
タウン・カラッの見学を終えてバスを待っていると、通りを牛が歩いてきました。インドから東南アジアにかけて一般的な、コブウシです。水牛も、農村部で見かけましたが、そう多くはないようです。

バナナも山積みで売られていました。

ポッパ山観光に先立ち、近くのレストランで昼食をとると、裏庭にサボテンのような植物の畑が広がっていました。

これは、ドラゴンフルーツの畑でした。果実はお馴染みですが、このように実がなるとは知りませんでした。

ポッパ山からバガンに戻る途中、トイレ休憩も兼ねて、ココナッツファームに寄りました。
ここでは、ココナッツ砂糖が、竹製の籠に入って売られていました。

土産にココナッツ砂糖を買いました。右のビニール袋のものは、ココナッツの果実とのミックスです。素朴な味です。

店先では、牛を使ってココナッツオイルをとる実演をしていました。観光客が立ち寄る度に働かされるので、牛も迷惑顔です。

高いココナッツの木に梯子が架けられていました。

ココナッツ砂糖は、ココナッツの花の蕾を切ってその切り口から採取した液から作ります。その実演で。高い木の上まで、一気に上っていきました。

採取した液。これを煮詰めて砂糖を造ります。ココナッツから造った酒もあり、蒸留したものを味見したところ、焼酎並みに強くて酔いがまわりました。

店先の木には、鳥の巣が沢山つるさがっていました。

この店の神だなには、ビルマ連邦共和国の建国の父アウンサンとその娘で最大野党の党首アウンサンスーチー女氏の写真が飾られていました。

アウンサンスーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤い旗も飾られていました。この家は、国民民主連盟の熱烈な支持者の様です。
最近になって、ミャンマー旅行が可能になったのも、ミャンマーの経済処置が緩和されて、アウンサンスーチー女史の自宅軟禁がとかれたことにもよるのです。ここで、ミャンマーの近代の歴史をふりかえっておくことにしましょう。
マンダレーに都をおいていたコンバウン王朝のティボー王は、インドに連行されて、ビルマは、イギリスの植民地になってしまいます。
イギリスからの独立を計るアウンサンは、日本軍と接触を持ち、ビルマ独立義勇軍を創設して日本軍と共に戦い、ラングーンを陥落させます。
日本との連携でしたが、その後のビルマ国軍の扱いによってビルマ国の独立に疑問を持つようになり、さらにインパール作戦の失敗によって日本軍の敗北が濃厚になったことから、アウンサンは、イギリスと手を結ぶことにして抗日運動を開始して、連合軍からの援助を受けるようになります。
終戦後、イギリスは約束を守らずにビルマの植民地支配を続けたことから、アウンサンは完全独立のために奔走を続けましたが、独立まであと僅かのところで、アウンサンは、暗殺されてしまいました。
ビルマは独立して、ウー・ヌが首相になりますが、アウンサンの部下であったネ・ウィンが武力によって権力を集中し、軍事政権が開始されます。その後、トップは変わるも軍事政権は続き、民主化運動の機運も高まってきます。軍事政権が国民総選挙を約束したことから選挙が行われますが、その直前に最大野党の党首アウンサンスーチー女史は、自宅軟禁状態にされ、その後、開放と軟禁が繰り返されることになります。
アウンサンスーチー女史が、軍事政権にとって最大の政敵にもかかわらず自宅軟禁の処置以上に踏み込めないのは、民衆の絶大な支持を受けていることに加え、軍事政権はアウンサンの後継者であることを存在意義としていることからのように思えます。
民主化の遅れから、アメリカやEUからの経済制裁を受けてきましたが、2012年のオバマアメリカ大統領のミャンマー訪問とアウンサンスーチー女史との会談によって、関係の回復が行われるようになってきました。
経済制裁の間、ミャンマーの軍事政権に対し援助を行ってきたのは中国でしたが、中国の政府高官に対する賄賂や資源の搾取によって、一般市民の反感をかっているようです。
日本は、歴史的いきさつもあって、ミャンマー政府とは友好な関係を続けてきましたが、今後の経済的な結びつきを強くするには、民主化とうまく歩調を合わせていく必要があるでしょう。

アウンサンスーチー女史グッズは、ミャンマーのいろいろなところで見ることができ、人気のほどがうかがわれました。
これは、バガンのレストランの売店で売られていたTシャツ。

車の中からの撮影のために良くうつっていませんが、ヤンゴンの街中にあったTシャツ屋です。数軒並んでいましたが、アウンサンスーチー女史のTシャツが店先にずらりと並んで飾られていました。
ミャンマーの民主化運動の進展を祈ってやみません。ミャンマーには、民主化問題の他に民族問題もありますが、これはまた別な項にて。

