通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

映画『八甲田山』 八丁座

2012年09月02日 | まんが・テレビ・映画
「昨日は、映画『八甲田山(ニュープリント版)』を観に八丁座へ行ってきたんじゃ。10時30分の回は、ほぼ満員じゃったのう」

「『八甲田山』って、北大路欣也(きたおおじ きんや)が「天は我々を見放した」ってセリフを言うやつ?」

「そうそう、その映画じゃ。1977年(昭和52年)の上映じゃけぇ、今から35年も前の映画になるんじゃの」

「なんで、今ごろ上映しとってんかね?」

「高倉健(たかくら けん)の主演映画『あなたへ』が上映中じゃないけぇかの」

「え!? 『八甲田山』に健さんが出とるん? うちゃ、北大路さんが主演かと思うとったよ」

「健さんと北大路さんの、ダブル主演というたらええんじゃろうかのう」

「そういや、『八甲田山』ってどんな話なんかいね?」



「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田と弘前第三十一連隊の徳島は全身を硬直させた。
日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。
第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。
二人の大尉は責任の重さに慄然とした。
雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。
年が明けて一月二十日。
徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。
行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。
出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。
一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。
(後略)

(「あらすじ 解説 八甲田山<完全版>」goo 映画)




「時代的には、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)にかけて、日本と清(しん。現在の中国)との間で行われた日清戦争(にっしんせんそう)と、1904年(明治37年)から翌1905年(明治38年)にかけて、日本とロシアとの間で行われた日露戦争(にちろせんそう)の間の話になるんじゃの」

「ロシアと戦うんじゃけぇ、寒冷地での訓練が必要じゃと考えられたわけじゃね」

「訓練の場所として選ばれたのが、青森県にある八甲田山なんよ」

「その雪中行軍として参加するのが、青森第5連隊の神田と、弘前(ひろさき)第31連隊の徳島で、八甲田山ですれ違うというコースなんじゃね」

「神田大尉を北大路欣也、徳島大尉を高倉健が演じられとるんじゃ。2人の友情も、見所のひとつじゃろうの」

「なるほど。それでダブル主演というわけじゃね」

「今回は映画を楽しむというより、「このシーンはどうやって撮影しとるんじゃろうか?」という視点で見てしもうたのう」

「というと?」

「室内のシーンは撮影所でされたそうじゃが…」



実際に真冬の八甲田山でロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。

(「八甲田山 (映画)」ウィキペディア)




「過酷なロケか…。実際の温度はわからんけど、真冬の八甲田山じゃけぇ、撮影現場は氷点下何10度という世界じゃろうね」

「過酷なロケといえば、その過酷さに耐えきれずに脱走した俳優もおったそうなんよ。ほいで、裸で凍死する兵の肌が紫色に映っとるのは、メイクじゃのうて、ほんまに凍傷になりかけたためという話もあるそうじゃ。あと、健さんも、足が軽度の凍傷になったという話もあるくらいじゃけぇの」

「そんな寒い状況で、よくカメラが動いたね」

「パナビジョンという会社のキャメラを使うとられたそうで、このカメラは寒さに強いんじゃと。もっとも、コードの周りにはいろんなものを巻いて暖められとったそうじゃがの」

「神田隊って、210名おってんじゃろ? キャメラで、行軍の前から後まで撮影するだけでも大変じゃろうね」

「大変といえば、1975年に健さん演じる徳島隊の行軍を撮影して、翌1976年には北大路さん演じる神田隊の行軍を撮影されたそうじゃ」

「ありゃま。日程的にも手間ひまかけて撮影されとってんじゃね」

「なにせ、3年という制作期間をかけとってじゃけぇの」

「それは、すごい」

「撮影で一番驚いたのが、雪崩のシーン。俳優たちの目の前で雪崩が起きて、それがそのまま自分たちのところまでやってくるとうシーンなんじゃ」

「それって、合成じゃないん?」

「いんや。実際に雪崩が起きたんじゃ。映画の中の一瞬のシーンじゃったが、長年、特撮映画を見慣れたわしの目に狂いはないはずじゃ」



これは、日本映画初の人工雪崩を起こして撮った場面だね。
50キロ分のダイナマイト103本を、250メートルの急斜面に仕掛けて爆破したんだ。

(木村大作、金澤誠「誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像」キネマ旬報社 2009年)




「すごいねぇ。映画いうのは、ここまでして撮影してんじゃね」

「この雪崩の撮影の時、3台のキャメラを廻しとられたそうなんよ。カメラマンのうちの1人が雪崩に巻き込まれたそうじゃが、キャメラはしっかりと廻っとったそうじゃ」

「すごいプロ根性なじゃね! ちょっと待ってよ…。この本を書かれた木村大作(きむら だいさく)って、どっかで聞いた名前じゃね」

「3年前に公開された『劒岳 点の記(つるぎだけ てんのき)』という映画を監督された方じゃ。『八甲田山』には、キャメラマン(撮影)で参加されとってんよ」

「広島市映像文化ライブラリーで講演会を聞いてきたいうて、お父さんが話をしたのを聞いた覚えがあるんじゃけど?」

「おぉ、ほうじゃった。あの時、『八甲田山』での健さんの話をされとったのう」

「木村さんが、健さんに直談判に行ったという話を聞いたような…」

「えーっと、だいたいこういう話じゃったんよ。徳島隊の先頭に立つのが、健さん演じる徳島大尉その人なんじゃ。ところが、健さんが撮影現場に来るのが遅いけぇ、撮影が進まんのよ」

「健さんはそういう人じゃないように思うんじゃけど?」

「健さんは、『網走番外地』シリーズや『昭和残侠伝シリーズ』などに主演されとった、東映の大スターじゃったのは、知っとるよの。その東映では、撮影が昼から始まったそうなんよ」

「へぇ。そうなんじゃ」

「健さんは、1970年(昭和45年)に高倉プロを設立して、1976年(昭和51年)には東映を退社したばっかりじゃったんよ」

「ということは、『八甲田山』のころは、健さんが東映を辞めるか辞めんかのころじゃね」

「『八甲田山』は、東宝で製作された映画なんよ。ちなみに、『八甲田山』が公開された1977年は、山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』(松竹)も公開されとるんじゃの」

「どっちも、健さんが出演されとってじゃね」

「ほいじゃけぇ、1977年は健さんにとってターニングポイントの年じゃったんじゃないんかの。それはともかく、最初は健さんが来るのを待っとった木村さん。しびれを切らせて、監督の森谷司郎(もりたに しろう)さんと健さんのところへ行って、こう言われたそうじゃ。「先頭を歩く人がいないと撮影になりません! 何とか朝一番に来てもらえないでしょうか!!」」

「で、これを健さんが受け入れた、というわけじゃね。映画の話じゃけど、八甲田山の行軍はどうなったんかね?」

「徳島隊は負傷者1名を列車で帰した以外は、全員無事に帰還。これに対して、神田隊210名のうち、生存者は12名。神田大尉自身は、舌をかみ切って自決されたんじゃ。映画の最後に後日談が出てくるんじゃが、徳島大尉のモデルとなった福島大尉は、日露戦争の黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)で戦死されたそうじゃ」





↓八甲田山については、こちら↓

「八甲田山雪中行軍遭難資料館」FOUR-SEASONS PARK モヤヒルズ





↓八丁座については、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】





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東映名誉会長・岡田茂氏を悼む 東広島市

東映任侠映画の花 藤純子






「今日は、八丁座で上映中の映画『八甲田山』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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