kan-haru blog 2012 内川上流から見たガスタンク
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NHK連続ドラマの「梅ちゃん先生」がスタートした、1945年(昭和20年)8月15日の終戦前には、学童疎開で茨城県・栃木県の国民(小)学校に通っていました。疎開先での国民学校では戦時教育で、ほぼ毎日、田んぼで草とりや山に入ったりして、まともな勉強をした記憶がありません。今回は、大森町に転居して住み始めてから、大戦により学童疎開をするまでの、大森町での生活(説明地図1に居住の時代)を追ってから、疎開時代の大森町から隔離した時間を飛ばして、疎開地から東京に引き揚げた後の、梅ちゃん先生時代の背景の大森町(説明地図8に居住の時代)での生活を追って、大森町の変遷を見てみます。
戦中・戦後の大森町説明地図
戦時経済下の大森町
1938年(昭和13年)に大森町に転入して、産業通りの大森区役所筋向いの会社事務所(地図1)の2階が大森町の住民としての最初の住居です。
事務所2階が大森町転居の住居(左・中:昭和13年頃、右:昭和18年頃)
住居前産業通りの筋向いには、迷彩色を施した大森区役所(地図2)が聳えており、1940年(昭和15年)に区役所が移転して、美原通りにあった大森警察署(地図4)が移ってきました。産業通りは、北方で第1京浜国道と美原通りとの4差路交差点で結ばれており、その4差路の交差点中央には1944年(昭和19年)までは丸いロータリーが設けられており、中央は草地でバッタやトンボが飛んでおり、こっそりと学童仲間での遊び場でした。
迷彩色の大森警察署(大森区役所)(左:昭和45年頃、右上:昭和45年頃、右下:昭和55年頃)
大森区役所の北隣は、大森消防署(地図3)があり火の見櫓が立ち、常時火の番が見張りをしていました。
大森消防署(左上:ラジオ体操昭和17年頃、左下:大森警察署屋上から4差路の交差点を望む昭和36年頃、右:ラジオ体操昭和17年頃)
昔の大森町には、古くから設立の日本特殊鋼や東京ガス会社があり、ガスタンクが見える街として通っております。住居2階の物干し台から東方を見ると、2基のガスタンクが見え右側は閉鎖式のタンクで、左側にはオープン式のタンクが見え、このタンクは毎日朝は満杯で、夕方は消費した姿を現しています。
東京ガス会社のガスタンク(左:昭和30年頃、右:戦前)
大森町の美原通りや第1京浜国道および澤田通りに沿った京浜急行の学校裏(平和島)駅や山谷(大森町)駅付近には、映画館・会館(地図A)および魚市場(地図9)などがあり、大森区の中心街でした。なお、当時は澤田通りは第1京浜国道が終点であり、春日橋で国鉄線とは立体交叉をしており、今日の環7通りの前身です。また、学校裏駅は戦後、環7通りの北方に移転しました。
学校裏駅と澤田通り(左:学校裏駅昭和34年、右:澤田通りは第1京浜国道で終点昭和29年)
1939年(昭和14年)に氏子の諏訪神社(地図5)隣の日新幼稚園(地図6)に入り、翌1940年に大森第1小学校(地図7)に入学し、当時は、人口が多く新入生は男児が3組、女児が3組の編成で、1組の人員も写真に示す様な大人数で、1年2組に入学しました。2年生から戦時体制が強まり国民学校令が施行されて、大森第1国民学校と名前が変わりました。
諏訪神社隣の日新幼稚園(左:遠足に出発、右:園内で相撲大会昭和14年)
当時の国民学校の目的は、「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことでありました。1941年(昭和16年)12月8日に世界大戦に突入し、戦局が落ち目となった1944年(昭和19年)に産業道路の防火帯にかかる建築物を撤去する建物疎開(強制疎開)により転居となり、東京ガス大森工場裏の同社事務所に移り仮住居(地図8)としました。日本政府は同年8月に連合国軍による本土空襲の可能性が高まり、「縁故者への疎開」と学校毎の集団疎開(学校疎開)の学童疎開が行われたので、茨城県岩瀬町に縁故疎開をしました。
大森第1小学校入学(筆者後列左から5番目)
戦時中の日本は、日中戦争長期化によって物資欠乏により、1938年(昭和13年)4月に公布された国家総動員法が制定され、広く生活必需品が配給制になり、特に市民生活に大きな影響を与えた綿衣料品の切符配給制は1939年(昭和14年)に始まりました。この年を最後に、街のお菓子屋さんでチョコレートが店から姿を消し、始めのうちは色も形も味もすっかりと変わった、チョコレートの紛い品が登場しましたが、それも姿を消しました。街の食堂での食事は、数に限りのある代用品の食事が食券が無いとたべられません。
世界大戦ではますます日常生活物資の不足を招き、1940年(昭和15年)に砂糖とマッチが、1941年(昭和16年)に主食である米穀・小麦粉が、1942年(昭和17年)には味噌・醤油などが切符配給制となりました。小学2年生になると、ゴムが不足して柔らかなゴムまりが、クラスで抽選で配給され当たりましたが、いつの間にかとられて無くなりました。
戦争の激化は生活必需物資の生産力が不足し、配給量自体も不足し、その後すべての生活物資は闇で購入する以外は手に入らない時代となり、市民は食料の買い出しに行かざるを得ない状態でした。
配給切符・通帳(左:衣料切符、中:米穀通帳、右:家庭用塩購入券)
