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MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

特別会計計上(年末の電気代)

2007-11-06 13:30:50 | 社会・経済

11月に入り、今年も町のあちらこちらで

イルミネーションを見かけるようになった。

寒い季節の澄み切った冷たい空気には

一層、電飾は映えて輝き、

クリスマスや年の瀬が近いことを感じさせられる。

ただ…このご時世、節操に欠いたようにも見える

華々しい電飾のオンパレード状態は

いかがなものか。

エネルギー危機はどこへ行った?、かのようである。

今年に入って、連続する原油、天然ガスの高騰。

必然的に、電気代、ガス代の上昇だ…

思い起こされるのは1973年の第1次オイルショック。

この年10月、第4次中東戦争が勃発、

アラブ産油国のオイル戦略によってもたらされた

原油供給の危機であった。

繁華街からネオンサインが消え

デパートではエスカレータが停止した。

テレビでは夜0時で放送打ち切り、

深夜放送も休止となった。

トイレットペーパー騒動はともかく(笑)、

当時は国中に悲壮感があふれていた。

『節電』、『省エネ』の文字も巷にあふれた。

その年は日本国中、街の灯は消え

地味で盛り上がりに欠くクリスマスを過ごした。

(その年のレコード大賞受賞曲は五木ひろし『夜空』、

これまた地味だった…)

そして皆、暗澹たる思いで昭和49年を迎えた。

あれから、34年、今回の原油高騰は

とどまるところを知らず、先行きも全く不透明だ。

中東の情勢や原油の需要供給バランスを考えると

もっと悲観的であっていい。

第1次オイルショックを切り抜けた後、

第2次オイルショックもなんとか乗り越えたじゃない、

今回のダラダラ坂、登りきったらなんとかなるさ、

ってな感じだろうか、

世の中、一向に深刻さがみられない。

34年も経ったか~、自分も歳とるわけだ~、

これがホントの『老いる』ショック、なーんちゃって(固&寒)。

今年も年末に向け、街中で、また住宅地で

おびただしいイルミネーションがまたたくことだろう。

せめてクリスマス、年末くらいは電気代を忘れて楽しみたい。

誰しもそんな気分でいたいのは理解できるのだが、

今まで安くて重宝していた

近くのセルフのガソリンスタンドで、

リッター145円の表示を見たときに、

思わず背筋が寒くなったのは、

MrKだけだろうか…

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腹は減ったが…

2007-10-31 23:50:18 | 社会・経済

今年もあと余すところ2ヶ月となったが、

どうやら2007年という年は

食の不正で始まり、食の不正で終わる一年と

なりそうである(名づけて『食への不信イヤー』)。

不二家の消費期限切れ牛乳の使用の発覚が

年明け早々の1月、

ミートホープ社の牛肉ミンチの偽装表示問題が6月、

『白い恋人』の賞味期限改ざんが8月、

10月に入っては、『赤福』の売れ残り商品再利用、

『御福餅』の製造日偽装、

『比内地鶏』『宮崎地鶏』などの不当表示問題等、

食品偽装にまつわる問題が続出だ…

『赤福』の偽装に関しては、

不二家問題が明るみに出た時期に

その一部を中止していたというから

悪質である。

また、『赤福』が店頭から姿を消した後、

それまで『赤福』の17分の1の売り上げしかなかった

類似商品『御福餅』がバカ売れ。

27年間も偽装を続けていたというから、

本来なら同時にでも店頭から

撤去されるべきだった『御福餅』は、

10月12日のライバル商品の脱落後

沈黙のまま販売を続け、

この間、『棚ボタ状態』を甘受した後、

10月29日になって、ようやく自主的に偽装を公表し

『27日天下』に幕を降ろした。

偽装発覚は時間の問題との考えで、

それでも稼げるだけ稼いだ後で、

不正を申告するという、このような姿勢は、

大いに腹立たしい。

記者会見で、

「消費者の皆様には誠に申し訳なく思っております」

との社長の弁がしらじらしく思えてしょうがない(怒)。

一連の食品偽装事件を見ていると、

もはや中国産食品を誹謗する資格はないのではないか

(そうはいっても、さすがにダンボール肉まんはいやだが…)。

ただ、危惧するのは、

国民がこうした食品偽装問題報道に慣れっこになってきていて、

事態の深刻さに鈍感になってきていることである。

種々の不正にも、食の安全への脅威度や消費者に対する裏切り度の

軽重があるはずだ。

食品名の不当表示、原材料の偽装、

消費期限の改ざんなどなど、

不正を行った企業にはそれなりに社会的な制裁はあるだろうが、

農水省は不正の悪質度について

わかりやすい尺度を明らかにし、

きっちりと国民に呈示してもらいたいものだ。

(腹立ててるうちに腹が減ってきた…)

