MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

『死の行進』の日に思う

2011-04-11 22:42:26 | 歴史

『「思い」は見えなくても
「思いやり」は誰にでも見える…』
この一ヶ月間
耳が痛いほど聞かされたフレーズである。
しかし、その「思いやり」を実践することは
「思う」以上にむずかしいことなのかもしれない。

4月7日付 Washington Post 電子版

Finding the Japanese boy who had saved his grandfather during World War II 第2次世界大戦中、自分の祖父を救ってくれた日本人の少年を探し出す

Findingthejapaneseboy

Gallery:戦争の暗い記録の中の心あたたまる行い:Tim Ruse 氏の祖父は第2次世界大戦中の過酷なバターンの死の行進を生き延びたものの、日本の捕虜収容所で餓死しかけていた。Ruse 氏は一人の日本人の少年が祖父の命を救ってくれたことを知った。70年近くが経過した今、彼はぼやけた写真を携えて、その少年を探すことが自分の使命であると感じていた。

By Caitlin Gibson
 69年前の土曜日(MrK註:1942年4月11日と思われる)ルソン島のバターン半島でアメリカ人とフィリピン人の戦争捕虜たちは銃を突きつけられて行進を開始した。1942年の春、生存者たちは、フィリピンの捕虜収容所にたどりつくまでに、数千人もの彼らの戦友たちが60マイル以上にわたって死亡してゆくのを目の当たりにした。彼らが受けた仕打ちは戦時の残虐さのシンボルとして今も語り継がれている。さて、数ヶ月前、その生存者の一人の孫が古い写真を手に北バージニアから日本に向かった。それは一人の幼い日本人の少年のぼやけた写真だった。Centreville 出身の27才の睡眠障害の専門家 Tim Ruse 氏と、彼を出迎えた日本の人たちにとって、その写真は暗い歴史の一幕から、一つの心あたたまる行動を取り出す一つの手段を提供してくれることとなった。それは、彼の祖父の命を救ってくれた子供の写真だったのだ。そして彼らは今、とにかくその人物を探し出さなければならなかったのである。
 その少年の写真は、1945年9月、米海軍の救助艇に Carl Ruse 氏が乗りこんだとき手にしていた2枚の写真のうちの1枚だった。彼は、痩せこけた体に着けていた汚れた衣服を脱ぎ捨て、その場しのぎに使っていた杖を海に投げ捨てた。彼はすべてをそこに置いてきた。その2枚の写真以外を除いて…。1枚目の写真は、日本にある捕虜収容所に着いたときの彼自身のもの――彼の頬はこけ、まなざしは険しく何かにとりつかれたようだった――そしてもう1枚が少年の写真だった。

