
勤民楼の一階は、溥儀の生涯の展示が行われています。
入り口に置かれた前書きから、中国政府の溥儀に対する考えが判りますので、載せておきます。共産党的な言い回しが特徴的です。
前書き
皇帝から公民へ
愛新覚羅溥儀は中国における封建時代の末代の皇帝であり、清王朝の最後の皇帝でもある。
彼は清王朝の最後の皇帝、復辟皇帝、さらに傀儡皇帝として3度も皇帝に即位したが、3度とも退位し、その一生の中で、中国近代社会の変動期を体験した。5回も結婚し、また囚人ともなり、最後は公民になった。特に偽満州国の皇帝であった時、日本の関東軍に操られ、民衆の権益を売り渡し、数千にも上る反動的法令を交付し、日本軍国主義者と仲間になり、東北地方で血生臭い植民地支配を行って、東北地方の人民に深刻な災難をもたらし、民族の罪人になった。
中国政府と中国共産党は、この民族を裏切った犯罪人を死刑にせず、罪悪を悔いて行いを新たにし、身も心もすっかり入れ替えるように改造し、処罰と寛容、労働改造と思想教育とを結合する政策を取った。そのため、その生涯の後半は国家と人民に役立つものとなった。これは今までの世界史にない唯一の実例である。周恩来前首相は、「われわれは末代の皇帝を良い人に改造した。これは、世界的奇跡だ」と評価している。
愛新覚羅溥儀の生涯に近づき、その風雨にさらされた人生を知ることは、現在の私たちにとって、得難い教訓を得て、大いに啓発されるところがあろう。

溥儀は、二歳にして、清朝十二代目の皇帝に即位。

皇帝の衣装
中国において黄色は、皇帝や皇后だけがまとうことを許された色でした。
龍の刺繍が施されていることから龍袍(ろんぱお)と呼ばれます。

情勢用の礼服である朝袍(チャンパオ)(朝廷の服)

背後の写真からすると、右が皇后婉容のもの。

左が側室文しゅうのもののようです。
黄色の割合が、身分の差を示しているのでしょうか。

溥儀の切り落とした辮髪と丸メガネ
英国人の家庭教師ジョンストンの教育により、溥儀は西洋の知識を吸収し、「洋服には似合わない」との理由で満洲族の伝統であった辮髪を切ります。これが溥儀の切り落とした辮髪の本物なのですかね。
ジョンストンは、溥儀が近視であることに気が付き、宮廷内の反対を押し切って、メガネをかけさせます。
映画「ラストエンペラー」におけるジョン・ローンの顔が、実際の溥儀の顔と重なって見えてきます。

映画「ラストエンペラー」でも、テニスを行っている場面が出てきますね。

溥儀は、紫禁城から追われて、天津の租界へと逃げていきます。

満洲国皇帝にするという関東軍の誘いによって新京にやってきますが、実際に与えられた地位は執政であったため、溥儀は不満に思います。
執政として、石丸志都磨を侍従武官に任命する証書。石丸中将は、溥儀への忠誠心が厚かったために関東軍の反感を買って、監視役として吉岡安直に交代させられてしまいます。

溥儀の執政記念章

満洲国皇帝溥儀と皇后婉容の礼服

皇后婉容の冠ですが、宝石は飾られていないようです。

皇后婉容の靴
なお、中国では、小さな足を作る纏足が行われていましたが、これは漢民族の習慣で、満洲族出身の清王朝にその習慣はありませんでした。

皇帝の玉座の前に置かれた白熊の毛皮。

溥儀と吉岡安直と関東軍のだれかとの密談風景

皇帝になった溥儀は日本を訪れ、天皇の駅への出迎えを受けて、その厚遇に大きな感銘を受けるとともに、日本の天皇の権力を自分も持ちたいと願うようになります。

乾隆皇帝風の黄色の石による玉璽

しかし、満州に戻った後は、関東軍の傀儡であることを思い知らされます。
そして終戦。日本への脱出に失敗して、ソ連のシベリアの収容所送りになりました。その時の囚人服でしょうか。

