ブラナの塔の見学を終えて、ブラナの塔の北西6km程の距離にあるアク・ベシム遺跡に向かいました。
途中、鉄道を横断しましたが、線路脇には羊の群れがのんびり草を食んでいました。
キルギスの鉄道は、国のほとんどが山岳地帯であったり、線路幅が違っていたりして発達していないようです。1日に1便程度が運行される程度のようです。
ヒマワリ畑が現れたので、撮影停車になりました。雪山を背景としたヒマワリ畑は、ほかでは見られない風景です。
アク・ベシム遺跡に到着しましたが、入り口のゲートのようなものはありませんでした。
アク・ベシム遺跡は、ブラナの塔のあるバラサグン遺跡と同じく、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として2014年に登録された世界遺産の構成資産の一つになっています。
といっても、バスの中での説明で、添乗員は期待しないようにと予防線を張っていました。
世界遺産にもかかわらず、土産物屋のようなものはなく、観光客は他に見当たりません。
高まりに上がって前方に見えてきたのが、アク・ベシム遺跡です。草の生えた溝があり、これが遺跡のようです。
アク・ベシム遺跡は、仏教寺院跡が発掘されたことから、唐代の砕葉城(スイアーブ)跡と考えられています。
砕葉城(スイアーブ)は、中国からタリム盆地を通り、ベデル峠を越して天山山脈に向かう交易路の交差点に位置しています。玄奘三蔵法師は、天山南路の途中からベデル峠を越してイシク・クル湖の南岸に出て、この砕葉城(スイアーブ)に到って突厥の王から歓待を受けました。
玄奘三蔵法師の訪問地としては、高昌国の高昌故城が有名ですが、それと比べると、見るものがほとんどなく、想像力を最大限に発揮する必要があります。
高昌故城はこちら
規則的な溝が掘られているのは、建物の土台跡でしょうか。
歩道として整備されていないので、足元の土を崩して溝に落ちないように注意する必要がありました。
アク・ベシム遺跡見学にあたっては、「世界遺産は必ずしも観光スポットではない」、ということを頭に入れておく必要があります。
トクマクは、玄奘三蔵法師の他にも中国の著名人ゆかりの地になっています。その人物とは、「詩仙」と称される李白。
李白の出自および出身地には諸説ありますが、現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀に移住したと推測されています。
李白の出生地は、中国版Wikipediaの百度において キルギスタン・トクマクと書かれており、この砕葉城(スイアーブ)が出世地である可能性が高くなっています。
ただ、李白の出生地に関しては観光客誘致の利害関係もあって、今後の推移を見守る必要があります。
常識的には、李白は中国人だろと思ってしまうので、ここで中国の歴史を振り返っておきましょう。
玄奘三蔵法師が国禁をおかしてインドへの旅に出たのは、李世民(太宗)が唐第二代皇帝になったばかりで、この時は唐創設まもなく、政情も安定してはいませんでした。太宗は、その後突厥を下したり内政を充実し貞観の治と呼ばれる繁栄の時代をもたらしました。この時に玄奘三蔵法師がインドから戻ってきて、丁重にもてなされました。
その後、則天武后が女帝になるなどの混乱はありましたが、玄宗が皇帝になると開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えました。この時の唐の勢力範囲は中央アジア一帯まで及びました。その結果、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って、タラス河畔の戦いが行われることになりました。唐はこの敗戦によって、勢力はタリム盆地に限定されることになり、中央アジアではイスラム勢力の安定支配が確立しました。この時期に生きた李白がトクマク出身としても不思議はないことになります。
もう一人、この時代の中央アジア出身者の有名人としては、唐の玄宗に対し安史の乱を起こした安禄山がいます。彼は、サマルカンド出身で、ソグド人と突厥系の混血でした。玄宗皇帝の治世前半は、東西の人物交流は思うよりも活発だったのですね。
砕葉城(スイアーブ)のために、李白の代表作である次の詩があげましょう。
静夜思 静夜に思ふ
床前看月光 床前(しょうぜん)月光を看(み)る
疑是地上霜 疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭(こうべ)を挙げては山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れては故郷を思う
トクマクで天山の雪山を見た後では、この詩から受ける感じも少し違ってきます。
そのうち、アク・ベシム遺跡に李白の記念碑が立ちますかね。
アク・ベシム遺跡を去り、次の目的地のチョン・ケミン渓谷へと向かいました。
途中、路肩に果物を売る露店があったので、添乗員が差し入れのスイカとメロンを買ってくれました。
メロンも二種類あり、大きいものの方が高かったようですが、味も美味しかったです。メロンは、南の地方から運んできたもので、大きいものは600円ほどのようでした。現地の感覚では高価ですが、日本価格からすれば激安でした。
今回のツアーでは、ツアー会社の方で何回かスイカとメロンを買ってくれて、果物を満喫することができました。
店をのぞいていると子供達が集まってきました。
車窓を眺めながらのドライブが続きました。誰かは判りませんが、銅像も置かれていました。
ある地区では、路肩で茹でトウモロコシを売っていました。日本の日光と沼田を結ぶ沼田街道も、このような店が出ていてトウモロコシ街道と呼ばれており、同じようなことをしていると面白く思いました。
