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”影のコーチ”として浅田真央を支えてきた小林れい子コーチの出身地はどこ?

2010年02月27日 | スポーツ

バンクーバー五輪で、浅田真央が銀メダルを取りましたのう。
あれだけの演技をしても銀メダル。
「悔しい」「悔いが残る」と発言されとりましたが、現時点では、世界歴代最高を更新したキム・ヨナ(韓国)の方が上ということじゃ。



【問題】
浅田真央の”影のコーチ”としてジュニア時代から支えてきた、小林れい子・JOC専任コーチの出身地はどこでしょうか?

1.呉市  2.東広島市  3.広島市  4.福山市









【正解】
1.呉市



【解説】
小林れい子さん(49)。
呉市出身。
五輪は夢だった。
小学校低学年からフィギュアを始め、呉市の自宅から連日、広島市内のスケートリンクに通って練習。
現役時代は渡辺絵美さん(50)の陰に隠れ、全日本選手権は4年連続で2位。
五輪出場を果たせずに引退した。
(「メダル支えた影の師」中国新聞 2010年2月27日)




小林れい子は、1972年全日本ジュニア選手権2位。
75年の全日本選手権で3位。
翌76年から79年の4年間、全日本選手権で2位。
そして、80年の全日本選手権で優勝。
国際大会では、77年ネーベルホルン杯優勝、81年世界フィギュアスケート選手権17位という記録を残している。



渡辺絵美は1972年から79年の8年間、全日本選手権で優勝。
1979年の世界フィギュアスケート選手権で、日本女子として史上初の銅メダルを獲得した。



小林は2006年トリノ五輪後にJOC専任コーチに就任。
現在の採点方法に精通していることもあり、同年秋ごろ、グランプリシリーズで3位に終わった浅田から助言を求められたのが、”影のコーチ”の始まりだった。
(同上)




浅田は、2008年3月の世界選手権で初優勝。
同年6月から、現コーチのタチアナ・タラソワ(ロシア)に師事。



タラソワ・コーチが多忙なため、浅田が直接指導を受けられるのは1年のうち数週間。
それを埋めるように、小林は中京大での練習に顔を出し、細かい点の修正を受け持った。
(同上)



浅田は08年12月のグランプリファイナルでキム・ヨナ(韓国)を破って優勝すると、目標を失った。
練習に身が入らず、2カ月後に開催された四大陸選手権は欠場も考えた。
日本オリンピック委員会の小林れい子専任コーチは「練習を見に行っても息が詰まりそうだった」と当時を振り返る。
2連覇を狙った世界選手権では表彰台に届かず、4位に敗れた。
「真央ちゃん、スケート楽しい?」。
その夜、ロサンゼルスのホテルで小林コーチが尋ねると、浅田は首を横に振って大粒の涙をこぼした。
5歳で競技を始めてから順風満帆だったスケート人生で初めて発した「SOS」だった。
「初の五輪は表彰台 どん底から復活した浅田」中国新聞 2010年2月26日)




2009年の四大陸選手権では3位に入ったものの、世界選手権は4位。
浅田は、シニア国際大会で初めて表彰台に上がることができなかった。



そして、バンクーバー五輪。
結果は、皆さんご存知のとおり。



小林は今回、優勝した08年3月の世界選手権の時と同じように、浅田の国内調整にぎりぎりまで付き添った。
「メダルを取ってくれてうれしかった。いろんなことを思い出した」。
表彰式のリンクサイドで涙が止まらなかった。
(「メダル支えた影の師」中国新聞 2010年2月27日)




うちの女房に言わせると、「キム・ヨナは音楽が欲するものを、うまく表現しとる」そうじゃ。
わしにはよう理解できんかったが、同じテレビの画面を見とっても、人それぞれ、いろんな見方・感じ方があるんもんじゃのう。



今日は、小林れい子と浅田真央について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



真央ちゃん、銀メダルおめでとう!



ほいじゃあ、またの。

コメント
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