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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

身元が判明した“貢献者”

2013-02-08 22:25:48 | 歴史

今でこそ、
脳の中のそれぞれの場所が固有の機能に
関与しているという事実は常識となっている。
しかし、つい150年前までは、
脳全体がすべての神経機能を担っている、あるいは
言語などの機能は神から与えられた魂によって
営まれているなどと信じられていた。
そんな中、
障害を持った一人の患者がある医師と出会ったことによって
画期的な発見が生まれたのである。

2月5日付 Washington Post 電子版

Long after a man’s brain helps make a scientific breakthrough, he is identified
150年前に自然科学の飛躍的進歩に役立った脳の持ち主だった男性の身元が判明

Brocasarea01

Broca によって行われたその男性の剖検で、彼が言語機能と関連づけた脳の領域の損傷が明らかになった。

By Tia Ghose,
 科学者によって言語に関与する脳の領域が特定されるのに寄与した謎めいた患者の身元が解明されたと、研究者らが報告している。
 Journal of the History of the Neurosciences の1月号に詳述されているこの発見によって、この患者が、生涯てんかんに苦しんだフランス人の職人 Louis Leborgne であったことが判明した。

Broca

脳のそれぞれの部位が個別の機能を果たしているのかどうかを科学者たちが議論していた当時、医師の Paul Broca は一つの単語しか話すことのできなかった患者を調べた。

 1840年、言葉が不自由になった患者が、話すことのできない状態、すなわち失語症としてパリ郊外の Bicetre Hospital に入院してきた。彼は基本的にそこに入院していただけで症状は徐々に悪化していた。 “Monsieur Leborgne(ルボルニュさん)”としか知られておらず、話すことのできた唯一の言葉から“Tan(タン)”というニックネームをつけられていたこの男性が同病院の医師 Paul Broca(ポール・ブローカ)の病棟にやってきたのは1861年のことだった。
 その出会いからまもなく Leborgne は死亡し、Broca は彼の剖検を行った。そこで Broca は目の後ろ側、後上方にある脳の領域に病変を発見した。
 詳細に調べた Broca は Tan の失語はこの領域の損傷によって引き起こされたものであり、特定の脳の領域が言語を支配していると結論づけた。脳のその領域はのちに Broca’s area(ブローカの領域)と命名されることになる。
当時、脳の異なる部位が個別の機能を果たしているのか、それとも、脳は肝臓のように区別できない塊なのかが科学者たちによって議論されていたと語るのは、今回の研究には関わっていないロンドンの神経言語学者 Marjorie Lorch 氏である。
 「Tan は脳の特定の部位の障害が特異的な言語障害を引き起こすことを証明した症例となった最初の患者でした」この新しい研究の著者でポーランドの医学歴史家の Cezary Domanski 氏は言う。

Life reconstructed 再構築された人生

 しかし Tan の正確な身元は謎に包まれたままだった。ほとんどの歴史家は、彼が貧乏で読み書きのできない労働者だったと信じており、梅毒で頭がおかしくなったとか、話せなかったことがその狂気によって説明できるのではないかと言う者もいた。彼がまさに誰だったのかを明らかにするため、Domanski 氏はこの男の経歴を追跡し始めた。
 「それは大変な作業でした。150年間、その男の名前すら明らかにすることができていなかったのですから。博物館にその脳が展示されており多くの書物にも記載されているまさにその男性ではあるのですが…」Domanski 氏はそのように E メールに書いている。
 しかし、彼は古い医療記録を調べていて、Louis Victor Leborgne の死亡診断書を発見した。その男は 1809
年にフランスの Moret に生まれていた。
 それから Domanski 氏は保存されている記録を利用し、Louis Leborgne が7人兄弟の一人で、その父親は教師であったことから、その兄弟たちは教育を受けていたことを発見した。彼は子供のころにパリに移っていた。
 Leborgne はやはり子供のころからてんかんがあったようである。発作はあったが、彼は大きくなって職人となり、30才まで教会の管理人として働いた。30才で話す能力を失い病院に入れられた。恐らくてんかんが Leborgne の言語能力を奪うという障害を引き起こしたようである。
 その病院で彼の病状は悪化した。そしてついに麻痺が出て寝たきりとなり、壊疽で手術を受けた。Broca が初めて彼と出会ったとき彼は死を目前にしていた。
 今回の発見によって医学の最も重要な症例について人物像が与えられることになったと Lorch 氏は言う。
 「言語とは、当時ヨーロッパでは人間が神から与えられた能力と見なされていたので、それは魂の一部であり、それゆえ有形なものではないと考えられていました」と Lorch 氏は言う。「このケースは脳の機能構築に関する研究の全般を実際に確立することとなった症例だったのです」

