2009(平成21)年は、広島港築港120周年になります。
【問題】
広島の海の玄関といえば広島港(宇品港)ですが、広島港の築港に尽力した県知事は誰でしょう?
1.千田貞暁(せんだ さだあき) 2.折田平内(おりた へいない) 3.江木千之(えき かずゆき) 4 .湯崎英彦(ゆざき ひでひこ)
【ヒント】
広島市内には、この人にちなんで名づけられた町があります。
ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。
【解答】
2.千田貞暁
【解説】
千田貞暁は薩摩藩出身で、広島県令・初代広島県知事。
千田は1880(明治13)年、広島県令(1886年から県知事と改められる)に就任し、海路で広島に赴任した。
宇品島の沖合いから小船に乗り換え、船着場(現・皆実町)を目指すが浅瀬に乗り上げ、遠浅を歩いて上陸した。
余談じゃが、鉄道が広島まで開通したのは1894(明治27)年のこと。
さらに余談じゃが、司馬遼太郎原作のNHKドラマ『坂の上の雲』で、本木雅弘演じる秋山真之(さねゆき)が伊予(現・愛 媛県)から東京へ行くのに、横浜まで船で行っとったね。
あれが1883(明治16)年のことじゃけえ、千田もドラマと同じように船に乗り降りしとったと思うんじゃ。
千田が県内を巡視すると、道路が悪く、物資が停滞していた。
産業発展のため、道路と港湾の整備を痛感した千田は、道路の改修と宇品築港を企画する。
宇品築港までは、江波港が広島の外港であった。
道路改修は、陰陽連絡三県道の拡張工事を着工した。
○広島-可部-浜田
○広島-可部-松江
○尾道-三次-松江
宇品築港は、「宇品港」と「宇品新開地(埋め立て)」が企画されたが、当初の工費は18万円余であった。
内務省からオランダ人技師ムルデルが派遣され、1882(明治15)年に計画ができ、工費を11万円余に切りつめた。
工費をさらに8万7108円まで切り詰めた千田は、1884(明治17)年に服部長七(ちょうしち)と工事の契約をした。
服部長七は愛知県の人で、山土に石灰を混入した一種のモルタルで人造石を作り、それを海岸堤防などに使用する工法を発明していた。
ところが、この工事によって漁場やカキ養殖場など生計の場を失う地元住民から反対運動が起こった。
また、工事自体も難工事で、潮止めの部分や築堤が決壊し、台風や悪天候などでも大きな被害を受けた。
さらに、人夫費・材料費の高騰による資金不足にも悩まされた。
こうした問題を乗り越え、1889(明治22)年に宇品築港事業は完成し、宇品新開地は宇品町と名づけられた。
しかし、工費は当初予算の3倍以上の30万余円、工期も5年3ヵ月(当初の予定は30ヵ月)かかった。
千田はこの工事に私財を投入しているが、国庫から補助を受けたため、同年12月に新潟県知事に左遷された。
完成当初は無用の長物とされた宇品港も、1894(明治27)年の日清戦争勃発で状況が一変する。
同年6月に鉄道が広島まで開通しており、8月にはこれに連結する形で宇品線(広島駅-宇品間5.9キロメートル。現在は廃線)が約半月の工期で完成した。
こうして、宇品港から兵士や物資が輸送され、大型船舶が停泊するようになった。
なお同年に作られた文部省唱歌「港」(旗野十一郎作詞、吉田信太作曲)は、往時の宇品港の賑わいを歌ったものとされている。
以上のような経緯から千田は近代広島の発展に寄与したとして評価され、1898(明治22)年には男爵を、広島市議会から感謝状を送られた。
死後、1908(明治41)年に宇品新開地記念碑、1915(大正4)年に千田本人の銅像、1925(大正14)年には千田廟社(千田神社)が立てられ、千田廟公園として宇品に整備されている。
また千田の功績をたたえ、国泰寺(こくたいじ)村の一部が千田町(せんだまち)と改称された。
(千田町には千田公園があるが、宇品にある千田廟公園とは違うので、念のため)
選択肢2の折田平内は第3代広島県知事。(1896(明治29)年4月-1897(明治30)年4月)
選択肢3の江木千之は第7代広島県知事。(1898(明治31)年12月-1903(明治36)年6月)
選択肢4の湯崎英彦は現・広島県知事。(11月8日の選挙で当選し、同月29日に就任した)
小さいころから千田廟公園にはよく遊びに行きよったんで、千田貞暁には固定イメージができあがっとる。
「せんだこうえん」におる、「コートを着て、ひげを生やし」た「せんださだあき」という人は、「宇品をつくったえらい人」。
今回は、それを再確認したようなもんじゃ。
ところで「井戸塀(いどべい)」という言葉はご存知ですかいの?
「政治家が政治に財産をつぎ込んだために、屋敷がなくなり、井戸と塀しか残らないほど貧しくなる」ということじゃ。
「千田は私財を投入した」と書いたが、一説によると、総工費30万円のうち、14万円を千田が支払ったという。
千田のような政治家に、尊敬の意味を込めて「井戸塀」という言葉が作られたと思うんよ。
(本来の意味はわからないので、この解釈は間違っているかもしれませんが…)
今の政治家に聞かせてやりたいもんじゃのう。
今回は、宇品築港と千田の業績の話だけになってしもうた。
以後の歴史は、次の機会ということに…。
今日は、宇品築港と千田貞暁について勉強をさせてもらいました。
ここまで苦労して築いた宇品港が、完成当初は無用の長物だったということを、今回はじめて知りました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
【問題】
広島の海の玄関といえば広島港(宇品港)ですが、広島港の築港に尽力した県知事は誰でしょう?
