昭和大東京百図絵版画 大森・海苔乾し 1937年(昭和12年) 小泉発巳男
大田区立郷土博物館所蔵
大森工業高等学校の歴史(2)
・大森工業学校入学前
1945年(昭和20年)の終戦により縁故疎開先の栃木県から東京に引き上げてきて、暫くは東京ガス大森工場裏にあった、父の元勤務先の事務所を改造した共同住宅に仮住まい(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」および大森町学びやマップ④以下マップと称します 参照)をしました。
仮住まいの住宅からの通学学区は、疎開前の居住宅(マップ①)から通学していたのと同じ学校の大森第一国民学校(マップ③)ですので、そこへ転校しましたが4月15日の大森町大空襲で全焼のため、大森第五国民学校(マップ⑤)の校舎に間借りしての授業でした。
当時の国民学校は、戦時下の1941年(昭和16年)の学制改革により、入学時の東京市大森第一尋常小学校から東京市大森第一国民学校と改称され、さらに東京都制に移り東京都大森第一国民学校となり、戦後混乱の1946年(昭和21年)3月に間借り校舎で卒業証書も貰えず卒業したのです。
大森第一国民学校卒業記念(間借りの第五国民学校にて) 筆者:前から3列目の左端
現在の東京都大田区立大森第一小学校は、同年4月15日の学制改革で改称されたのです。この様に、小学校で3回の学制改革により校名が変わりましたが、これからも何回かの学制改革により、校名がその都度改名されてきました。
・大森工業学校時代
大森工業学校入学は、当時終戦直後の混乱期の真っ只中であり、中等学校制度(1943年中等学校令の5年制)の中学入学校の選別は大変な時代でした。
まずは、戦時下の小学校では、疎開や戦時教練などに追われまともな勉強が行われていない中、しかも通学のための交通機関も戦災被害の復興が進んでいない状況でありました。しかも、日本が初めての敗戦にあい、食うや食わずの状態で将来の展望が全く見えない状況では、進学校の選別は困難でした。
そこで、戦災で焼けた大森工業学校が森ヶ先の工場跡地で開校(マップ⑥)しているのを知り、仮住まいの住居から僅かの時間で徒歩通学ができることと、大戦で彼我の技術力の差を目の当たりに見せ付けられ工業が重要であることの単純な理由から、進学校として決めたのです。
当時の大森工業学校は、電気科と機械科の実業学校でありましたが、何せ戦災で焼け跡の工場での仮住まいであり、教室は荒削りの板で仕切り階下は土の土間のままで、当初は机と椅子が全く無く各自が鉄板をコの字上に曲げたものを椅子代わりとしての授業風景で、昔の寺子屋よりお粗末なものでした。当然、工業過程の機械や電気の実習教室は無しの授業でしたが、徐々に机と椅子は補充されてきました。
しかし、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを受け継いでおりましたので、昼間働いている人のため夜間部も開校しておりました。
終戦直後の工場跡地である大森工業学校周辺では、1年前までは兵器を作っていた中小工場で、焼け残りの機械や資材で、ナベ、カマ、弁当箱などを作ったり、空き地を耕作して野菜などを作るのが精一杯の状況でした。
また、この辺では、江戸時代より前から養殖海苔の大生産地でありましたので、終戦により増産が開始され、大森工業学校脇の現在では旧呑川緑地帯となっている呑川には、海苔採りに使う海苔船が沢山繋留(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)され、川岸の海苔漁師の畑には台乾しの海苔乾場が冬季の間見られました。
当時の風景は、学校傍の呑川に汐見橋があり、トップに掲載の戦前の版画とそっくりな風景であり、戦争でぎすぎすした心が和んだのを覚えております。その後、台乾しの海苔乾場は、海苔生産効率のため、枠乾し場に代わって行きました。
大森工業学校入学時代には、周囲で見られた台乾しの海苔乾場風景
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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大田区立郷土博物館所蔵
大森工業高等学校の歴史(2)
・大森工業学校入学前
1945年(昭和20年)の終戦により縁故疎開先の栃木県から東京に引き上げてきて、暫くは東京ガス大森工場裏にあった、父の元勤務先の事務所を改造した共同住宅に仮住まい(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」および大森町学びやマップ④以下マップと称します 参照)をしました。
仮住まいの住宅からの通学学区は、疎開前の居住宅(マップ①)から通学していたのと同じ学校の大森第一国民学校(マップ③)ですので、そこへ転校しましたが4月15日の大森町大空襲で全焼のため、大森第五国民学校(マップ⑤)の校舎に間借りしての授業でした。
当時の国民学校は、戦時下の1941年(昭和16年)の学制改革により、入学時の東京市大森第一尋常小学校から東京市大森第一国民学校と改称され、さらに東京都制に移り東京都大森第一国民学校となり、戦後混乱の1946年(昭和21年)3月に間借り校舎で卒業証書も貰えず卒業したのです。
大森第一国民学校卒業記念(間借りの第五国民学校にて) 筆者:前から3列目の左端
現在の東京都大田区立大森第一小学校は、同年4月15日の学制改革で改称されたのです。この様に、小学校で3回の学制改革により校名が変わりましたが、これからも何回かの学制改革により、校名がその都度改名されてきました。
・大森工業学校時代
大森工業学校入学は、当時終戦直後の混乱期の真っ只中であり、中等学校制度(1943年中等学校令の5年制)の中学入学校の選別は大変な時代でした。
まずは、戦時下の小学校では、疎開や戦時教練などに追われまともな勉強が行われていない中、しかも通学のための交通機関も戦災被害の復興が進んでいない状況でありました。しかも、日本が初めての敗戦にあい、食うや食わずの状態で将来の展望が全く見えない状況では、進学校の選別は困難でした。
そこで、戦災で焼けた大森工業学校が森ヶ先の工場跡地で開校(マップ⑥)しているのを知り、仮住まいの住居から僅かの時間で徒歩通学ができることと、大戦で彼我の技術力の差を目の当たりに見せ付けられ工業が重要であることの単純な理由から、進学校として決めたのです。
当時の大森工業学校は、電気科と機械科の実業学校でありましたが、何せ戦災で焼け跡の工場での仮住まいであり、教室は荒削りの板で仕切り階下は土の土間のままで、当初は机と椅子が全く無く各自が鉄板をコの字上に曲げたものを椅子代わりとしての授業風景で、昔の寺子屋よりお粗末なものでした。当然、工業過程の機械や電気の実習教室は無しの授業でしたが、徐々に机と椅子は補充されてきました。
しかし、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを受け継いでおりましたので、昼間働いている人のため夜間部も開校しておりました。
終戦直後の工場跡地である大森工業学校周辺では、1年前までは兵器を作っていた中小工場で、焼け残りの機械や資材で、ナベ、カマ、弁当箱などを作ったり、空き地を耕作して野菜などを作るのが精一杯の状況でした。
また、この辺では、江戸時代より前から養殖海苔の大生産地でありましたので、終戦により増産が開始され、大森工業学校脇の現在では旧呑川緑地帯となっている呑川には、海苔採りに使う海苔船が沢山繋留(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)され、川岸の海苔漁師の畑には台乾しの海苔乾場が冬季の間見られました。
当時の風景は、学校傍の呑川に汐見橋があり、トップに掲載の戦前の版画とそっくりな風景であり、戦争でぎすぎすした心が和んだのを覚えております。その後、台乾しの海苔乾場は、海苔生産効率のため、枠乾し場に代わって行きました。
大森工業学校入学時代には、周囲で見られた台乾しの海苔乾場風景
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(10月分掲載Indexへ)
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