Photo

運動性言語中枢として有名な『ブローカ野』は、
通常、左脳前頭葉に存在し、
『自発的に言葉を発する場合の言語処理』を担っている。
つまり、言葉を発するための咽頭、舌、口唇などの
動きを統合的に制御している領域である。
この領域が損傷されると、
『ブローカ失語』あるいは『運動性失語』と呼ばれる失語症が
生ずる。
ブローカ失語では、言語を聞いて理解はできるが
発語に支障が生ずる。
さらに、音声発話だけではなく、
筆記などにおいても障害が見られることが多い。
複雑な文章を構成することができず、
簡単な文章しか書くことができなくなる。
このような自発的言語が障害されている人たちにおける
脳の障害部位を初めて特定したのが
フランス人のピエール・ポール・ブローカ(1824~1880)である。
彼の発見は、
脳がつかさどる個々の機能が脳内の別々の場所に
限局されていることを初めて解剖学的に証明した
画期的な業績である。
この知見は、それ以後、言語機能だけでなく、
脳内における種々機能の局在性の理解に
大きな影響を及ぼしたようである。
当時ブローカの扱った失語症患者の多くの脳が現在も
デュプイトラン博物館に所蔵されているそうである。
150年前(日本では文久元年、『桜田門外の変』の翌年)の
最初の患者・ルボルニュの身元を明らかにせんとする努力にも
感心させられるが、
それを可能にせしめた当時の記録がきちんと残されていたことにも
驚かされるのである。

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ツタンカーメン、謎の死の真相

2012-09-19 00:08:27 | 歴史

ツタンカーメン王は紀元前1300年代、
つまり今から3,300年以上も前の
古代エジプト第18代王朝のファラオである。
19才の若さで死亡したとされているが、
その死因には謎が多い。他殺説もある。
近年は骨折にマラリアを合併して死亡したとの説が
有力だったのだが…。

9月11日付 Washington Post 電子版

A new theory emerges about the mysterious death of Tutankhamen ツタンカーメンの謎の死について新たな説が浮上

