
タシュクルガンの宿は、天縁国際大酒店でした。パキスタンのホテルと比べると、新しく設備が整っていました。
部屋に入ったのは夜中の12時ですが、昼まで使っていたパキスタン時間ではまだ9時です。外に出てみました。

ホテルの周囲は造成地で、立派な道路が延びている割には、人家や店はありませんでした。

第9日目は、朝食9時、出発10時という、やけにゆっくりとした時間配分です。少し早めに起きても真っ暗で、ようやく9時になって明るくなってきました。
中国の北京を中心とする標準時間では、新疆エリアはあまりに西に位置して生活実感とずれているため、非公式ではありますが2時間を引く新疆エリア時間というものが使われています。新疆エリア時間では7時になるので、少しは合ってきますかね。

夜明けの空に月が浮かんでいました。

タシュクルガンの周りの山は雪を載せていることから判るように、タシュクルガンの標高は、3200mほどあります。日本でいうならば、北岳や穂高岳の標高ですね。この高度では高山病の危険性もあり、中国の旅行者は酸素を持ってくるともいいますが、クンジュラブ峠(標高4693m)越えで高度順化ができたのか、高地にいるという感覚はありませんでした。

朝になって見た天縁国際大酒店。

ちょっと散歩してみました。通りの向こうにロータリーが見えました。

ロータリーの中心には、舞い上がる鷲の像が置かれていました。

ホテルの受付でも、舞い上がる鷲の絵を描いたTシャツを売っていたので、この町のシンボルのようです。

ロータリー脇には、真新しいショッピングセンターのような建物もできていました。ただ、歩いている人は僅かで、活気の見られない町でした。旧市街地が別な所にあるのかも知れません。

バスが出発して町はずれに進むと、雪山と湿原の眺めが広がりました。

バスを下りて、湿原に敷かれた木道に進みました。

標高3200mの高地にあるので、高層湿原といってもよさそうです。

湿原は、早くも茶色に変わっていました。

湿原には、かなり奥まで木道が続いていました。

木道に出て振り返ると、石頭城の眺めが広がりました。

タシュクルガンは、突厥語で「石の城」を意味し、時代ごとに支配者は異なり、漢、キルギス、ウィグル族の各小国によって支配されてきました。

玄奘三蔵法師は、インドからの帰りにこの石頭城を訪れたといいます。

現在では仏教の痕跡は見当たらず、周囲の丘の上に見られるのは、イスラムの墓です。
部屋に入ったのは夜中の12時ですが、昼まで使っていたパキスタン時間ではまだ9時です。外に出てみました。

ホテルの周囲は造成地で、立派な道路が延びている割には、人家や店はありませんでした。

第9日目は、朝食9時、出発10時という、やけにゆっくりとした時間配分です。少し早めに起きても真っ暗で、ようやく9時になって明るくなってきました。
中国の北京を中心とする標準時間では、新疆エリアはあまりに西に位置して生活実感とずれているため、非公式ではありますが2時間を引く新疆エリア時間というものが使われています。新疆エリア時間では7時になるので、少しは合ってきますかね。

夜明けの空に月が浮かんでいました。

タシュクルガンの周りの山は雪を載せていることから判るように、タシュクルガンの標高は、3200mほどあります。日本でいうならば、北岳や穂高岳の標高ですね。この高度では高山病の危険性もあり、中国の旅行者は酸素を持ってくるともいいますが、クンジュラブ峠(標高4693m)越えで高度順化ができたのか、高地にいるという感覚はありませんでした。

朝になって見た天縁国際大酒店。

ちょっと散歩してみました。通りの向こうにロータリーが見えました。

ロータリーの中心には、舞い上がる鷲の像が置かれていました。

ホテルの受付でも、舞い上がる鷲の絵を描いたTシャツを売っていたので、この町のシンボルのようです。

ロータリー脇には、真新しいショッピングセンターのような建物もできていました。ただ、歩いている人は僅かで、活気の見られない町でした。旧市街地が別な所にあるのかも知れません。

バスが出発して町はずれに進むと、雪山と湿原の眺めが広がりました。

バスを下りて、湿原に敷かれた木道に進みました。

標高3200mの高地にあるので、高層湿原といってもよさそうです。

湿原は、早くも茶色に変わっていました。

湿原には、かなり奥まで木道が続いていました。

木道に出て振り返ると、石頭城の眺めが広がりました。

タシュクルガンは、突厥語で「石の城」を意味し、時代ごとに支配者は異なり、漢、キルギス、ウィグル族の各小国によって支配されてきました。

玄奘三蔵法師は、インドからの帰りにこの石頭城を訪れたといいます。

現在では仏教の痕跡は見当たらず、周囲の丘の上に見られるのは、イスラムの墓です。