「今日は8月6日じゃのう」
「66回目の原爆の日じゃね」
「平和記念資料館の北側に被爆アオギリがあるのは、知っとるかいのう?」
「知っとるよ」
「あのアオギリは、旧・広島逓信局(ていしんきょく)から移されてきたもんなんじゃ」
「へぇ、そうなんじゃ。ところで、逓信局って何かいね?」
「郵便や電話の事業を行っとったところじゃの。広電・白島(はくしま)線の白島電停の西側に、日本郵便の建物があるじゃろ」
「うん、あるね」
「あそこにあったんじゃ」
被爆したアオギリ
市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭(爆心地から約1,300m)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱戦と爆風により焼けてえぐられましたが、その傷跡を包むようにして成長を続けています。
1973(昭和48)年5月に現在地へ移植されました。
(平和公園内にある被爆アオギリの説明板より)
平和公園内にある被爆アオギリ
幹がえぐられた被爆アオギリ
「逓信局にはアオギリが3本あったんじゃが、原爆が投下された翌年(1946年)の春には、その3本とも新芽を出したそうじゃ」
「すごいね。広島には草木が70年も生えない、と言われとったころじゃろ」
「芽を出したアオギリが、みんなに生きる元気や勇気、希望を与えたんじゃろうの。1973年(昭和48)、庁舎を建て替えることになって、平和公園内の現在の場所に3本とも移植されたんじゃ。3本のうち1本は枯れてしもうたが、2本は現在も生きとるんよの」
「最近は2世もあるよね」
「すぐそばにもあるし、日本郵便(旧・逓信局)の敷地内にもあるんじゃ」
-被爆50周年記念植樹-
被爆アオギリ二世
被爆アオギリ二世の親木は広島逓信局の中庭(爆心地から約1.5km)で被爆し、爆心側は黒く焼けただれ、幹を大きくえぐられたが、翌年の春には新芽をふき、多くの市民に生きる勇気と感動を与えたと伝えられている。
昭和48年(1973)4月、庁舎改善等にあたり、被爆の生き証人として後世に伝えるため広島市に寄贈、平和記念公園に移植された。
平成7年(1995年)4月24日、「被爆50周年」を記念して、被爆アオギリの種から育てられた苗木を広島市から譲り受け、当地へ移植した。
平成7年(1995年)8月6日 記念碑設置
(日本郵便(旧・広島逓信局)の敷地内の碑より)
日本郵便(旧・逓信局)の敷地内にある被爆アオギリ二世
被爆アオギリ二世
平成12年(2000年)夏、この場所から約10mはなれた植え込みの中で自然の実生から育っていた「被爆アオギリ二世」と確認できる苗木が見つかりましたので平成15年(2003年)3月19日に移植しました。
広島市
(平和公園内にある被爆アオギリの説明板より)
「日本郵便の方は1995年に苗木を譲り受けて植えられたもんじゃけど、平和公園内のものは、自然に育ってきたものを被爆アオギリのそばに植え直しちゃったんじゃね」
「この木から種を取って、全国各地に植える運動をされとってんじゃ」
「平和公園内の被爆アオギリは3本あって、向かって左側と真ん中の2本が被爆アオギリで、向かって右側の1本が被爆アオギリ二世なんよね」
「そういや、平和公園内の被爆アオギリ二世には、先日亡くなられた沼田鈴子さんへの千羽鶴が飾ってあったのう」
「沼田さんって、被爆の語り部をされとった方じゃろ」
「ほうじゃのう。広島逓信局に勤めておられて、原爆が投下された時には、倒れた建物の下敷きになったんじゃが助け出されて、中庭に植えてあったアオギリのそばに寝かされとったそうじゃ」
被爆アオギリ二世にかけられた千羽鶴
2011年平和記念式典会場
2011年8月6日夜の原爆ドーム
「今日は旧暦の7月7日じゃけん、原爆ドームの上にきれいな上弦(じょうげん)の月が見えとったで」
「ということは、織姫と彦星が1年に1度、天の川で会える日なんじゃね。あぁ、天気になってよかったよ」
灯籠(とうろう)流しが行われている元安川(もとやすがわ)
(青文字部分 23時50分追加)
↓被爆アオギリについては、こちら↓
「24 被爆したアオギリ」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
「被爆アオギリ二世の苗木を配付していると聞いたのですが(FAQID-5581)」広島市ホームページ
↓沼田鈴子さんについては、こちら↓
「沼田鈴子さん亡くなる 87歳」中国新聞 2011年7月12日
「今日は、被爆アオギリについて勉強をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの。おお、仕事に行く時間じゃ」