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『謝罪』の意味

2007-10-22 00:26:11 | 社会・経済

(突然ですが)

最近、我が国民は、何に怒ってるのかね~。

実際に不正を働いた場合はもちろんだけど、

ちょっとしたミスがあったり、あるいはちょっとばかり

態度が悪かったりしたら、その人間に対して

「謝罪っ!謝罪っ!」の集中砲火が浴びせられる。

ま、それを焚きつけてるのは

マスコミに他ならないのだが…

ニュースや新聞紙上で『謝罪』の文字を

見ない日がないくらいだ。

記者やカメラの放列の前で、関係者が並んで頭を下げるシーン。

もうすっかり見飽きてしまった…

学校の先生が、白衣の病院幹部が、一流企業の経営者が

食品会社の取締役が、はたまた警察幹部が…

非難の対象が雲隠れしてしまえば、

いち早く潜伏先を見つけ出し報道陣が押し寄せる。

獄中にある重罪犯なら、国民は罪も憎んで人も憎んで、

こぞって重刑を切望する。

みんな、自分のことは棚に上げ、

世の中の『悪人』を糾弾することに躍起だ。

…居並ぶ記者・カメラの前で、

『公開謝罪』が求められるようになり、

そうすることが当然のこととなったのは

一体いつからなのだろう。

『砒素ミルク事件』の森永、『油症事件』のカネミ倉庫、

『水俣病』のチッソ、

これらの事件に『謝罪』のシーンってあったっけ?

もちろん、国民に実害をおよぼす重大な過失や事故については

公式な謝罪は必要だろう。

しかし、限定された対象への謝罪まで、公開で求められるのは

いかがなものか?

たとえば、この ↓ あんちゃん。

2 悪質な反則連発で

ボクシングを貶めたことから、

相手選手、ボクシング関係者、

ボクシングファンに対しては

謝罪の必要はあるだろう。

(日本ボクシング協会〔JBC〕については、

品性の欠落を容認していた点で

自らにも非はあると思う)。

しかし、MrKのような、はなから無関心の人間には

謝罪の必要は全くない。

従って、無言を貫いた(謝罪になってない)謝罪会見だったが、

JBCと内藤選手への謝罪はしたということで、

あとは、どこかでボクシングファンに謝ってもらえば

十分と思う。

巷間、あまりに『謝罪』が溢れかえっていて、

バッシングを回避するために

「とにかく謝っておけば」の風潮が強くなっているようだ。

それは、亀田オヤジの会見での、

「とりあえず」の連発にも現れていた。

社会学者の森千香子氏は「論座」5月号のコラムで

日本社会における「謝罪の氾濫」に不気味さを感じると

述べている。

氏によれば

「謝罪とは自分の間違いを認め、反省することだけではなく、

同じ過ちを繰り返さないように対策を立てることでもある」そうだ。

昨今の謝罪は形式のみにとどまり、

真の謝罪の体をなしていないのではないか。

謝罪の意味を今一度問い質し、

謝罪を厳選する事が求められるべきではないだろうか。

ただし、今、世間を騒がせている

(スピリチュアルなあの方にそっくりの)元事務次官様には

接待ゴルフ三昧はじめ、その他も不正があるのなら

是非とも謝っていただきたいと思っているのは

小池百合子先生だけではないだろう。

2_2  Photo_11

…似てないか

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罪の重さを何で測るのか?

