さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
http://iide.hp.infoseek.co.jp/

さすらいの風景 マルボルク城 その1

2016年11月24日 | 海外旅行
マルボルク城は、グダンスクの南東60kmの位置にあり、バルト海にそそぐノガト川沿いに設けられています。1274年に創建されたドイツ騎士団(チュートン騎士団)の城で、1309~1457年の間は騎士団の本部として使われました。

駐車場でバスから降りると、巨大な城が目に入ってきますが、東に向かって見ているため、逆光で見にくくなっています。この日の快晴が、かえって写真撮影を難しくしていました。



見学を終えて帰り際に撮影したものです。定番の撮影スポットになっていますが、城の撮影条件としては夕方が良いようです。

ドイツ騎士団は、日本ではあまり知られていませんが、バルト三国やポーランド旅行での観光説明では度々登場しますので、その歴史をおさらいしておきましょう。

ドイツ騎士団(チュートン騎士団)は、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で、1198年にパレスチナで設立された騎士修道会です。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に中世ヨーロッパ三大騎士団の一つに挙げられます。

1226年、ポーランドのコンラト1世 は異教徒プルーセン人に対する攻略と教化に手を焼いていたことから、領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘しました。ドイツ騎士団は、プロイセンやリトアニアの改宗、征服活動を遂行していき、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会して人材を増し、フランケン地方からドイツ農民を入植させたことから経済的に豊かになりました。

モンゴルのヨーロッパ侵攻の際には、敗れはしたもののポーランド・ドイツ騎士団連合軍として戦いました。1237年にはラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収。さらにデンマークと戦ってエストニアを領有し勢力を拡大していきました。北方十字軍時代には、正教国のノヴゴロド共和国と戦いましたが、アレクサンドル・ネフスキー率いる軍に氷上の戦いで敗れました。この戦いは、プロコフィエフ作曲の「アレクサンドル・ネフスキー」で良く知られています。ドイツ騎士団は1283年までの50年間、徐々に領土を広げ、原住民に異教の信仰をキリスト教に改宗しいきましたが、リトアニア大公国が成立すると恒常的な戦いが続くことになりました。

1224年、騎士団は本拠地をマリーエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領とする選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制のドイツ騎士団国を築きました。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、経済的にハンザ同盟都市と深く結びつきました。

グダンスクをはじめとするポーランド北部地域は、ドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望み、騎士団と何世紀も抗争を繰り返しました。また、リトアニアのヤゲローは、ドイツ騎士団に対抗するためにキリスト教に改宗して、1386年にポーランド女王と結婚する形で合同し、ヤゲロー朝リトアニア・ポーランド王国が成立しました。1410年、騎士団はタンネンベルクの戦いで敗北して西プロイセンを失い、何度もの戦争の後にはポーランド王国に服従することになりました。

1523年に、ドイツ騎士団総長のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが配下の騎士と共にプロテスタントへ改宗するとともに、騎士団領をポーランド王国の封土とし、自身は世襲の世俗領主であるプロイセン公となりました。ドイツ騎士団国家は終焉を向けますが、その末裔となるプロイセン王国は、ドイツ帝国へとつながっていくことになります。



木橋を渡ると、記念写真用の貸衣装屋が店を出していました。



こちらは、斧や刀を並べた土産物屋。



城の防御を兼ねた堅固な建物が設けられていました。



見学の前に、城の建物内にあるレストランで昼食をとりました。



レストラン内は、レンガ造りで趣がありました。



昼食時とあって、観光客で賑わっていました。



マルボルク城は、ノガト川に面していますが、二重の堀がめぐらされていました。これは、外濠で、現在は空濠になっていますが、かつては水が引き込まれていたのでしょう。



屋根の飾りに目が引き付けられます。



内濠に架かる橋を渡って中の城に進むことになりますが、まずは現地ガイドと落ち合うため、インフォメーションセンターに向かいました。



順路としてはこの門から入ることになり、後でここに戻ってくることになりました。



内濠に沿って、防御を固めるための城壁や塔が設けてあります。



城内の様々な施設の塔の先端が見えていました。



塔の上に置かれているのは、フクロウの像のようです。

フクロウは、ローマ神話における知恵や英知、洞察力の女神ミネルヴァの使いになっていることから、知性や英知の象徴として用いられることがあります。ここでも、そのような象徴の印として用いられているのでしょうか。



聖母マリア教会の外からの眺めのようです。



聖母子像が飾られていました。ドイツ騎士団の正式名称は、「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」となっています。



外濠を内側から眺めたところですが、武装した騎士達が敵を待ち構える様が目に浮かびます。



外濠の眺め。



外濠の外側は広場になっていました。



現地ガイドと落ち合って、順路に従って入場することになりました。



城内への通路は、馬が一頭通れるだけの幅で、すぐ先に広場や直角の曲がりかどが設けてありました。日本の城でいうところの虎口といったところで、同じような防御機構が独自に発達していたのは興味深いですね。



城内への入口も高い塔によって守られていました。



外濠の外からの城内の眺め。



1945年当時の写真が掲示されていました。第二次世界大戦末期の1945年春、マルボルク城は、篭城したドイツ国防軍と攻勢をかけるソ連赤軍との激しい戦闘よって半分以上が破壊されました。現在も修復作業は続けられていますが、往年の姿は取り戻されています。



城外の広場に設けられた観客席は、夏の夜に行われる音と光のショーやポーランドとドイツ騎士団が激突したグルンヴァルドの戦いを記念した「マルボルグ包囲戦」の中世祭りの会場のようです。



城内へ進みましょう。



城内には、マルボルク城周辺のドイツ騎士団の城の案内図が置かれていました。ドイツ騎士団が大きな勢力を持っていたことが判ります。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« さすらいの風景 グダンスク... | トップ | さすらいの風景 マルボルク... »
最新の画像もっと見る

海外旅行」カテゴリの最新記事