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NHK連続ドラマの「梅ちゃん先生」がスタートした、1945年(昭和20年)8月15日の終戦前には、学童疎開で茨城県・栃木県の国民(小)学校に通っていました。疎開先での国民学校では戦時教育で、ほぼ毎日、田んぼで草とりや山に入ったりして、まともな勉強をした記憶がありません。今回は、大森町に転居して住み始めてから、大戦により学童疎開をするまでの、大森町での生活(説明地図1に居住の時代)を追ってから、疎開時代の大森町から隔離した時間を飛ばして、疎開地から東京に引き揚げた後の、梅ちゃん先生時代の背景の大森町(説明地図8に居住の時代)での生活を追って、大森町の変遷を見てみます。
戦中・戦後の大森町説明地図
戦時経済下の大森町
1938年(昭和13年)に大森町に転入して、産業通りの大森区役所筋向いの会社事務所(地図1)の2階が大森町の住民としての最初の住居です。
事務所2階が大森町転居の住居(左・中:昭和13年頃、右:昭和18年頃)
住居前産業通りの筋向いには、迷彩色を施した大森区役所(地図2)が聳えており、1940年(昭和15年)に区役所が移転して、美原通りにあった大森警察署(地図4)が移ってきました。産業通りは、北方で第1京浜国道と美原通りとの4差路交差点で結ばれており、その4差路の交差点中央には1944年(昭和19年)までは丸いロータリーが設けられており、中央は草地でバッタやトンボが飛んでおり、こっそりと学童仲間での遊び場でした。
迷彩色の大森警察署(大森区役所)(左:昭和45年頃、右上:昭和45年頃、右下:昭和55年頃)
大森区役所の北隣は、大森消防署(地図3)があり火の見櫓が立ち、常時火の番が見張りをしていました。
大森消防署(左上:ラジオ体操昭和17年頃、左下:大森警察署屋上から4差路の交差点を望む昭和36年頃、右:ラジオ体操昭和17年頃)
昔の大森町には、古くから設立の日本特殊鋼や東京ガス会社があり、ガスタンクが見える街として通っております。住居2階の物干し台から東方を見ると、2基のガスタンクが見え右側は閉鎖式のタンクで、左側にはオープン式のタンクが見え、このタンクは毎日朝は満杯で、夕方は消費した姿を現しています。
東京ガス会社のガスタンク(左:昭和30年頃、右:戦前)
大森町の美原通りや第1京浜国道および澤田通りに沿った京浜急行の学校裏(平和島)駅や山谷(大森町)駅付近には、映画館・会館(地図A)および魚市場(地図9)などがあり、大森区の中心街でした。なお、当時は澤田通りは第1京浜国道が終点であり、春日橋で国鉄線とは立体交叉をしており、今日の環7通りの前身です。また、学校裏駅は戦後、環7通りの北方に移転しました。
学校裏駅と澤田通り(左:学校裏駅昭和34年、右:澤田通りは第1京浜国道で終点昭和29年)
1939年(昭和14年)に氏子の諏訪神社(地図5)隣の日新幼稚園(地図6)に入り、翌1940年に大森第1小学校(地図7)に入学し、当時は、人口が多く新入生は男児が3組、女児が3組の編成で、1組の人員も写真に示す様な大人数で、1年2組に入学しました。2年生から戦時体制が強まり国民学校令が施行されて、大森第1国民学校と名前が変わりました。
諏訪神社隣の日新幼稚園(左:遠足に出発、右:園内で相撲大会昭和14年)
当時の国民学校の目的は、「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことでありました。1941年(昭和16年)12月8日に世界大戦に突入し、戦局が落ち目となった1944年(昭和19年)に産業道路の防火帯にかかる建築物を撤去する建物疎開(強制疎開)により転居となり、東京ガス大森工場裏の同社事務所に移り仮住居(地図8)としました。日本政府は同年8月に連合国軍による本土空襲の可能性が高まり、「縁故者への疎開」と学校毎の集団疎開(学校疎開)の学童疎開が行われたので、茨城県岩瀬町に縁故疎開をしました。
大森第1小学校入学(筆者後列左から5番目)
戦時中の日本は、日中戦争長期化によって物資欠乏により、1938年(昭和13年)4月に公布された国家総動員法が制定され、広く生活必需品が配給制になり、特に市民生活に大きな影響を与えた綿衣料品の切符配給制は1939年(昭和14年)に始まりました。この年を最後に、街のお菓子屋さんでチョコレートが店から姿を消し、始めのうちは色も形も味もすっかりと変わった、チョコレートの紛い品が登場しましたが、それも姿を消しました。街の食堂での食事は、数に限りのある代用品の食事が食券が無いとたべられません。
世界大戦ではますます日常生活物資の不足を招き、1940年(昭和15年)に砂糖とマッチが、1941年(昭和16年)に主食である米穀・小麦粉が、1942年(昭和17年)には味噌・醤油などが切符配給制となりました。小学2年生になると、ゴムが不足して柔らかなゴムまりが、クラスで抽選で配給され当たりましたが、いつの間にかとられて無くなりました。
戦争の激化は生活必需物資の生産力が不足し、配給量自体も不足し、その後すべての生活物資は闇で購入する以外は手に入らない時代となり、市民は食料の買い出しに行かざるを得ない状態でした。
配給切符・通帳(左:衣料切符、中:米穀通帳、右:家庭用塩購入券)
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