「JR福山駅南口にある五浦釣人像が、移設されるそうじゃのう」
福山市のJR福山駅南口の待ち合わせ場所などとして市民に親しまれている「五浦釣人(いづらちょうじん)像」が、同駅の商業施設の増築に伴って移設される。市が25日、市議会都市整備特別委員会で報告した。移設先は未定。市は「駅周辺で適切な場所を考える」としている。
釣人像はブロンズ製で、名誉市民の彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872~1979年)の作。1975年、市が山陽新幹線の開通を記念して設置した。一部はJR西日本の敷地を無償で借りている。像が持つさおを含めた高さは約6メートルあり、駅前のシンボルとして親しまれてきた。
JR西日本岡山支社の計画では、現在の駅舎の南側に約1200平方メートルを増築する。現時点では1階建て。ただ、今後の詳細な検討で2階建ても視野に入れるという。完成のめどは来年12月。釣人像の一部が建物に重なるため、移設が必要となるという。
(「「五浦釣人像」移設へ 福山」中国新聞 2012年9月26日)
「「五浦釣人」と書いて、「いづらちょうじん」と読むんか…。この像のモデルになった方はどなたかね?」
「モデルになったのは、平櫛が師事した岡倉天心で、この像は岡倉がさおを持つ姿をかたどって作られたんよ。ちなみに像自体の高さは2・35メートルになるそうじゃ」
「「釣人」の方は分かったけど、「五浦」というのは?」
「五浦海岸(いつうらかいがん、いづらかいがん)というのが、茨城県北部にあるんよ。岡倉天心は1906年(明治39年)、ここに日本美術院を移転して、その前年の(1905年(明治38年)には六角堂(ろっかくどう)も作られたんじゃ」
「六角堂? どっかで聞いたことがある名前なんじゃけど…。そうか。昨年の東日本大震災で津波で流されたんじゃなかったっけ?」
「土台だけが残されたんじゃの。それが今年(2012年)再建されて、4月28日から一般公開されとるそうじゃ」
晩年の天心は、世界を飛び回る忙しい中で五浦で静養し、その時は「五浦老人」などと自称しながら漁師の如く毎日海へ出て釣りを楽しんでいた。
(「六角堂 (北茨城市)」ウィキペディア)
「平櫛田中は「名誉市民」と書いてあったけど、福山市の方なん?」
「岡山県後月郡(しつきぐん。現・井原市)の生まれなんじゃが、10歳の時に、広島県沼隈郡(ぬまくまぐん。現・福山市)にある平櫛家の養子になったんじゃ」
「で、彫刻家になられたんじゃね?」
「さっきも言うたように、田中は岡倉天心に師事されたんじゃの」
明治末期から大正初期にかけて、東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。
東京藝大構内の六角堂に田中作になる「岡倉天心像」が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。
(「平櫛田中」ウィキペディア)
「それで、岡倉をモデルに五浦釣人の像を作られたんじゃね」
「ちなみに、JR福山駅前にある五浦釣人像はレプリカなんじゃ」
「本物はどこにあるん?」
「岡山県井原市にある「井原市立田中美術館」にあるそうじゃ」
五浦釣人
この五浦釣人像は昭和五十年 山陽新幹線の開通と福山駅舎の落成を記念して本市の名誉市民 平櫛田中先生のご厚情をうけて建立したものです
田中翁の快心作といわれるこの像には 翁の生涯の師として崇敬された岡倉天心先生が東京から五浦に移って 横山大観など多くの偉才を育てたことを釣にたとえ 師に対する報恩の気持ちがこめられています
田中翁は 練達した彫技法による写実的な作風で田中芸術を開花させ世界に誇る木彫の名匠として活躍されましたが 昭和五十四年 百八才で他界されました
文化功労 文化勲章受章者
日本芸術院会員 東京芸術大名誉教授
福山市
↓平櫛田中については、こちら↓
「福山市/プロフィール/名誉市民」福山市ホームページ
井原市立田中美術館
↓五浦海岸については、こちら↓
「五浦ジオサイト」茨城県北ジオパーク
「今日は、JR福山駅南口にある五浦釣人像について勉強をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