Findingthejapaneseboy2

 この古い敗れた写真の中の少年は恐らく11才か12才くらいに見えた。彼は実際に笑っているわけではないが、眉毛は少し上がっている。帽子をかぶり、地味な色の制服と思われるボタンのついた上着を着ており、膨らんだ頬と黒い優しい目をしている。
 89才で Carl Ruse 氏は亡くなったが、その4年後の2007年、彼の孫は、手紙やメダルや戦争の記念品が入ったいくつかの箱を引き継いだ。Tim Ruse 氏は、以前高校の最上級時に授業の課題のため、日本での経験について祖父にインタビューしたことがあった。Ruse 氏はそれらの箱を詳しく調べてみて初めて、祖父の歴史を知る情熱に再び本格的に火がついたのである。Ruse 氏とその妻 Meagan は、彼らの生まれる予定の最初の息子に、Carl の名をとって命名することにしていた。
 「自分の息子のために祖父の体験談のすべてを書き残そうと考えたのです」と Ruse 氏は言う。彼は現在3人の子供の父親であり、Georgetown University Hospital の Sleep Disorders Center のリーダーをしている。
 それは何年もかかるプロジェクトとなった。手紙や写真をスキャンしたり、祖父の体験談を記述したりするのに膨大な時間を要した。
 祖父の話の中心にあったのは生涯彼の財布の中に折り畳まれて持ち歩かれていたその少年の写真だった。工場労働者の孫だったその子供は、四日市‐石原産業捕虜収容所での強制労働をさせられた最後の年に Carl が生きのびる支えとなってくれた。言葉の壁を越えて、この二人は特別な友だちとなり、少年は余裕のある時、余った食べ物をその飢えた捕虜に差し入れた。しかしCarlは少年の名前を知らなかった。
 その少年から祖父への差し入れは、配給される食料よりはるかに多かったと Ruse は考えている。
 「その少年の純真さが、祖父が帰国した時、戦争から身を引くようにさせたのだと私は思います」と Ruse は言う。非常に多くの他の生存者の心の傷になっていた敵意や憎しみなどが重荷となることなく祖父は戻ってきた、と彼は言う。
 彼はその少年を見つけなければならなかった。カリフォルニアを拠点とする米国のNPO法人『US-Japan Dialogue on POWs(捕虜:日米の対話)』の創設者 Kinue Tokudome(徳留絹枝)氏に連絡をとり、支援してもらえるかどうか尋ねた。
 たった一枚の写真からその子供を見つけ出すことは不可能だろうと Tokudome 氏は考えたが、その日本人の少年と敵国の POW(戦争捕虜)との話は美しいと感じたと、彼女は言う。彼女は Carl Ruse 氏が捕虜収容所で働いていた日本の真ん中にある名古屋地区の日本の新聞社と連絡をとった。同新聞社は9月に、Ruse 氏がその少年を探していることについて記事を載せた。
 わずか数日後、Tokudome 氏の電話が鳴った。名古屋の私立のカトリック・スクールの校長である Shigeya Kumagawa(熊川重也)神父がその記事を読み、Ruse 氏の話を日本の生徒たちに聞かせるために Ruse 氏を招待したいというのである。

Families shaped by war 戦争に翻弄された家族

 それは Ruse 氏にとって最初の海外旅行だった。彼は妻と兄の Steve とともに11月に日本に旅立った。Tokudome 氏もその旅行に途中から加わった。
 Ruse 氏は、祖父が日本を去る時に持っていた2枚の写真のコピーも持参した。
名古屋に向かう列車の中で、Kumagawa 氏は長崎の原爆によって自分の家族の多くを失ったことを Ruse 氏に話した。そして、最初の炸裂を生き延びた多くの親戚たちも、その後数日から数週のうちに放射能障害によって死んでいったということも。そんなふうにして多くの愛する人たちが死んでいったのを見て祖母が精神に異常を来たしてしまったと、平和研究の教師である Kumagawa 氏は言う。
 残酷な対立する歴史の両側で彼らそれぞれの家族が翻弄されてきた過程に折り合いをつけるのはむずかしいことだと Ruse 氏は感じた。
 長崎の惨状から遠いところで、Carl Ruse 氏や捕虜仲間たちは米軍機が名古屋を空襲し地上の家々を焼き尽くしているのを見ていた。Carl は地震で足を骨折しており、もはや働くことはできないでいた。彼は80ポンド(約36 kg)まで痩せ細っていた。彼に残された時間は残り少なくなっていた。
 「もし Harry Truman や原爆が存在しなかったら、我々は決してあそこから脱出できていなかっただろう」と、かつて Carl は自分の孫に語っていた。
 日本のメディア関係者たちは今回の旅行中、このアメリカ人一行を追跡し、一人の子供の思いやりが彼の祖父の人生を変えたいきさつについて Kumagawa 氏の学校の生徒1,500人の前で行った Ruse 氏のスピーチの一部を放送した。彼らが四日市の工場を訪れ、日本の降伏後に最初の米軍機が捕虜たちに食料を投下するのを Carl Ruse 氏が見ていた場所に立った時も、カメラは彼らの後を追いかけた。
 「祖父が立っていた場所、そして自分がなんとか助かりそうであることがわかったまさにその場所に行けたことは実に感動的でした」と、Ruse 氏は言う。

