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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その4)

2006年11月17日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
大森工業高等学校校舎から南方面に広がる海苔乾し場(1952年)
(出展:工場まちの探検ガイド 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(4)
・大森工業高等学校時代
終戦の翌年の1946年(昭和21年)に、旧制中学校の大森工業学校に入学したのですが、1947年(昭和22年)の学校制度の改革により、新制の大森学園中学校に半ば強制的に編入された新制中学を卒業しました。
中学からの進級校は、同年の学制改革により新設された新制高等学校への入学となります。
新制高校の大森工業高等学校は、1947年(昭和22年)に森ヶ崎で開校し、2年後の1949年に戦災で焼失した大森町の元大森工業学校の古巣の地に、廃工場の建物を移築して取りあえずの復興を叶えてスタートした大森工業高等学校へ入学しました。

この頃、1948年(昭和23年)、日本のインフレ抑制と経済自立のため、「経済安定九原則」がGHQにより指令されドッジによって推進されました。この政策により、インフレは収束したものの、同時に中小企業の倒産、失業、労働情勢悪化など深刻な不況を招く結果となりました。
学校の移転により、大森第四小学校の学域では無くなりましたので委託生徒は二年間で打ち切り、新制中学の大森学園中学校は一般から募集を行いましたが、不況のため応募者が少なく学校経営も苦しい時代でした。
その後、1950年(昭和25年)6月25日、南北朝鮮境界38度線で北朝鮮軍と韓国軍との間に戦闘が開始され、始まった朝鮮戦争は日本経済を一変しました。アメリカ占領下にあった日本は、直ちにアメリカ軍の緊急物資調達計画に繰り入れられて、朝鮮地域国連軍とアメリカ軍の軍用資材の発注を受けることになり、いわゆる朝鮮特需を迎えたのが日本の立ち直りのきっかけとなったのです。

大森工業高等学校卒業記念(完成したばかりの実習工場) 筆者:前から2列目の右から4番目

こうした在校生徒が少ない中で、大森工業高等学校を卒業しましたが、まだ不況から脱していない状況では、名も無い私立中学への応募は堪えきらず、大森学園中学校は廃校となり、新制中学の卒業校は存在していないのです。

・当時の大森町付近の風景
自宅の住居も、1949年に現大森町駅近くに土地を借り、そこに2間の平屋のバラック小屋を建てて仮の集合住宅から移り住み、戦後の生活をはじめたところでした。
当時の住居の周辺の状況は、京浜急行電鉄の大森町駅(当時は大森山谷駅と称してました)が1945年4月15日の大森町の空襲戦禍により焼失(「大森町界隈あれこれ(6) 大森町に住んで65年!(その5)」参照)して以来営業停止のままで、駅周辺にはバラックが10戸ほどの焼け野原の風景(「大森町界隈あれこれ(13) 鎮魂!大森町大空襲(第6回)大森町上空付近の航空写真(国土地理院) および「大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)1946年航空写真を元に作成の大森・入新井付近戦災地図参照)でした。

大森町駅の営業再開は、平和条約発効の年の1952年(昭和27年)12月15日ですが、戦災からそれまでは下り線のホームだけの残骸を曝しておりました。1952年頃になると、戦後の復興が進み、数キロほど離れた下丸子付近の多摩川べりで花火大会が開かれるようになり、まだ営業前の駅ホームの上から花火が遠望できるという、今では信じられないような風景でありました。
当時の大森警察署は、1931年(昭和6年)に大森町役場として3階のビルが建てられ、その後大森区役所として使われておりましたが、1941年(昭和16年)に区役所が大田区中央に移転したため、警視庁の大森警察署の庁舎となりました。この建物は、大森では最も大きなビルで、1986年(昭和61年)に解体されるまでは大森のシンボルでした。1939年から疎開までの間は、産業通りを隔てた警察のまん前に居住し、戦後のバラック建ての住居も大森警察の近くで、この古ぼけたビルは今でも瞼に浮かんでくるほど懐かしい建物でした。

戦後の食料難で、バラックの周囲の焼け野原には、食うために野菜などの自作をしましたが、焼け跡の灰が良い肥料となり、何でも良く育ち多少の自給自足になった思い出があります。
一方の伝統産業である海苔養殖業は、戦後の復興が進むと共に増産が行われ、1950年代初(昭和26、27年頃)には、戦前の最高レベルまで回復しました。それに伴い、海苔乾しが戦前の台乾しの方式(その2参照)から枠乾し方式(その3参照)に代わってきたため、広い空き地を使用しないでも海苔乾しができるため、大森町の海苔養殖業がそれまでは呑川沿岸の森ヶ崎周辺で生産していたものを、大森町の内陸の各所にある空き地を求めて進出し、特に内川に近いところのあちこちに海苔乾し風景(トップ写真)が見られるようになりました。

関西修学旅行京都 筆者:最後列の右から5番目
関西修学旅行奈良 筆者:後列の右から8番目
十国峠遠足(1950年) 筆者:後列の左から4番目

もりこう会の集い(その1参照)に出席して、60年前の中学、高校をふり返ると真に感無量です。また、大森町周辺も、景観が大きく変わろうとしております。歴史をふり返り、風化しつつある記録を残すことは、大変な意義があります。
今後、先に若山武義氏の大森町空襲の記録手記の掲載の続編として、大森町界隈の戦後編を掲載する予定にしております。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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