福山市のJR福山駅南口の待ち合わせ場所などとして市民に親しまれている「五浦釣人(いづらちょうじん)像」が、同駅の商業施設の増築に伴って移設される。市が25日、市議会都市整備特別委員会で報告した。移設先は未定。市は「駅周辺で適切な場所を考える」としている。
釣人像はブロンズ製で、名誉市民の彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872~1979年)の作。1975年、市が山陽新幹線の開通を記念して設置した。一部はJR西日本の敷地を無償で借りている。像が持つさおを含めた高さは約6メートルあり、駅前のシンボルとして親しまれてきた。
JR西日本岡山支社の計画では、現在の駅舎の南側に約1200平方メートルを増築する。現時点では1階建て。ただ、今後の詳細な検討で2階建ても視野に入れるという。完成のめどは来年12月。釣人像の一部が建物に重なるため、移設が必要となるという。
(「「五浦釣人像」移設へ 福山」中国新聞 2012年9月26日)
「「五浦釣人」と書いて、「いづらちょうじん」と読むんか…。この像のモデルになった方はどなたかね?」
「モデルになったのは、平櫛が師事した岡倉天心で、この像は岡倉がさおを持つ姿をかたどって作られたんよ。ちなみに像自体の高さは2・35メートルになるそうじゃ」
「「釣人」の方は分かったけど、「五浦」というのは?」
「五浦海岸(いつうらかいがん、いづらかいがん)というのが、茨城県北部にあるんよ。岡倉天心は1906年(明治39年)、ここに日本美術院を移転して、その前年の(1905年(明治38年)には六角堂(ろっかくどう)も作られたんじゃ」
「六角堂? どっかで聞いたことがある名前なんじゃけど…。そうか。昨年の東日本大震災で津波で流されたんじゃなかったっけ?」
「土台だけが残されたんじゃの。それが今年(2012年)再建されて、4月28日から一般公開されとるそうじゃ」
晩年の天心は、世界を飛び回る忙しい中で五浦で静養し、その時は「五浦老人」などと自称しながら漁師の如く毎日海へ出て釣りを楽しんでいた。
(「六角堂 (北茨城市)」ウィキペディア)
「平櫛田中は「名誉市民」と書いてあったけど、福山市の方なん?」
「岡山県後月郡(しつきぐん。現・井原市)の生まれなんじゃが、10歳の時に、広島県沼隈郡(ぬまくまぐん。現・福山市)にある平櫛家の養子になったんじゃ」
「で、彫刻家になられたんじゃね?」
「さっきも言うたように、田中は岡倉天心に師事されたんじゃの」
明治末期から大正初期にかけて、東京藝大の基礎となる東京美術学校を創立した岡倉天心に師事した。
東京藝大構内の六角堂に田中作になる「岡倉天心像」が安置されており、天心を敬愛していた田中は藝大勤務時代には登校のたびに、この自作の像に最敬礼していた。
(「平櫛田中」ウィキペディア)
「それで、岡倉をモデルに五浦釣人の像を作られたんじゃね」
「ちなみに、JR福山駅前にある五浦釣人像はレプリカなんじゃ」
「本物はどこにあるん?」
「岡山県井原市にある「井原市立田中美術館」にあるそうじゃ」
五浦釣人
この五浦釣人像は昭和五十年 山陽新幹線の開通と福山駅舎の落成を記念して本市の名誉市民 平櫛田中先生のご厚情をうけて建立したものです
田中翁の快心作といわれるこの像には 翁の生涯の師として崇敬された岡倉天心先生が東京から五浦に移って 横山大観など多くの偉才を育てたことを釣にたとえ 師に対する報恩の気持ちがこめられています
田中翁は 練達した彫技法による写実的な作風で田中芸術を開花させ世界に誇る木彫の名匠として活躍されましたが 昭和五十四年 百八才で他界されました
文化功労 文化勲章受章者
日本芸術院会員 東京芸術大名誉教授
福山市
↓平櫛田中については、こちら↓
「福山市/プロフィール/名誉市民」福山市ホームページ
井原市立田中美術館
↓五浦海岸については、こちら↓
「五浦ジオサイト」茨城県北ジオパーク
「今日は、JR福山駅南口にある五浦釣人像について勉強をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」