さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 リムリック

2018年07月17日 | 海外旅行
リムリックは、ダブリンの南西、アイルランドでもっとも長いシャノン川の河口にあるアイルランド第三の街です。旅客機の航続距離が限られた時代には、ここのシャノン空港が、ヨーロッパとアメリカ大陸を結ぶ大西洋路線の給油地となっていました。

リムリックは、鉄道を使うとダブリンから2時間強かかりますが、一旦リムリックジャンクションで乗り換えることになります。イギリスやアイルランドの鉄道は、幹線が街の郊外を通過しており、〇〇ジャンクションで乗り換えということがままあります。



シャノン川に架かるレモンド橋のたもとに契約の石が置かれています。

9世紀にバイキングによってつくられたリムリックは、その後ノルマン人が入植し、17世紀に起きたイギリスとの闘いに端を発するカトリックとプ ロテスタント全面対決の際にも最後まで戦場となりました。

カトリック信仰を有するイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)は、1688年から1689年にかけて行われたクーデターによって、王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド王位につきました。この政変は、血が流されなかったことから名誉革命と呼ばれまています。

フランスに逃れたジェームズ2世は捲土重来を図って、1689年3月、フランス軍を伴ってアイルランドに上陸しました。かくしてジェームズ2世=カトリック勢力とウィリアム3世=プロテスタント勢力の戦い(ウィリアマイト戦争)が始まりました。しかし、ボイン川の戦いで敗れたジェームズ2世は敗残の味方たちを置き去りにしてフランスに逃れてしまいました。残されたアイルランド軍も最後まで抵抗したものの、リムリックで降伏しました。
この際、アイルランドにおける宗教の自由と地位の保証を認める「リムリック条約」がこの街で結ばれました。

しかし、イングランドは、この条約を守らず、カトリック教徒を処罰する法律を次々と制定していきました。そのため、リムリックにある「条約の石」は「イングランドの裏切り」の象徴になりました。「イングランド人の裏切りとリムリックを忘れるな」というアイルランドの格言が残りました。

ウィリアマイト戦争までみてみると、どこが無血革命じゃいと思ってしまいます。

対岸に見えているのは、ジョン王の城。



ジョン王の城は、イングランド王ジョンによって、1210年にトモンド橋の防御のために造られた城です。



中世の城としての構造は備えているのですが、ジョン王の二代後のエドワード1世がウェールズ侵攻のために建てたコンウェイ城、ボーマリス城、カナーヴォン城と比べると、美しさが足りないて気がしました。エドワード1世が十字軍に参加して中東の築城術を知ったのに対し、ジョンはリチャード1世の十字軍参加の間にイングランドに留まっており、この差が出ているのでしょうか。それとも、ジョン王は、ロビン・フッド伝説などで、敵役というイメージが刷り込まれているせいでしょうか。









城壁からは、シャノン川を良く眺めることができました。



南の市街地に見えるのは、聖メアリー大聖堂。



リムリックにおける最古の教会で、かつてはマンスターの王ドナルド・モー・オブライエンの居城でしたが、1172年に土地が寄付されて教会が建てられました。



ピープルズ・パークの近くの時計塔。

訪問当時は、行きあたりばったりに訪れたリムリックですが、最近ではアイルランドの中で最も治安の悪い街の一つと言われているようです。

アイルランドは、ガイドブックも無しに歩いたり、魅力の一つである自然の風景は見ていないので、ツアーで訪れて改めて旅行記をまとめたいと思っています。ただ、ツアーには含まれない場所も訪れているので、とりあえず載せておきます。
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