った6000人という数は、称賛してもしきれないものだと思います。



記念館に入ると、まずは出身地の岐阜県加茂郡八百津町が作った命のビザについてのビデオを見ることになりました。20名ほどで一杯になる部屋のため、私たちのグループは二つに分かれての視聴になりました。



執務室。



机の上に、杉原千畝氏の写真が置かれていました。



カウナスにおける杉原一家の写真。

右から幸子、弘樹(長男)、千暁(次男)、千畝、節子(幸子の妹)



机の上には、関係書類が乗っています。



パスポート。

当時の緊迫した状態を想像することになります。



壁には、日本の本省とのビザ発行についてのやりとりの書類が掲示されていました。



執務室の窓辺。訪問記念の記帳ノートが置かれていました。



もう一室は、写真が掲示されていました。

お土産としてチョコレートが売られていました。



売り上げが少しは助けになるかなと思って、チョコレートを買いました。



中身はトリュフチョコレートでした。

カードの裏には、募金への感謝のメーセージが書かれていました。チョコレートが食べて無くなっても、カードが記念品として残るので、訪れたら買ってあげましょうね。



一階の仕事場は、後は事務室になっている部屋があるだけで、4室のこじんまりしたものでした。



内部の見学を終えて、外から建物を見てみました。

建物は斜面に建っており、車道は上にあり、一階部が仕事場になっています。二階は、家族の居住スペースで、三階の屋根裏部屋に従業員が入ったいました。



車道側からの眺め。

塀の向こうは二階への入り口になります。

現在、二階部分は、東アジア地域(日本、北朝鮮、大韓民国、台湾、中国)を研究対象とするアジア研究センターになっており、一般観光客には非公開になっています。

二階部分まで含めて杉原記念館としてもらいたいものです。杉原記念館は、一階部分を維持するのが資金的にやっとという感じで、このようなところからも日本の外交部の杉原氏への冷淡さがうかがわれます。



門柱には、「希望の門 命のヴィザ」と書かれていました。この門の周囲を大勢のユダヤ人が取り巻いたことになります。



杉原記念館の前の通りは、住宅地になっていました。

現在、「杉原千畝 スギハラチウネ」と題して映画が撮影中で。2015年12月5日に公開される予定です。映画の完成を楽しみにしています。この映画がきっかけでリトアニアを訪れる人が多くなっても欲しいです。

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