2007-09-22 01:00:58 | 社会・経済

「天網恢々疎にして漏らさず」

光市母子殺害事件の差し戻し控訴審における

本村洋氏による意見陳述で

氏が被告に対して最後に伝えたいとして

引用した老子の言葉だ。

天の網は広大で目が粗いように見えるが、

悪事を働くものを決して見過ごすことはない、

というような意味だろうが、

むしろ本村氏は、

「人間誰しも悪事を働けば、己の良心が

犯した罪悪を許すことはない。真実を述べて

懺悔しなさい」、と言いたかったのだと思う。

しかし、被告にはその言葉は伝わらなかったようで、

その後、検察官に対して、「なめないでほしい」と言ったという。

(ここで、「言い放った」と書いてしまうと、感情が

入ってしまう)

本村氏の意見陳述を全部読むと、彼の被告に対する

気持ちが痛いほど伝わってくる ↓

http://megalodon.jp/?url=http://fukutomim.iza.ne.jp/blog/entry/306233/&date=20070922002012

最後に

「妻と娘の命を奪った被告人に対し、死刑を望みます。」

司法に疎いMrKが、この公判のこれまでの成り行きについて

とやかく言える資格はないが、

被告の供述内容の大きな変化、弁護団の説得力に欠ける会見、

検察による挑発的な質問の仕方など、

理解に苦しむ点は確かに多い。

極刑が当然のように国民を誘導するマスコミの報道姿勢にも

問題はあろう。

ただ一つ思うこと、それは

「健康な人間の命を奪うことは

簡単にできるものではない」

ということだ。

医療の現場では、ちょっとした過誤、過失が

患者さんの死に直結することは、ままある。

人の命が、こんなにあっけなく失われるものなのかと

呆然とすることもある。

しかし日常の生活において、殺意のない人間が、

果たして、人の命を奪うことができるだろうか?

それが、率直な疑問だ。

そこには、法医学的見解との整合性を十分に

吟味する必要性があるだろうが。

今回の裁判を傍観する限り、

素人から見た司法制度の難解性を改めて

実感する。

再来年の裁判員制度の開始を前に、

わかりやすい司法のあり方と

裁判報道の公平性が強く求められる。

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月曜日の朝

2007-08-05 14:33:37 | 社会・経済

Photo_19 今年、8月6日は

62回目の広島原爆の日だ。

今年は月曜日に当たるが、

62年前、広島上空で原爆が炸裂

したのも同じ月曜日の朝だったという。

ちょっと計算してみたが(←ヒマです)、

昭和20年以降、8月6日が月曜日となったのは

これで9度目だ。

しかし、これまで原爆の日の曜日については

一度も考えたことがなかった…

当時の日本は『月月火水木金金』の勤務礼賛の

時代であるから、当日も広島市民には

週はじめという気持ちはなかったかもしれない。

一方、米国は日曜日よりは月曜日の方が

人口が市街地に集中するだろうと

考えていたに違いない。

快晴、すでに猛暑の朝、

勤労動員された一般市民や学生は

早くから仕事に出ていた。

特に屋外で建物疎開の作業に

携わっていた大勢の人たちは、

爆風と4000度の熱線を

浴びることに…

原爆被害の惨状は、おそらく、

実際に目の当たりにした

人たちにしかわからないだろう。

原爆の本当の怖さは人々の記憶から

薄れようとしている。

被爆県選出の代議士ですら

「しょうがない」と、のたまうくらいだから。

(それでも、原爆が話題になったという

意味で功績?があった?)

…ふと2年前のできごとを思い出した。

2005年8月6日、

夏の甲子園の開会式前。

広島県代表高陽東高校の主将が

8時15分に出場選手全員での

黙祷を呼びかけた。

これに対し、高野連は

「原爆は広島だけのこと」と却下。

確かにそこで黙祷を捧げると

8月9日午前11時2分にも

黙祷しなくちゃならなくなる。

しかし、「広島だけのこと」で

片付ける問題ではなかったと思う。

広島で生まれ育つと原爆の話は

何度も耳にする。

しかし、沖縄戦や東京大空襲の話は

『他所』のできごとだ。

同じように広島隣県でも

その日が原爆記念日であることすら

知らない人が大勢いる。

黙祷など形にこだわるのではなく

また、

地域に偏らない平和教育を行ってゆくことが

真の教育改革に求められるべきであり、

それができてこそ、はじめて

『美しい国』(←既に完全死語 7月29日没)たる

資格が得られると思うのだがいかがだろうか?

コメント (1)
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