途中、鉄道を横断しましたが、線路脇には羊の群れがのんびり草を食んでいました。
キルギスの鉄道は、国のほとんどが山岳地帯であったり、線路幅が違っていたりして発達していないようです。1日に1便程度が運行される程度のようです。
ヒマワリ畑が現れたので、撮影停車になりました。雪山を背景としたヒマワリ畑は、ほかでは見られない風景です。
アク・ベシム遺跡に到着しましたが、入り口のゲートのようなものはありませんでした。
アク・ベシム遺跡は、ブラナの塔のあるバラサグン遺跡と同じく、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として2014年に登録された世界遺産の構成資産の一つになっています。
といっても、バスの中での説明で、添乗員は期待しないようにと予防線を張っていました。
世界遺産にもかかわらず、土産物屋のようなものはなく、観光客は他に見当たりません。
高まりに上がって前方に見えてきたのが、アク・ベシム遺跡です。草の生えた溝があり、これが遺跡のようです。
アク・ベシム遺跡は、仏教寺院跡が発掘されたことから、唐代の砕葉城(スイアーブ)跡と考えられています。
砕葉城(スイアーブ)は、中国からタリム盆地を通り、ベデル峠を越して天山山脈に向かう交易路の交差点に位置しています。玄奘三蔵法師は、天山南路の途中からベデル峠を越してイシク・クル湖の南岸に出て、この砕葉城(スイアーブ)に到って突厥の王から歓待を受けました。
玄奘三蔵法師の訪問地としては、高昌国の高昌故城が有名ですが、それと比べると、見るものがほとんどなく、想像力を最大限に発揮する必要があります。
高昌故城はこちら
規則的な溝が掘られているのは、建物の土台跡でしょうか。
歩道として整備されていないので、足元の土を崩して溝に落ちないように注意する必要がありました。
アク・ベシム遺跡見学にあたっては、「世界遺産は必ずしも観光スポットではない」、ということを頭に入れておく必要があります。
トクマクは、玄奘三蔵法師の他にも中国の著名人ゆかりの地になっています。その人物とは、「詩仙」と称される李白。
李白の出自および出身地には諸説ありますが、現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀に移住したと推測されています。
李白の出生地は、中国版Wikipediaの百度において キルギスタン・トクマクと書かれており、この砕葉城(スイアーブ)が出世地である可能性が高くなっています。
ただ、李白の出生地に関しては観光客誘致の利害関係もあって、今後の推移を見守る必要があります。
常識的には、李白は中国人だろと思ってしまうので、ここで中国の歴史を振り返っておきましょう。
玄奘三蔵法師が国禁をおかしてインドへの旅に出たのは、李世民(太宗)が唐第二代皇帝になったばかりで、この時は唐創設まもなく、政情も安定してはいませんでした。太宗は、その後突厥を下したり内政を充実し貞観の治と呼ばれる繁栄の時代をもたらしました。この時に玄奘三蔵法師がインドから戻ってきて、丁重にもてなされました。
その後、則天武后が女帝になるなどの混乱はありましたが、玄宗が皇帝になると開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えました。この時の唐の勢力範囲は中央アジア一帯まで及びました。その結果、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って、タラス河畔の戦いが行われることになりました。唐はこの敗戦によって、勢力はタリム盆地に限定されることになり、中央アジアではイスラム勢力の安定支配が確立しました。この時期に生きた李白がトクマク出身としても不思議はないことになります。
もう一人、この時代の中央アジア出身者の有名人としては、唐の玄宗に対し安史の乱を起こした安禄山がいます。彼は、サマルカンド出身で、ソグド人と突厥系の混血でした。玄宗皇帝の治世前半は、東西の人物交流は思うよりも活発だったのですね。
砕葉城(スイアーブ)のために、李白の代表作である次の詩があげましょう。
静夜思 静夜に思ふ
床前看月光 床前(しょうぜん)月光を看(み)る
疑是地上霜 疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭(こうべ)を挙げては山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れては故郷を思う
トクマクで天山の雪山を見た後では、この詩から受ける感じも少し違ってきます。
そのうち、アク・ベシム遺跡に李白の記念碑が立ちますかね。
アク・ベシム遺跡を去り、次の目的地のチョン・ケミン渓谷へと向かいました。
途中、路肩に果物を売る露店があったので、添乗員が差し入れのスイカとメロンを買ってくれました。
メロンも二種類あり、大きいものの方が高かったようですが、味も美味しかったです。メロンは、南の地方から運んできたもので、大きいものは600円ほどのようでした。現地の感覚では高価ですが、日本価格からすれば激安でした。
今回のツアーでは、ツアー会社の方で何回かスイカとメロンを買ってくれて、果物を満喫することができました。
店をのぞいていると子供達が集まってきました。
車窓を眺めながらのドライブが続きました。誰かは判りませんが、銅像も置かれていました。
ある地区では、路肩で茹でトウモロコシを売っていました。日本の日光と沼田を結ぶ沼田街道も、このような店が出ていてトウモロコシ街道と呼ばれており、同じようなことをしていると面白く思いました。