1.千田貞暁(せんだ さだあき) 2.折田平内(おりた へいない) 3.江木千之(えき かずゆき) 4 .湯崎英彦(ゆざき ひでひこ)
【ヒント】
広島市内には、この人にちなんで名づけられた町があります。
ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。
【解答】
2.千田貞暁
【解説】
千田貞暁は薩摩藩出身で、広島県令・初代広島県知事。
千田は1880(明治13)年、広島県令(1886年から県知事と改められる)に就任し、海路で広島に赴任した。
宇品島の沖合いから小船に乗り換え、船着場(現・皆実町)を目指すが浅瀬に乗り上げ、遠浅を歩いて上陸した。
余談じゃが、鉄道が広島まで開通したのは1894(明治27)年のこと。
さらに余談じゃが、司馬遼太郎原作のNHKドラマ『坂の上の雲』で、本木雅弘演じる秋山真之(さねゆき)が伊予(現・愛 媛県)から東京へ行くのに、横浜まで船で行っとったね。
あれが1883(明治16)年のことじゃけえ、千田もドラマと同じように船に乗り降りしとったと思うんじゃ。
千田が県内を巡視すると、道路が悪く、物資が停滞していた。
産業発展のため、道路と港湾の整備を痛感した千田は、道路の改修と宇品築港を企画する。
宇品築港までは、江波港が広島の外港であった。
道路改修は、陰陽連絡三県道の拡張工事を着工した。
○広島-可部-浜田
○広島-可部-松江
○尾道-三次-松江
宇品築港は、「宇品港」と「宇品新開地(埋め立て)」が企画されたが、当初の工費は18万円余であった。
内務省からオランダ人技師ムルデルが派遣され、1882(明治15)年に計画ができ、工費を11万円余に切りつめた。
工費をさらに8万7108円まで切り詰めた千田は、1884(明治17)年に服部長七(ちょうしち)と工事の契約をした。
服部長七は愛知県の人で、山土に石灰を混入した一種のモルタルで人造石を作り、それを海岸堤防などに使用する工法を発明していた。
ところが、この工事によって漁場やカキ養殖場など生計の場を失う地元住民から反対運動が起こった。
また、工事自体も難工事で、潮止めの部分や築堤が決壊し、台風や悪天候などでも大きな被害を受けた。
さらに、人夫費・材料費の高騰による資金不足にも悩まされた。
こうした問題を乗り越え、1889(明治22)年に宇品築港事業は完成し、宇品新開地は宇品町と名づけられた。
しかし、工費は当初予算の3倍以上の30万余円、工期も5年3ヵ月(当初の予定は30ヵ月)かかった。
千田はこの工事に私財を投入しているが、国庫から補助を受けたため、同年12月に新潟県知事に左遷された。
完成当初は無用の長物とされた宇品港も、1894(明治27)年の日清戦争勃発で状況が一変する。
同年6月に鉄道が広島まで開通しており、8月にはこれに連結する形で宇品線(広島駅-宇品間5.9キロメートル。現在は廃線)が約半月の工期で完成した。
こうして、宇品港から兵士や物資が輸送され、大型船舶が停泊するようになった。
なお同年に作られた文部省唱歌「港」(旗野十一郎作詞、吉田信太作曲)は、往時の宇品港の賑わいを歌ったものとされている。
以上のような経緯から千田は近代広島の発展に寄与したとして評価され、1898(明治22)年には男爵を、広島市議会から感謝状を送られた。
死後、1908(明治41)年に宇品新開地記念碑、1915(大正4)年に千田本人の銅像、1925(大正14)年には千田廟社(千田神社)が立てられ、千田廟公園として宇品に整備されている。
また千田の功績をたたえ、国泰寺(こくたいじ)村の一部が千田町(せんだまち)と改称された。
(千田町には千田公園があるが、宇品にある千田廟公園とは違うので、念のため)
選択肢2の折田平内は第3代広島県知事。(1896(明治29)年4月-1897(明治30)年4月)
選択肢3の江木千之は第7代広島県知事。(1898(明治31)年12月-1903(明治36)年6月)
選択肢4の湯崎英彦は現・広島県知事。(11月8日の選挙で当選し、同月29日に就任した)
小さいころから千田廟公園にはよく遊びに行きよったんで、千田貞暁には固定イメージができあがっとる。
「せんだこうえん」におる、「コートを着て、ひげを生やし」た「せんださだあき」という人は、「宇品をつくったえらい人」。
今回は、それを再確認したようなもんじゃ。
ところで「井戸塀(いどべい)」という言葉はご存知ですかいの?
「政治家が政治に財産をつぎ込んだために、屋敷がなくなり、井戸と塀しか残らないほど貧しくなる」ということじゃ。
「千田は私財を投入した」と書いたが、一説によると、総工費30万円のうち、14万円を千田が支払ったという。
千田のような政治家に、尊敬の意味を込めて「井戸塀」という言葉が作られたと思うんよ。
(本来の意味はわからないので、この解釈は間違っているかもしれませんが…)
今の政治家に聞かせてやりたいもんじゃのう。
今回は、宇品築港と千田の業績の話だけになってしもうた。
以後の歴史は、次の機会ということに…。
今日は、宇品築港と千田貞暁について勉強をさせてもらいました。
ここまで苦労して築いた宇品港が、完成当初は無用の長物だったということを、今回はじめて知りました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
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