後に、中国に引き渡されて、再教育を受けることになります。
収容所における食器。

囚人服
囚人番号と溥儀の名前が縫い付けられています。

生涯の反省文を何度も書き直すことになります。これは、後に「我が半生」として出版されることになります。

特赦令によって、模範囚として溥儀は解放されて一般市民となります。
北京の植物園で庭師として働いた後に、周恩来の計らいで、政治協商会議全国委員になります。

毛沢東の著書。溥儀のサインがあります。忠実な共産党員になったという訳です。

溥儀の身分証。

溥儀の健康保険証。中国では、身分によってかかることのできる病院が決められていたようです。

溥儀のノート。
「我が半生」の原稿でしょうか。

共産党誌への溥儀の投稿文。
「私は、三回目の偽皇帝になった」という題が見えます。

李淑賢との結婚証明書。
元皇帝に、北京市が結婚許可書を発行しています。

病床における手記

溥儀の死亡証明書
歴代の清朝皇帝は、一般に土葬されてきましたが、溥儀は火葬の屈辱を受けました。そこから「火龍 ザ・ラスト・エンペラー」と題する中国映画も造られています。
ここの展示は、溥儀に関する資料が充実しており、じっくりと見る価値があります。
入り口に置かれた前書きから、中国政府の溥儀に対する考えが判りますので、載せておきます。共産党的な言い回しが特徴的です。
前書き
皇帝から公民へ
愛新覚羅溥儀は中国における封建時代の末代の皇帝であり、清王朝の最後の皇帝でもある。
彼は清王朝の最後の皇帝、復辟皇帝、さらに傀儡皇帝として3度も皇帝に即位したが、3度とも退位し、その一生の中で、中国近代社会の変動期を体験した。5回も結婚し、また囚人ともなり、最後は公民になった。特に偽満州国の皇帝であった時、日本の関東軍に操られ、民衆の権益を売り渡し、数千にも上る反動的法令を交付し、日本軍国主義者と仲間になり、東北地方で血生臭い植民地支配を行って、東北地方の人民に深刻な災難をもたらし、民族の罪人になった。
中国政府と中国共産党は、この民族を裏切った犯罪人を死刑にせず、罪悪を悔いて行いを新たにし、身も心もすっかり入れ替えるように改造し、処罰と寛容、労働改造と思想教育とを結合する政策を取った。そのため、その生涯の後半は国家と人民に役立つものとなった。これは今までの世界史にない唯一の実例である。周恩来前首相は、「われわれは末代の皇帝を良い人に改造した。これは、世界的奇跡だ」と評価している。
愛新覚羅溥儀の生涯に近づき、その風雨にさらされた人生を知ることは、現在の私たちにとって、得難い教訓を得て、大いに啓発されるところがあろう。

溥儀は、二歳にして、清朝十二代目の皇帝に即位。

皇帝の衣装
中国において黄色は、皇帝や皇后だけがまとうことを許された色でした。
龍の刺繍が施されていることから龍袍(ろんぱお)と呼ばれます。

情勢用の礼服である朝袍(チャンパオ)(朝廷の服)

背後の写真からすると、右が皇后婉容のもの。

左が側室文しゅうのもののようです。
黄色の割合が、身分の差を示しているのでしょうか。

溥儀の切り落とした辮髪と丸メガネ
英国人の家庭教師ジョンストンの教育により、溥儀は西洋の知識を吸収し、「洋服には似合わない」との理由で満洲族の伝統であった辮髪を切ります。これが溥儀の切り落とした辮髪の本物なのですかね。
ジョンストンは、溥儀が近視であることに気が付き、宮廷内の反対を押し切って、メガネをかけさせます。
映画「ラストエンペラー」におけるジョン・ローンの顔が、実際の溥儀の顔と重なって見えてきます。

映画「ラストエンペラー」でも、テニスを行っている場面が出てきますね。

溥儀は、紫禁城から追われて、天津の租界へと逃げていきます。

満洲国皇帝にするという関東軍の誘いによって新京にやってきますが、実際に与えられた地位は執政であったため、溥儀は不満に思います。
執政として、石丸志都磨を侍従武官に任命する証書。石丸中将は、溥儀への忠誠心が厚かったために関東軍の反感を買って、監視役として吉岡安直に交代させられてしまいます。

溥儀の執政記念章

満洲国皇帝溥儀と皇后婉容の礼服

皇后婉容の冠ですが、宝石は飾られていないようです。

皇后婉容の靴
なお、中国では、小さな足を作る纏足が行われていましたが、これは漢民族の習慣で、満洲族出身の清王朝にその習慣はありませんでした。

皇帝の玉座の前に置かれた白熊の毛皮。

溥儀と吉岡安直と関東軍のだれかとの密談風景

皇帝になった溥儀は日本を訪れ、天皇の駅への出迎えを受けて、その厚遇に大きな感銘を受けるとともに、日本の天皇の権力を自分も持ちたいと願うようになります。

乾隆皇帝風の黄色の石による玉璽

しかし、満州に戻った後は、関東軍の傀儡であることを思い知らされます。
そして終戦。日本への脱出に失敗して、ソ連のシベリアの収容所送りになりました。その時の囚人服でしょうか。

後に、中国に引き渡されて、再教育を受けることになります。
収容所における食器。

囚人服
囚人番号と溥儀の名前が縫い付けられています。

生涯の反省文を何度も書き直すことになります。これは、後に「我が半生」として出版されることになります。

特赦令によって、模範囚として溥儀は解放されて一般市民となります。
北京の植物園で庭師として働いた後に、周恩来の計らいで、政治協商会議全国委員になります。

毛沢東の著書。溥儀のサインがあります。忠実な共産党員になったという訳です。

溥儀の身分証。

溥儀の健康保険証。中国では、身分によってかかることのできる病院が決められていたようです。

溥儀のノート。
「我が半生」の原稿でしょうか。

共産党誌への溥儀の投稿文。
「私は、三回目の偽皇帝になった」という題が見えます。

李淑賢との結婚証明書。
元皇帝に、北京市が結婚許可書を発行しています。

病床における手記

溥儀の死亡証明書
歴代の清朝皇帝は、一般に土葬されてきましたが、溥儀は火葬の屈辱を受けました。そこから「火龍 ザ・ラスト・エンペラー」と題する中国映画も造られています。
ここの展示は、溥儀に関する資料が充実しており、じっくりと見る価値があります。