Tutankhamen
あるイギリスの外科医はツタンカーメンの身体の特徴から、この少年王がまだ10代の若さで死亡した理由を説明できるかもしれないと主張する

By Jessica Hamzelou and New Scientist,
 ツタンカーメン(Tutankhamen)の10代での死の謎がついに解明されるかもしれない。一方でエジプトの支配者の死を早めた病気が最古の一神教を起こすきっかけとなった可能性があると、彼の一族の歴史に対する新たな考察によって示唆されている。
 ふんだんに装飾された墓がほとんど荒らされることのない状態で 1922年に発見されて以来、3,000年以上も昔のツタンカーメンの死因が激しい議論の的となってきた。殺人、ハンセン病、結核、マラリア、鎌状赤血球貧血、蛇咬傷のほか、この若い王が二輪戦車から転落し死んだとの説もある。
 しかし、それらの説はすべて一つの重要な点を見落としている、そう医学史に関心を持つ Imperial College London の外科医 Hutan Ashrafian 氏は指摘する。ツタンカーメンは女性化した体型を持ち若死にしていたのだが、彼の先代の王たちもそうだった。
 ツタンカーメンの叔父または兄の可能性があるファラオ Smenkhkare (スメンクケア)や、この少年王の父親と考えられている Akhenaten(アクエンアテン)の両人とも、異常に大きな胸と大きなお尻を持つ女性化した姿をしていた。アクエンアテンの前の二人のファラオ、Amenhotep Ⅲ(アメンホテプ3世)と Tuthmosis Ⅳ(トトモシス4世)も似たような体型をしていたようである。これらの王はすべて若いうちに奇妙な死に方をしていると Ashrafian 氏は言う。「たいへん多くの説がありますが、それらはそれぞれのファラオに個別に焦点を当てたものです」
 それぞれのファラオがその先代の王より多少若い年齢で死亡していることを Ashrafian 氏は発見した。このことから遺伝性疾患が示唆される。個々に関連した歴史的事実にその疾患が何であったかのヒントがある。
 「(5人の血縁関係にあるファラオのうち)2人に、彼らに備わった宗教的光景の話があるのは重要です」と Ashrafian 氏は言う。発作が脳の側頭葉に始まるタイプのてんかんの患者は、特に日光にさらされた後、幻覚や宗教的な光景を経験することが知られている。ファラオの家族に、遺伝するタイプの側頭葉てんかんがあった可能性があると彼は言う。
 この診断はまた女性化した容姿も説明できる。側頭葉はホルモンの放出に関係する脳の領域と連絡しており、側頭葉てんかんでは性的発育に関与するホルモン値を変化することが知られている。これはファラオが大きな乳房を持つに至った事実を説明できる可能性がある。さらに、てんかん発作はツタンカーメンの足(MrK註:大腿骨とされている)の骨折の原因だったかもしれないと Ashrafian 氏は言う。
 ギザの大スフィンクス近くにある碑文 Dream Stele には、トトモシス4世が晴天のひる日中、宗教的体験をしたと記録されている。しかしアクエンアテンによって経験された光景と比べ、彼のそれはつまらないものだった。アクエンアテンの場合、その光景により彼は、“sun-disk(太陽円盤)” または Aten と呼ばれていたさして重要ではなかった神の地位を最高の神へと引き上げることとなった。これにより、古代エジプトの多神教の伝統が廃され、記録上最古となる一神教と考えられるものが始まった。もし Ashrafian 氏の説が正しいなら、アクエンアテンの宗教体験やツタンカーメンの早逝は、ともに医学的疾患の結果ということになるのかもしれない。
 「側頭葉てんかんの患者が日光に当たると、精神や宗教的熱情に対して同じような刺激を受けます」と Ashrafian 氏は言う。
 「これは非常に興味深くもっともらしい説明です」と Ann Arbor にある University of Michigan の医学歴史家 Howard Markel 氏は言う。しかし、てんかんに対する確定的な遺伝子検査が存在しないことからこの説の証明はほとんど不可能であると彼はつけ加えた。
 New York University、Langone Medical Center の神経内科医 Orrin Devinski 氏は、この説は推測の域を出ないと言う。
 「アクエンアテンが宗教的信念を持つに至った正確な時期はそれほど明確に記録されていないし、突然の宗教的転向のほとんどのケースがてんかんによるものではありません」と彼は言う。「一神論は、てんかんのほかにも、双極性障害、統合失調症、あるいはキノコ毒中毒などに関連している可能性があります。この論文はこれらのいかなる説にも私を誘導するものではありません」
 Markel 氏も同意見である:「果たしててんかん発作が一神論を導くものでしょうか?いい思い付きではありますが、果たしてどうでしょう」と彼は言う。「それは非常に興味深い説ではありますが、ただ言えることは確かな証拠はないということです」

興味深い話ではあるが、
早死に・女性化の家系、宗教的幻覚などを根拠に
側頭葉てんかんを一元的な要因とするのは
無理がありそうだ。
女性化した体型のミイラの原因は側頭葉てんかんではなく、
そこには何か隠された秘密があるのかもしれない。
また当時のファラオたちは
若年でもちゃんと子を成していた(ツタンカーメンにも
子女がいたとされている)ようなので
他に原因が存在する可能性がある。
ただ、当時は親近婚が一般的だったこともあり、
遺伝病が発現しやすかったのは間違いなさそうである。
いずれにしても3,000年以上も昔のことであり、
人々がどのような考えを持ち、どのように生活していたのか、
MrK には遠く想像が及ばないのである。

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ミス・リンディ 遭難の謎

2012-08-22 22:52:46 | 歴史

アメリカ人 アメリア・イアハートは
チャールズ・リンドバーグに続き、1932年に
女性としてはじめての大西洋単独横断飛行に成功した
スーパー・ウーマン(このためミス・リンディの愛称がある)。
イアハートについては日本ではあまり知られていないが、
米国では絶大な人気があり、
彼女自身も女性地位向上に熱心な活動を行ったことから
イアハートの名前を冠した奨学金制度は
今も運営されている。
また本年はイアハート生誕115周年ということで
様々な事業が催されているそうである。

