さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 メルブ遺跡 その1

2019年12月31日 | 海外旅行
第八日目は、メルブ遺跡を見学してからトルクメナバードを経てトルクメニスタンを出国し、ウズベキスタンのブハラに泊まることになりました。

メルブ遺跡の入口。



入口脇には、メルブ遺跡の模型が展示されていました。メルブは中央アジア最大の遺跡で、シルクロードのオアシス都市として栄えました。



模型よりも地図の方が判りやすいので、こちらで説明。

マルグッシュから人が移ってきて、紀元前1000年前より都市文化が起こりました。紀元前6~4世紀のアケメネス朝時代に、地図で右上の円形部分で示されるエルク・カラが建設されました。その後アレキサンダー大王がこの地を制覇し、「アレキサンドリア」という名前になった時期もありましたが、アレキサンドリア帝国が崩壊した後にできたセレウス朝時代には、グヤウル・カラが築かれました。地図では丸いエルク・カラの下の地区です。グヤウル・カラは、その後、バルティア朝からサザン朝まで使われ、宗教的には仏教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教が共存した帝国になっていました。グヤウルとは「狂った」という意味で、様々な宗教が入り乱れていたことに由来します。グヤウル・カラの南東の一隅では仏像や仏典が発掘されたことから仏教遺跡であることが判りました。ここで発掘された仏像は、これより西では発見されないことから、「最果ての仏像」と呼ばれます。7世紀半ばにウマイヤ朝によってイスラム化が進み、11世紀~12世紀にはトルコ系のセルジューク朝の支配下となり首都とされました。その頃に建設されたのが図の左側のスルタン・カラ部です。1221年にモンゴル軍が来襲するまでは繁栄を極めました。南に見られる地域はアブドゥラ-カーンカラおよびバイラム-アリ-カーンカラと呼ばれるもので、中世後に造られたものです。



遺跡は広大なため、バス移動に乗って移動していくと、スルタン・カラの外壁が見えてきました。



スルタン・サンジャール廟が現れましたが、見学は後にして、そのまま通過。



立派な外壁が続いていました。



ハマダーンモスクのようです。現役の宗教施設のようで、きれいに修復されていました。



エルク・カラが見えてきました。



エルク・カラの下に到着しました。



丘へ登りました。結構急で階段は整備されていないため、滑りやすい砂地で足元には注意が必要です。海外旅行では、ウォーキングシューズが必須です。



丘の上からは、円形になったエルク・カラの全容を眺めることができました。



中央の平坦部に残されているのは、神殿や塔の土台部でしょうか。






分厚い外壁が続いていました。



丘の上からは、周囲の展望が開けていました。これはスルタン・サンジャール廟。



見下ろした駐車場。



再びバスに乗って、仏教寺院遺跡の見学に向かいました。



ここで仏像や経典が見つかったことから、仏教寺院の跡であることが判ったようです。ここで見つかった仏像や経文を納めた壺は、アシガバードの国立博物館で見学しました。

印度で始まった仏教遺跡は、メルブが最西端であることから、ここで発見された仏像は「最果ての仏像」と呼ばれ、NHK特集シルクロードの中でも第13回「灼熱 黒砂漠 〜さいはての仏を求めて〜」で取り上げられています。東のさいはては、日本となります。



幾つもの僧房が並んでいたようです。





仏教寺院跡から眺めたエルク・カラ。



仏教寺院跡の周囲には、タマリスク(ギョリュウ)の灌木が広がっていました。灌木が茂るようになったのは、運河のおかげですが、それとともに水に弱い日干しレンガ造りの遺跡に大きなダメージを与える危険性が増しているようです。



タマリスクの花のアップ。



世界遺産の遺跡ですが、のどかに牛が放牧されていました。
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