「行ってらっしゃい」
「66回目の原爆の日じゃね」
「平和記念資料館の北側に被爆アオギリがあるのは、知っとるかいのう?」
「知っとるよ」
「あのアオギリは、旧・広島逓信局(ていしんきょく)から移されてきたもんなんじゃ」
「へぇ、そうなんじゃ。ところで、逓信局って何かいね?」
「郵便や電話の事業を行っとったところじゃの。広電・白島(はくしま)線の白島電停の西側に、日本郵便の建物があるじゃろ」
「うん、あるね」
「あそこにあったんじゃ」
被爆したアオギリ
市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭(爆心地から約1,300m)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱戦と爆風により焼けてえぐられましたが、その傷跡を包むようにして成長を続けています。
1973(昭和48)年5月に現在地へ移植されました。
(平和公園内にある被爆アオギリの説明板より)
平和公園内にある被爆アオギリ
幹がえぐられた被爆アオギリ
「逓信局にはアオギリが3本あったんじゃが、原爆が投下された翌年(1946年)の春には、その3本とも新芽を出したそうじゃ」
「すごいね。広島には草木が70年も生えない、と言われとったころじゃろ」
「芽を出したアオギリが、みんなに生きる元気や勇気、希望を与えたんじゃろうの。1973年(昭和48)、庁舎を建て替えることになって、平和公園内の現在の場所に3本とも移植されたんじゃ。3本のうち1本は枯れてしもうたが、2本は現在も生きとるんよの」
「最近は2世もあるよね」
「すぐそばにもあるし、日本郵便(旧・逓信局)の敷地内にもあるんじゃ」
-被爆50周年記念植樹-
被爆アオギリ二世
被爆アオギリ二世の親木は広島逓信局の中庭(爆心地から約1.5km)で被爆し、爆心側は黒く焼けただれ、幹を大きくえぐられたが、翌年の春には新芽をふき、多くの市民に生きる勇気と感動を与えたと伝えられている。
昭和48年(1973)4月、庁舎改善等にあたり、被爆の生き証人として後世に伝えるため広島市に寄贈、平和記念公園に移植された。
平成7年(1995年)4月24日、「被爆50周年」を記念して、被爆アオギリの種から育てられた苗木を広島市から譲り受け、当地へ移植した。
平成7年(1995年)8月6日 記念碑設置
(日本郵便(旧・広島逓信局)の敷地内の碑より)
日本郵便(旧・逓信局)の敷地内にある被爆アオギリ二世
被爆アオギリ二世
平成12年(2000年)夏、この場所から約10mはなれた植え込みの中で自然の実生から育っていた「被爆アオギリ二世」と確認できる苗木が見つかりましたので平成15年(2003年)3月19日に移植しました。
広島市
(平和公園内にある被爆アオギリの説明板より)
「日本郵便の方は1995年に苗木を譲り受けて植えられたもんじゃけど、平和公園内のものは、自然に育ってきたものを被爆アオギリのそばに植え直しちゃったんじゃね」
「この木から種を取って、全国各地に植える運動をされとってんじゃ」
「平和公園内の被爆アオギリは3本あって、向かって左側と真ん中の2本が被爆アオギリで、向かって右側の1本が被爆アオギリ二世なんよね」
「そういや、平和公園内の被爆アオギリ二世には、先日亡くなられた沼田鈴子さんへの千羽鶴が飾ってあったのう」
「沼田さんって、被爆の語り部をされとった方じゃろ」
「ほうじゃのう。広島逓信局に勤めておられて、原爆が投下された時には、倒れた建物の下敷きになったんじゃが助け出されて、中庭に植えてあったアオギリのそばに寝かされとったそうじゃ」
被爆アオギリ二世にかけられた千羽鶴
2011年平和記念式典会場
2011年8月6日夜の原爆ドーム
「今日は旧暦の7月7日じゃけん、原爆ドームの上にきれいな上弦(じょうげん)の月が見えとったで」
「ということは、織姫と彦星が1年に1度、天の川で会える日なんじゃね。あぁ、天気になってよかったよ」
灯籠(とうろう)流しが行われている元安川(もとやすがわ)
(青文字部分 23時50分追加)
↓被爆アオギリについては、こちら↓
「24 被爆したアオギリ」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
「被爆アオギリ二世の苗木を配付していると聞いたのですが(FAQID-5581)」広島市ホームページ
↓沼田鈴子さんについては、こちら↓
「沼田鈴子さん亡くなる 87歳」中国新聞 2011年7月12日
「今日は、被爆アオギリについて勉強をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの。おお、仕事に行く時間じゃ」
「行ってらっしゃい」