Ameliaearhart01
しかし、1937年5月21日、赤道上世界一周に飛び立った
イアハートとナビゲータのフレッド・ヌーナンは
1937年7月、太平洋の赤道直下で消息を絶った。
当時のアメリカ政府は大規模な捜索を行ったが、
結局、遺体も機体も発見されないまま
1939年、両名の死亡が宣告された。
ところが、2009年、『歴史的航空機の発見を目指す
国際グループ(TIGHAR: The International Group
for Historic Aircraft Recovery)』が南太平洋の
ニクマロロ島で人間の指の部分と見られる骨片を発見し
イアハートの骨であると主張し脚光を浴びた。
ただしその骨がウミガメの骨である可能性も捨て切れていない。
イアハートの遭難には日本軍が関与していたとの
とんでもない説が浮上したこともあるようだが、
いまだに謎の多いイアハートの結末の解明に
今回新たな証拠が得られたのだろうか?

8月19日付 CNN.com

75 years later, the mystery of Amelia Earhart solved? 75年後 Amelia Earhart の謎は解けたのか?

Ameliaearhart02
水中写真には Amelia Earhart の飛行機の残骸が写っている可能性がある

 南太平洋の海底で発見された残骸は行方不明となった女性飛行士 Amelia Earhart (アメリア・イアハート)の飛行機の一部かも知れない。
 「最近行われた NikuⅦ という探索の際に撮影された水中の高解像度ビデオ映像で Nikumaroro (ニクマロロ)島の西岸沖の岩礁の斜面上に人工物が散乱していることが明らかになっている」(航空機の捜索や保存を行っている研究グループである)The International Group for Historic Aircraft Recovery (TIGHAR)がそのウェブサイトで報告した。
 研究者らによって今投げかけられる疑問は、これらの新しい画像は 1937 年の Nikumaroro 島の写真に記録されているのと同じ飛行機の一部を示すものなのか?ということである。
 同島の西の海岸線を撮影した1937年の写真は Earhart と彼女のナビゲーターである Fred Noonan が行方不明となってから3か月後に撮影されたものであると Discovery News は報じている。当時の英国植民地行政府(British Colonial Service)の役人 Eric R. Bevington によって撮影された写真では、突出する明らかな人工的物体が写真の左側に認められている。この画像の科学捜査的解析で、『この謎の物体がEarhart の飛行機の逆さまになった着陸装置と、その形状と大きさが一致していることがわかった』という。
 「この Bevington の写真には飛行機の構成物のように見えるものが4つ認められます:支柱、車輪、ウォーム歯車、そしてフェンダーです。一方、残骸の見られた現場には、フェンダーのようなものがあり、恐らく車輪と、支柱の一部もあるようです」 TIGHAR の画像科学捜査の専門家 Jeff Glickman 氏は Discovery News にそう語っている。
 TIGHAR は先月この探索に乗り出し、75年前、Lockheed Electra(ロッキード・エレクトラ)機が海に飛び立った後、Earhart と Noonan が Nikumaroro 島に不時着し、結局そこで死を迎えたという説に取り組んだ。
 このグループの9回目となる同島の探索は、インターネット上の興奮と非難の声とともに始まった。結局、研究者らは米国に戻り、彼らが同機の明らかな痕跡を何も発見できなかった。しかし、海中の残骸の現場の新たな解析によって、研究者らが探していたまさにそのものが発見できたことになるのかも知れない。
 「初期のメディアの報道では、この探索が何も発見しなかったとの性急な判断を下していました」と TIGHAR の専務理事である Ric Gillespie 氏は Discovery News に語っている。「もちろん我々は飛行機の残骸の大きな破片を見つけることを期待していましたが、Nikumaroro の厳しい海中環境を見た途端、75年前に小片に引き裂かれた飛行機からの残骸を探すことになるのだろうと考えました」
 同グループは7月12日に始まり7月24日に終了した今回の探索で撮影された高解像度水中ビデオの30%に満たない部分を検証したところであると Glickman 氏は Discovery News に語っている。
 Earhart と Noonan は着陸を計画していた別の南太平洋の島を見つけることができず、 Nikumaroro 島(当時の Gardner 島)に着陸したとの説を TIGHAR は唱えている。二人は安全に着陸し、エレクトラの無線を使って救助を求めたと考えらる(MrK 註:救難信号が3昼夜傍受できたとの記録がある)。運命のいたずらで、その後恐らくこの飛行機は海に流され、Earhart と Noonan の唯一の連絡源も流されてしまう。米国海軍の偵察機はこの島の上空を飛んだが、エレクトラを発見できないまま、そこを通り過ぎ別の場所を捜索し続けた。
 「今回が最高の探索となったのは、飛行機の残骸を探し出すために集めることのできたテクノロジーのおかげです」と Gillespie 氏は先月 CNN に語った。「私たちは自走車を持っています。また、私たちが今現在乗っている University of Hawaii の船の上部にはマルチビーム・ソナーがあります。さらに、ターゲットを詳しく調査する遠隔操作の車両や高解像度カメラを持っています。準備がしっかり整っていたのです」
 Bavington の写真のさらなる解析が TIGHAR の説を支持し続けるとしたら、同グループは太平洋の海底からその物体を回収しようとするつもりであると Gillespie 氏は Discovery News に語っている。

