今月のメディカル・ミステリーです。
Medical mysteries: Was crying caused by man’s severe depression? メディカル・ミステリー:男性の発作的な号泣は重症のうつによるものだったのか?
Richard Anderson とその妻 Rose:Staten Island の自宅にて。Richard は47才のとき、重症の外傷性脳損傷を受け、そのため抑えることのできない号泣を起こすようになった。Pseudobulbar affect と呼ばれる彼の疾病の治療に、新しい薬が役立っている。By Sandra G. Boodman
Rose Anderson さんとその家族がうまくやっていかなければならなかったことの中で最もつらかったのはとめどなく泣くことへの対応だった。
2004年8月4日午後9時ころ、Anderson さんとその家族がニュージャージー州の海岸沿いの遊歩道から彼らが宿泊するホテルに向かおうとして通りを渡っていたとき、酔っ払った運転手が彼女の夫 Richard に突っ込んできた。彼は26フィート(約8m)飛ばされ、頭から歩道に叩きつけられた。
ニューヨーク市庁の部長だった 47才の Richard は緊急の脳手術を受けた後、3週間昏睡状態が続き、病院にほぼ2ヶ月入院した。彼は重症の外傷性脳損傷を受け、認知機能障害と言語障害が後遺し、嗅覚と味覚が奪われた。
「生涯にわたる治療が必要であることを覚悟するよう言われました」と、ニュージャージー州 East Orange にある Kessler Institute for Rehabilitation にて夫が過ごした数週間のことを思い出す。
しかし、事故後数週間で始まり、時間とともに悪化しているように思われた Richard の予測不能でコントロールできない号泣を覚悟するよう Anderson 夫妻に告げた人はいなかった。
「彼はそばにいるのが誰であろうと泣いていました」と夫人は思い起こす。彼の犬のこと、家族のこと、あるいはうれしいできごとでさえ、それらを考えることで涙が誘発された。彼の10代の娘たちにとって、週に数回起こるそんな事態は耐えがたいものだった。
「他の状態が改善に向かうにつれ、このことが一層目立つようになりました」と Richard Anderson 氏は言う。彼は当時の自分自身を、己の感情をコントロールできないことに屈辱を感じる『きわめて排他的な男』だったと表現する。「自分の頬を実際に涙が流れ落ちることに私は非常に動揺していました」
そうこうするうちに、ずっと彼を診てきた神経内科医は、その号泣が悲しみや嘆きや抑うつの発現ではなく、違った原因があるのではないかと考えるようになったのである。‘Behavior I’d never seen’ 『見たことのない反応』
医師たちは当初、Rose Anderson さんに対して、彼女の夫は乗り切ることはできないだろうと告げていた。それでも何とか彼は生き延びたが、新たな Richard は、彼女が27年間知っていた男性とは懸け離れていた。事故の前は穏やかで冷静だったが、受傷後早期は攻撃的でイライラしており、家族を認識することもできず、訳のわからないことばかり話していた。
Kessler に移ったとき、彼は記憶を取り戻した―ただし、事故についてはいまだに何も覚えていない―そして言語も改善した。
「新しい Richard がどんな風になってゆくのか私たちには予測できていました」と、夫人は思い起こす。表向きには彼の損傷の徴候はほとんど見られなかったが、彼の目からは、かつての表現能力が失われているように見えた。この事故で彼には失語症が後遺した。考えを表現することや言語で伝えることが困難で、罵声と怒りの爆発を起こしやすかった。職務に復帰することは問題外だった。
彼の妻にとって、かつてのような気安い親密さが失われたことが特に辛かった。「彼は私の心を読み取り、私は彼の心を読み取っていました。それが失われてしまったのです」と、彼女は思い出す。
事故から数ヶ月後、Richard が、家族の住む Staten Island の自宅に戻っていたある日、Rose さんは職場で彼から電話を受けた。彼は抑えきれず泣いていたのである。それまで彼女は彼のそんな反応を見たことがなかった。「彼がただ精神的に参っているのだと思っていました」と彼女は思い起こす。「私には何もできなかったので非常にショックでした。見たことのない反応だったのです。というのも Richard はそれまでずっと強い人でしたから。」と、同時に、彼女にはなぜ彼が泣くのか理解もみせていた。彼の状況を考慮すれば、誰もがそう考えたことだろう。
彼女の無力感は、家族が直面した苦難の大きさのためにさらに増幅した。「みんなが一つになろうとして取り組んでいるすべてのことの中で、泣くということはもっとも求められないことなのです」と彼女は言う。娘の一人は事故によって引き起こされた心的外傷後ストレス障害に苦しんでいた。そしてもう一人の娘は母親にこう打ち明けた。「お父さんが泣いているのをみるとただただ逃げだしたくなるの」
涙を目撃した友人たちは、それは重要な問題ではないと言って安心させ Anderson 夫妻の気持ちを楽にしようとした。しかし、Richard は自分が泣くことをひどく恥ずかしく思い、社会的な場から身を引いてしまった。
最も辛いエピソードの一つは父と娘の高校のダンスのときに起こった。そのとき彼は突然狂ったように泣き出してしまったのだ。彼は、娘が何も見ていなかったことを願いながら急いで体育館の外に出て、車から妻に電話したのである。
Kessler の脳損傷リハビリテーション部の元部長で神経内科医の Jonathan Fellus 氏は事故の1ヶ月後から Richard Anderson 氏の治療に当たった。その後数年間、彼や他の医師たちは、号泣発作や怒りの爆発を抑えるために、様々な抗うつ薬や抗てんかん薬を処方した。