Finally, a name ついに、名前が…

 その四日市工場の従業員たちはその写真を調べ、この少年はその工場で働いていた10代前半の数人のうちの一人だと思うと言った。彼らによればその写真は恐らく戦争が始まる前に撮影されたものだという。しかし、彼らはその子の名前も知らなければどのようにして探し出せばよいかもわからなかった。
 今回の旅行が終わりに近づいていたそのとき、写真の少年が自分の兄であると思うという男性から Kumagawa 氏の学校に電話がかかってきた。
 Ruse 氏、彼の妻、そして兄がホテルの一室でその訪問者と対面したとき、フラッシュを焚くカメラはさらに増えていた。その訪問者は Takeo Nishiwakiという小柄な高齢の男性で、彼の兄が14才の頃にその工場で働いていて、そこで一人の捕虜に食物を渡していたと言うのを聞いたことがあると言った。その兄は呼吸器疾患で30才の時に死亡しているという。
 Ruse 氏の脈が速くなった。彼は、あの少年をようやく見つけ出せたのだと信じたかった。たとえ、そのことを確かめるすべはないとわかっていても。しかし、ついにFumio Nishiwaki という名前をつきとめたのである。
 Nishiwaki 氏は18才ころに撮影された兄の写真を Ruse 氏に見せた。背が高くなり幾分ほっそりとしていたが同じ少年のように見えた。
 Nishiwaki 氏は翌日帰ることになり、旅行者たちも引き揚げる準備をした。Nishiwaki氏は、今回の面会の後、兄の未亡人に電話をかけたことを、Ruse 氏に話した。ニュースでその少年の写真を見て、それが彼女の亡くなった夫であることを確信したと彼女が話していたと言う。
 Nishiwaki 氏が別れを告げたとき、もう回りにはカメラはなかった。「お墓に行って、私たちが会ったことを兄に報告してきます」と Nishiwaki 氏は Ruse 氏に言った。
 Carl Ruse 氏は、日本を去る前に米軍機から落とされた余分の食料をその少年の家族の元へ届けていた。その少年が感謝の意を表して、Carl の手のひらに自分の写真を握らせたのはその時のことである。
 60年以上が経って、その瞬間が再び戻ってきたかのようだった。Ruse 氏と Nishiwaki 氏が別れようとしたとき、Ruse 氏は、祖父が日本から持ち出した2枚の写真のコピーを取り出し、その両方をその老人に手渡したのである。

自分の食糧調達にも事欠いていたような時代に、
敵国の捕虜に自分の食べ物を差し入れていたとは…
どのような素晴らしい心を持った少年なのだろう。
昨年9月に中日新聞の夕刊に掲載された
Ruse 氏の少年探しの記事である↓
http://www.us-japandialogueonpows.org/Ruse-J.htm
(『US-Japan Dialogue on POWs』 のHPより)

残念ながらその少年は30才でこの世を去っており、
Ruse 氏は対面を果たすことができなかった。

今、この大変な時に
誰にでもできる『思いやり』を行動に移すことは
もちろんとても大切なことだろう。
しかし、簡単には真似のできないような
真の『勇気ある思いやり』を実践するには
まだまだ人間を磨かなければとても叶いそうにないと
思うのである。

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3 コメント

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コメントではなく、お願いです (徳留絹枝)
2011-04-15 16:57:07
コメントではなく、お願いです

大変丁寧にして下さったこの訳文を、私のウエブサイト「捕虜:日米の対話」からリンクしてもよろしいでしょうか。

よいお返事をお待ちしています。
返信する
徳留絹枝様 (MrK)
2011-04-15 17:53:27
徳留絹枝様
拙文で申し訳ありません。それでもよろしければどうぞお使いください。読んでいただいて光栄に存じます。
返信する
有難うございます。 (徳留絹枝)
2011-04-15 21:33:16
有難うございます。
今Tim にも、記事を日本語に訳して下さった方がいることを知らせたところです。熊川神父さまにも、この訳文を送らせて頂きます。
返信する

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