さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 西夏王墓 その1

2019年09月04日 | 海外旅行
旅の二日目、まず西夏王墓の見学に向かいました。西夏王墓は、銀川市内から西に25kmほどの郊外にあります。銀川の東には黄河が流れており、灌漑用水が張り巡らされています。

中国の地方都市では、一歩郊外に出ると新築された団地が並んでいます。経済発展著しいことは判りますが、一気に建てたビルが一定期間の後に老朽化して全て建て替えになることを考えると、恐ろしく感じます。



道路脇に高架の線路が現れましたが、近々開通予定の高速鉄道のようです。寧夏回族自治区銀川と内モンゴル自治区包頭を結ぶことから包銀高速鉄道と呼ばれるようです。将来は北京まで延びるようで、全通すると銀川・北京間の移動時間は現在の16時間以上から約5時間に短縮されるといいます。中国の高速鉄道網は急速に発展していますが、採算のあう路線はどれほどあるのでしょうか。



銀川の西に南北に連なる賀蘭山脈が見えてきました。その向こうは内モンゴル自治区になります。



西夏王墓に到着しましたが、入り口の手前でユーターンになりました。6月に新しい施設が完成し、入り口も移動したことによります。このことは現地ガイドも知りませんでした。どうも西夏王墓が世界遺産に推薦されるようで、そのための整備のようです。

なお、門に書かれているのは西夏文字で、大白高国と書かれているようです。



改めて少し離れたところにある新しい入り口に移動しました。右の大きな建物は博物館で、左は受付の建物です。



遺跡内の各所に、このようなマスコット人形が置かれていました。西夏武士と西夏公主と呼ばれるようです。



遺跡の入り口。



道路の下をくぐる地下道が設けられていました。



地上に出たところで、連絡バスに乗ります。



車窓からは、皇族のものを含めて多くの陵墓が並んでいるのが見えました。



賀蘭山脈の風景と合わせて独特の景観を造っています。





遠くに見えるのは、西夏初代皇帝・李元昊の父親の李徳明の2号王墓のようです。



旧入り口でバスを降りました。バス乗り場の脇にある西夏博物館は、新しい建物へ移転されています。



まずは、付属の施設へ。



日本の観光地で良く見かける顔入れ写真と同じく、頭を乗せて記念写真をとるためのもののようです。



資料館の入り口。



壁には、歴代皇帝の説明が書かれていました。



西夏王朝の実質的な建国者の李徳明。宋・遼に対し臣下を称して冊封を受け、外交的な安定を確保し西域に勢力を拡大しました。李元昊によって大夏が建国された後に、太宗の廟号が送られました。



大夏王国の建国者李元昊。大夏王国は、中国の歴代王朝として夏があるため、一般に西夏と呼ばれます。西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用しますが、後に和議を結び、西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得することになりました。



第二代皇帝・李諒祚。李元昊の第六男ですが、李元昊が息子の李寧令哥に殺害され、李寧令哥も父殺しの罪で処刑されたため、1歳で即位しました。そのため母親の没蔵太后とその実家の一族によって専横されました。

後に見学する銀川市内にある承天寺塔は、この幼い皇帝の長寿と李家天下及び西夏の永久な安定を祈るために造られました。



建物内に入りました。



西夏の歴史のパノラマが展示されていました。

李元昊が節度使としての夏国公の地位を継承。



西夏文字の発明。



李元昊が大夏を建国して皇帝と称す。



戦いによって領土を拡大。西夏、遼(後に金)、宋の三国時代を作りあげる



息子の李寧令哥によって李元昊は殺害される。



第二代皇帝に1歳の李諒祚が即位。背後は、李諒祚の長寿や西夏王国の安寧ために建てられた承天寺塔。



李元昊殺害の罪によって李寧令哥は処刑。



西夏はチベット仏教の保護者になりました。



モンゴル軍の攻略によって西夏は滅亡。建国から滅亡までは、10代の皇帝で、189年続きました。

ざっとですが、西夏の歴史を振り返ることができました。
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