「もちろん彼はうつ状態でした」と、現在はニュージャージー州 Seacaucus にある Meadowlands Hospital Medical Center のリハビリテーション部長を務めている Fellus 氏は言う。「しかし、良くなっていたに違いない時点はあったのです」…が、彼は良くならなかった。「どんなささいなことでも彼をワッと泣かせてしまうようでした」
Fellus 氏によると Anderson の号泣は悲しみやうつの結果ではないと徐々に確信するようになっていったという。彼は、重症の脳損傷に合併することのある pseudo-bulbar affect(PBA、仮性球情動)と呼ばれる、当時ほとんど知られていなかった、また見逃されることも多かった疾病を疑った。不随意で不適切な号泣や笑いのエピソードを特徴とする PBA は、外傷の他にも脳卒中、さらには多発性硬化症、(ルー・ゲーリック病としても知られる)筋萎縮性側索硬化症、あるいはアルツハイマー病の患者などでも見られる。
以前は情動失禁、病的笑い・泣き、あるいは強制感情表出障害などと呼ばれていた PBA 自体は新しい疾患ではない。Charles Darwin による1872年の画期的な原著 “The Expression of the Emotions in Man and Animals” の中に初めて記載されている。Multiple Sclerosis Foundation によると、その正確な原因についてはほとんどわかっていないという。
脳内の化学的シグナル伝達が障害され、感情の表出をコントロールする経路が遮断されることで起こると考えている研究者がいる。およそ100万人の米国民がこの疾病の症状を有しているものと推定されている。Different from depression うつとは異なる
うつとPBA の鑑別は困難なことがあるが、それは両者が共存することがあるからである。しかし、うつとは違って PBA のエピソードは突然起こり、患者に潜在する情動状態とはほとんど関係がない可能性がある。PBA の患者の中には、うれしいときに泣くものもいる。あるいは怒っているときに笑うものもいる。
最近までは、治療は概ね抗うつ薬が主体だった。2010年、米国食品医薬品局(FDA)は初めてとなる PBA 治療薬 Nuedexta を承認した。この薬は、ルー・ゲーリック病や多発性硬化症の患者の症状を軽減することが知られていた。
Nuedexta は二つのジェネリック医薬品の合剤からなっている。通常の鎮咳薬である dextromethorphan(デキストロメトルファン)と不整脈の治療に用いられる quinidine(キニジン)である。Dextromethorphan は脳のレセプターに結合すると考えられている。
Fellus 氏によると 2009年に Anderson夫妻に PBA の話を出し、Richard に対してこの新しい薬が有効かもしれないと考えていることを彼らに伝えたと言う。「この薬を処方した最初の患者だったと思います」と Fellus 氏は言う。(それ以降、この薬剤の製造業者である Avanir 社から講演料として約2万5千ドルを受け取ったとこの神経内科医は述べている)
その効果は劇的だったと Anderson 夫妻は言う。(受傷7年後となる)2011年の初めにこの薬を開始して1ヶ月も経たないうちに、Richard の泣くエピソードは、週に数回起こっていたものが、月2回にまで減少した。
現在、自分の感情がよりうまくコントロールできているように感じていると Richard は言う。「感情を抑えることができます」と彼は言う。彼はもはや抗うつ薬は内服しておらず、他の脳損傷の患者と一緒に働くボランティアの仕事を持っており、社会的視野が広がっている。
この薬によって彼女自身も救われたと Rose さんは言う。「ちょっとでも彼に頼ることができる関係を部分的に取り戻すことができて大変喜んでいます」と彼女は言う。「この薬のおかげで、多少なりとも満足できる生活の質を私たちが再び手にすることができたのは確かです。それは大きなことなのです」
葬式に出席していて突然笑い出してしまう。
お笑い番組を見ながらとめどなく涙を流してしまう…
当人の意志に関係なく不適切な感情が表出される
厄介な病態である。決して稀な病気ではない。
Pseudo-bulbar affect(PBA)は
不随意に号泣したり、
コントロールできない泣き・笑いなどの
異常な情動を発現する神経障害である。
正式な訳語は不明だが、
仮性球情動とか制御不能情動とか呼ばれている
(仮性球情動ではほとんど意味不明なのだが…)。
かつては強制泣き・笑い、あるいは
情動失禁と呼ばれていた(イメージの悪い言葉である)。
旧来、筋委縮性側索硬化症や多発性硬化症患者で
認められる頻度が高かったが、
脳卒中患者や、外傷性脳損傷(TBI)でも起こりうるという。
原因は不明だが、脳内の感情を生む領域と
実際に感情表出を行う領域との間の連絡が
障害されることで生じると言われている。
以前は的確な治療法がなく、抗うつ薬が漫然と
処方されていた。
記事中にある新しい治療薬、
デキストロメトルファンとキニジンの
配合薬 Nuedexta は
2010年10月29日に米国食品医薬品局により
PBA 治療薬として承認され、
2011年1月31日より Avanir(アバニール)社から
発売されているが、本邦では現在のところ未承認である。
デキストロメトルファンはNMDA受容体拮抗薬で
以前より筋委縮性側索硬化症の治療薬として期待されていた。
デキストロメトルファンの肝臓での代謝を阻害する
キニジンを併用することで初めて有効性が認められた。
本邦にもこの疾病に苦しむ患者は多いと推察されるため、
一刻も早い国内承認が望まれるところである。
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