問題の写真を見ても、
MrK にはどれが人工的な物体なのか判別不能である。
やはり75年の歳月は長いと言えそうだ。
しかしそれほどの歳月が流れた今でも
熱心な探索が続けられているという事実によって、
アインハートの活躍、そしてその存在が
今でもアメリカでいかに賞賛されているかが
うかがい知れるのである。

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コロンブスご一行様のお土産

2012-01-09 20:21:45 | 歴史

15世紀の末、梅毒をヨーロッパにもたらしたのは
コロンブス、という話は昔からよく耳にしていた。
しかしその明確な証拠はなかったようである。
今回、熱心な研究者たちの調査によって
梅毒のコロンブス持ち込み説の信憑性が
かなり高まったという、
そんなお話である。

1月4日付 huffingtonpost.com

Did Columbus Bring Syphilis to Europe? New Study Says Yes コロンブスがヨーロッパに梅毒を持ちこんだのか?新しい研究では Yes
By Travis Korte

Columbus

 コロンブスがアメリカへの航海からヨーロッパに戻ったとき、彼やその乗組員らは世界を作り変えるような情報をもたらした。そして、最近の研究によると、彼らはそれ以外のものも持ち帰った可能性がきわめて高いと言う。
 Emory University に関係する研究者たちが、議論の多い梅毒のコロンブス説についてこれまでで最も包括的な研究を発表し、この問題についての長々と続いた疑惑を解消した。彼らは、世界保健機関による最新の推定で 1999年には1,200万人の新たな感染者を出しているとされるこの疾患が、コロンブスの西インド諸島への最初の航海を乗り切った3隻のうちの1隻 Niňa(ニーニャ)号のみによってヨーロッパに持ち帰られたことを発見した。共著者の Molly Zuckerman 氏によると、この結果は“かなり確実性の高いもの”であるというが、「私たちはこれでこの問題に関してけりをつけるべきではない」と彼女は警告する。
 梅毒を起こすいわゆる“トレポネーマ”が、最初に接触した時点で新大陸に既に存在していたことはこの説の支持者らに古くから知られている事実であり、また最初のヨーロッパでの発生は1494年に起こっている。この点はコロンブス説で矛盾のないところである。しかし、コロンブス説を歴史的に反対してきた者たちはその根拠が状況的なものに過ぎないと見ており、彼らの中にはヒポクラテスの古典ギリシア語の書物の中にこの疾患についての言及があると考えるものもいた。
 現代の科学者の間では、ヨーロッパで発見された明らかな梅毒の徴候を持つコロンブス以前の人骨をめぐって議論が沸き起こった。しかし、それらの標本はまとめて調査されたものではなく、それゆえ異なった条件の下で評価されてきた可能性がある。今回の最新の研究のために、研究者らはコロンブス以前に梅毒を示していると見られている過去の報告を集積した。そして彼らはトレポネーマの証拠となる徴候を探した。例えば、頭蓋骨や長管骨の窪みや腫れである。そのような特徴のない標本は除外された。
 共著者の Kristin Harper 氏は「トレポネーマ感染症の確定的な徴候を示していた骨格のすべては、コロンブスがヨーロッパに戻って以降の時期のものと考えられました」と言う。
 それでは、500年前のミステリーは現在の私たちに何を教えてくれるのだろうか?
 「梅毒は、真の世界的流行を示した最初の例でした」と、Harper 氏は ABC News に語った。「その歴史は新しい病原体がいかに効率よく世界中に広がったのかを示していると思います。近代的な旅行という追い風すらない時代です。そしてまた、いつどこで、これまでにない新しい感染症が発生し、人々の中に永久に根付いてしまうのかを予測することがどれほど難しいことかも示してくれているのだと思います」