バナナも山積みで売られていました。

ポッパ山観光に先立ち、近くのレストランで昼食をとると、裏庭にサボテンのような植物の畑が広がっていました。

これは、ドラゴンフルーツの畑でした。果実はお馴染みですが、このように実がなるとは知りませんでした。

ポッパ山からバガンに戻る途中、トイレ休憩も兼ねて、ココナッツファームに寄りました。
ここでは、ココナッツ砂糖が、竹製の籠に入って売られていました。

土産にココナッツ砂糖を買いました。右のビニール袋のものは、ココナッツの果実とのミックスです。素朴な味です。

店先では、牛を使ってココナッツオイルをとる実演をしていました。観光客が立ち寄る度に働かされるので、牛も迷惑顔です。

高いココナッツの木に梯子が架けられていました。

ココナッツ砂糖は、ココナッツの花の蕾を切ってその切り口から採取した液から作ります。その実演で。高い木の上まで、一気に上っていきました。

採取した液。これを煮詰めて砂糖を造ります。ココナッツから造った酒もあり、蒸留したものを味見したところ、焼酎並みに強くて酔いがまわりました。

店先の木には、鳥の巣が沢山つるさがっていました。

この店の神だなには、ビルマ連邦共和国の建国の父アウンサンとその娘で最大野党の党首アウンサンスーチー女氏の写真が飾られていました。

アウンサンスーチー女史が党首を務める国民民主連盟(NLD)の赤い旗も飾られていました。この家は、国民民主連盟の熱烈な支持者の様です。
最近になって、ミャンマー旅行が可能になったのも、ミャンマーの経済処置が緩和されて、アウンサンスーチー女史の自宅軟禁がとかれたことにもよるのです。ここで、ミャンマーの近代の歴史をふりかえっておくことにしましょう。
マンダレーに都をおいていたコンバウン王朝のティボー王は、インドに連行されて、ビルマは、イギリスの植民地になってしまいます。
イギリスからの独立を計るアウンサンは、日本軍と接触を持ち、ビルマ独立義勇軍を創設して日本軍と共に戦い、ラングーンを陥落させます。
日本との連携でしたが、その後のビルマ国軍の扱いによってビルマ国の独立に疑問を持つようになり、さらにインパール作戦の失敗によって日本軍の敗北が濃厚になったことから、アウンサンは、イギリスと手を結ぶことにして抗日運動を開始して、連合軍からの援助を受けるようになります。
終戦後、イギリスは約束を守らずにビルマの植民地支配を続けたことから、アウンサンは完全独立のために奔走を続けましたが、独立まであと僅かのところで、アウンサンは、暗殺されてしまいました。
ビルマは独立して、ウー・ヌが首相になりますが、アウンサンの部下であったネ・ウィンが武力によって権力を集中し、軍事政権が開始されます。その後、トップは変わるも軍事政権は続き、民主化運動の機運も高まってきます。軍事政権が国民総選挙を約束したことから選挙が行われますが、その直前に最大野党の党首アウンサンスーチー女史は、自宅軟禁状態にされ、その後、開放と軟禁が繰り返されることになります。
アウンサンスーチー女史が、軍事政権にとって最大の政敵にもかかわらず自宅軟禁の処置以上に踏み込めないのは、民衆の絶大な支持を受けていることに加え、軍事政権はアウンサンの後継者であることを存在意義としていることからのように思えます。
民主化の遅れから、アメリカやEUからの経済制裁を受けてきましたが、2012年のオバマアメリカ大統領のミャンマー訪問とアウンサンスーチー女史との会談によって、関係の回復が行われるようになってきました。
経済制裁の間、ミャンマーの軍事政権に対し援助を行ってきたのは中国でしたが、中国の政府高官に対する賄賂や資源の搾取によって、一般市民の反感をかっているようです。
日本は、歴史的いきさつもあって、ミャンマー政府とは友好な関係を続けてきましたが、今後の経済的な結びつきを強くするには、民主化とうまく歩調を合わせていく必要があるでしょう。

アウンサンスーチー女史グッズは、ミャンマーのいろいろなところで見ることができ、人気のほどがうかがわれました。
これは、バガンのレストランの売店で売られていたTシャツ。

車の中からの撮影のために良くうつっていませんが、ヤンゴンの街中にあったTシャツ屋です。数軒並んでいましたが、アウンサンスーチー女史のTシャツが店先にずらりと並んで飾られていました。
ミャンマーの民主化運動の進展を祈ってやみません。ミャンマーには、民主化問題の他に民族問題もありますが、これはまた別な項にて。