梅毒の流行は一説には従来からのトレポネーマの
強毒化の突然変異との説もあるが、
コロンブスの西インド諸島への最初の航海から
ヨーロッパへの帰還が 1493年3月、
そして梅毒の流行が1494年から始まっていることから、
タイミングから考えて
やはりコロンブスらが新大陸から持ち帰った可能性が高いと
見るべきであろう。
一方、日本における最初の梅毒は
1512年に記録されているという。
ヨーロッパの第1例からわずかに18年後の
ことである(恐ろしきかな、性感染症の伝播力)。
そしてこの感染症はその後500年以上、
地球上に蔓延していることになる。
初期段階での感染拡大防止の重要性を
あらためて痛感させられるのである。

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『死の行進』の日に思う

2011-04-11 22:42:26 | 歴史

『「思い」は見えなくても
「思いやり」は誰にでも見える…』
この一ヶ月間
耳が痛いほど聞かされたフレーズである。
しかし、その「思いやり」を実践することは
「思う」以上にむずかしいことなのかもしれない。

4月7日付 Washington Post 電子版

Finding the Japanese boy who had saved his grandfather during World War II 第2次世界大戦中、自分の祖父を救ってくれた日本人の少年を探し出す

Findingthejapaneseboy

Gallery:戦争の暗い記録の中の心あたたまる行い:Tim Ruse 氏の祖父は第2次世界大戦中の過酷なバターンの死の行進を生き延びたものの、日本の捕虜収容所で餓死しかけていた。Ruse 氏は一人の日本人の少年が祖父の命を救ってくれたことを知った。70年近くが経過した今、彼はぼやけた写真を携えて、その少年を探すことが自分の使命であると感じていた。

By Caitlin Gibson
 69年前の土曜日(MrK註:1942年4月11日と思われる)ルソン島のバターン半島でアメリカ人とフィリピン人の戦争捕虜たちは銃を突きつけられて行進を開始した。1942年の春、生存者たちは、フィリピンの捕虜収容所にたどりつくまでに、数千人もの彼らの戦友たちが60マイル以上にわたって死亡してゆくのを目の当たりにした。彼らが受けた仕打ちは戦時の残虐さのシンボルとして今も語り継がれている。さて、数ヶ月前、その生存者の一人の孫が古い写真を手に北バージニアから日本に向かった。それは一人の幼い日本人の少年のぼやけた写真だった。Centreville 出身の27才の睡眠障害の専門家 Tim Ruse 氏と、彼を出迎えた日本の人たちにとって、その写真は暗い歴史の一幕から、一つの心あたたまる行動を取り出す一つの手段を提供してくれることとなった。それは、彼の祖父の命を救ってくれた子供の写真だったのだ。そして彼らは今、とにかくその人物を探し出さなければならなかったのである。
 その少年の写真は、1945年9月、米海軍の救助艇に Carl Ruse 氏が乗りこんだとき手にしていた2枚の写真のうちの1枚だった。彼は、痩せこけた体に着けていた汚れた衣服を脱ぎ捨て、その場しのぎに使っていた杖を海に投げ捨てた。彼はすべてをそこに置いてきた。その2枚の写真以外を除いて…。1枚目の写真は、日本にある捕虜収容所に着いたときの彼自身のもの――彼の頬はこけ、まなざしは険しく何かにとりつかれたようだった――そしてもう1枚が少年の写真だった。

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 この古い敗れた写真の中の少年は恐らく11才か12才くらいに見えた。彼は実際に笑っているわけではないが、眉毛は少し上がっている。帽子をかぶり、地味な色の制服と思われるボタンのついた上着を着ており、膨らんだ頬と黒い優しい目をしている。
 89才で Carl Ruse 氏は亡くなったが、その4年後の2007年、彼の孫は、手紙やメダルや戦争の記念品が入ったいくつかの箱を引き継いだ。Tim Ruse 氏は、以前高校の最上級時に授業の課題のため、日本での経験について祖父にインタビューしたことがあった。Ruse 氏はそれらの箱を詳しく調べてみて初めて、祖父の歴史を知る情熱に再び本格的に火がついたのである。Ruse 氏とその妻 Meagan は、彼らの生まれる予定の最初の息子に、Carl の名をとって命名することにしていた。
 「自分の息子のために祖父の体験談のすべてを書き残そうと考えたのです」と Ruse 氏は言う。彼は現在3人の子供の父親であり、Georgetown University Hospital の Sleep Disorders Center のリーダーをしている。
 それは何年もかかるプロジェクトとなった。手紙や写真をスキャンしたり、祖父の体験談を記述したりするのに膨大な時間を要した。
 祖父の話の中心にあったのは生涯彼の財布の中に折り畳まれて持ち歩かれていたその少年の写真だった。工場労働者の孫だったその子供は、四日市‐石原産業捕虜収容所での強制労働をさせられた最後の年に Carl が生きのびる支えとなってくれた。言葉の壁を越えて、この二人は特別な友だちとなり、少年は余裕のある時、余った食べ物をその飢えた捕虜に差し入れた。しかしCarlは少年の名前を知らなかった。
 その少年から祖父への差し入れは、配給される食料よりはるかに多かったと Ruse は考えている。
 「その少年の純真さが、祖父が帰国した時、戦争から身を引くようにさせたのだと私は思います」と Ruse は言う。非常に多くの他の生存者の心の傷になっていた敵意や憎しみなどが重荷となることなく祖父は戻ってきた、と彼は言う。
 彼はその少年を見つけなければならなかった。カリフォルニアを拠点とする米国のNPO法人『US-Japan Dialogue on POWs(捕虜:日米の対話)』の創設者 Kinue Tokudome(徳留絹枝)氏に連絡をとり、支援してもらえるかどうか尋ねた。
 たった一枚の写真からその子供を見つけ出すことは不可能だろうと Tokudome 氏は考えたが、その日本人の少年と敵国の POW(戦争捕虜)との話は美しいと感じたと、彼女は言う。彼女は Carl Ruse 氏が捕虜収容所で働いていた日本の真ん中にある名古屋地区の日本の新聞社と連絡をとった。同新聞社は9月に、Ruse 氏がその少年を探していることについて記事を載せた。
 わずか数日後、Tokudome 氏の電話が鳴った。名古屋の私立のカトリック・スクールの校長である Shigeya Kumagawa(熊川重也)神父がその記事を読み、Ruse 氏の話を日本の生徒たちに聞かせるために Ruse 氏を招待したいというのである。

Families shaped by war 戦争に翻弄された家族

 それは Ruse 氏にとって最初の海外旅行だった。彼は妻と兄の Steve とともに11月に日本に旅立った。Tokudome 氏もその旅行に途中から加わった。
 Ruse 氏は、祖父が日本を去る時に持っていた2枚の写真のコピーも持参した。
名古屋に向かう列車の中で、Kumagawa 氏は長崎の原爆によって自分の家族の多くを失ったことを Ruse 氏に話した。そして、最初の炸裂を生き延びた多くの親戚たちも、その後数日から数週のうちに放射能障害によって死んでいったということも。そんなふうにして多くの愛する人たちが死んでいったのを見て祖母が精神に異常を来たしてしまったと、平和研究の教師である Kumagawa 氏は言う。
 残酷な対立する歴史の両側で彼らそれぞれの家族が翻弄されてきた過程に折り合いをつけるのはむずかしいことだと Ruse 氏は感じた。
 長崎の惨状から遠いところで、Carl Ruse 氏や捕虜仲間たちは米軍機が名古屋を空襲し地上の家々を焼き尽くしているのを見ていた。Carl は地震で足を骨折しており、もはや働くことはできないでいた。彼は80ポンド(約36 kg)まで痩せ細っていた。彼に残された時間は残り少なくなっていた。
 「もし Harry Truman や原爆が存在しなかったら、我々は決してあそこから脱出できていなかっただろう」と、かつて Carl は自分の孫に語っていた。
 日本のメディア関係者たちは今回の旅行中、このアメリカ人一行を追跡し、一人の子供の思いやりが彼の祖父の人生を変えたいきさつについて Kumagawa 氏の学校の生徒1,500人の前で行った Ruse 氏のスピーチの一部を放送した。彼らが四日市の工場を訪れ、日本の降伏後に最初の米軍機が捕虜たちに食料を投下するのを Carl Ruse 氏が見ていた場所に立った時も、カメラは彼らの後を追いかけた。
 「祖父が立っていた場所、そして自分がなんとか助かりそうであることがわかったまさにその場所に行けたことは実に感動的でした」と、Ruse 氏は言う。

Finally, a name ついに、名前が…

 その四日市工場の従業員たちはその写真を調べ、この少年はその工場で働いていた10代前半の数人のうちの一人だと思うと言った。彼らによればその写真は恐らく戦争が始まる前に撮影されたものだという。しかし、彼らはその子の名前も知らなければどのようにして探し出せばよいかもわからなかった。
 今回の旅行が終わりに近づいていたそのとき、写真の少年が自分の兄であると思うという男性から Kumagawa 氏の学校に電話がかかってきた。
 Ruse 氏、彼の妻、そして兄がホテルの一室でその訪問者と対面したとき、フラッシュを焚くカメラはさらに増えていた。その訪問者は Takeo Nishiwakiという小柄な高齢の男性で、彼の兄が14才の頃にその工場で働いていて、そこで一人の捕虜に食物を渡していたと言うのを聞いたことがあると言った。その兄は呼吸器疾患で30才の時に死亡しているという。
 Ruse 氏の脈が速くなった。彼は、あの少年をようやく見つけ出せたのだと信じたかった。たとえ、そのことを確かめるすべはないとわかっていても。しかし、ついにFumio Nishiwaki という名前をつきとめたのである。
 Nishiwaki 氏は18才ころに撮影された兄の写真を Ruse 氏に見せた。背が高くなり幾分ほっそりとしていたが同じ少年のように見えた。
 Nishiwaki 氏は翌日帰ることになり、旅行者たちも引き揚げる準備をした。Nishiwaki氏は、今回の面会の後、兄の未亡人に電話をかけたことを、Ruse 氏に話した。ニュースでその少年の写真を見て、それが彼女の亡くなった夫であることを確信したと彼女が話していたと言う。
 Nishiwaki 氏が別れを告げたとき、もう回りにはカメラはなかった。「お墓に行って、私たちが会ったことを兄に報告してきます」と Nishiwaki 氏は Ruse 氏に言った。
 Carl Ruse 氏は、日本を去る前に米軍機から落とされた余分の食料をその少年の家族の元へ届けていた。その少年が感謝の意を表して、Carl の手のひらに自分の写真を握らせたのはその時のことである。
 60年以上が経って、その瞬間が再び戻ってきたかのようだった。Ruse 氏と Nishiwaki 氏が別れようとしたとき、Ruse 氏は、祖父が日本から持ち出した2枚の写真のコピーを取り出し、その両方をその老人に手渡したのである。

自分の食糧調達にも事欠いていたような時代に、
敵国の捕虜に自分の食べ物を差し入れていたとは…
どのような素晴らしい心を持った少年なのだろう。
昨年9月に中日新聞の夕刊に掲載された
Ruse 氏の少年探しの記事である↓
http://www.us-japandialogueonpows.org/Ruse-J.htm
(『US-Japan Dialogue on POWs』 のHPより)

残念ながらその少年は30才でこの世を去っており、
Ruse 氏は対面を果たすことができなかった。

今、この大変な時に
誰にでもできる『思いやり』を行動に移すことは
もちろんとても大切なことだろう。
しかし、簡単には真似のできないような
真の『勇気ある思いやり』を実践するには
まだまだ人間を磨かなければとても叶いそうにないと
思うのである。

コメント (3)
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