平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2004年11月28日 イルミネーションの向こうに

2007年01月16日 22時47分43秒 | Weblog
  イルミネーションの向こうに

 待降節を迎えた。今年の警固公園のクリスマスイルミネーションは、とてもすてきだそうだ。福岡タワーのイルミネーションも立派だし、年々、クリスマスのイルミネーションは華やかになる一方だ。
 テレビでは、クリスマスイブの夜、恋が成就するといった内容の恋愛ドラマが放映される。そこでもクリスマスツリーをあしらったイルミネーションは欠かせない。日本の文化の中に妙な形でクリスマスは市民権を得ている。
 イエス・キリスト抜きのイエス・キリストの誕生を迎えるお祭りが方々で行われるのである。私の家でも、私がもの心ついたときから、クリスマスイブには、クリスマスケーキが夕食のあと出てきて、ロウソクに火をつけ「きよしこの夜」を歌っていた。
 まだ、家族の誰も教会に行ったことのない頃の話である。おそらく戦後間もないときから今に至るまで、多くの家庭で、このようなことがなされてきたのではないだろうか。いったい誰のお祝いをしているのかもわからないまま。
 それでもクリスマスイブにたくさんの若いカップルが教会を訪れるのはうれしい。彼らは少なくとも、この夜を過ごすにふさわしい場所を探し当てた。教会も、イエス・キリストの福音を聞く機会をお与えになった神様の御心を思い、喜ぼう。
 しかし、華やいだクリスマスのイルミネーションの向こう側に、災害や戦火で、被災し、負傷した人々がいて、主は、彼らの上に注がれる多くの眼差しを期待されているに違いない。


平良 師

2004年11月21日 一つの区切りをつけて、さらに前進

2007年01月15日 23時30分14秒 | Weblog
 一つの区切りをつけて、さらに前進

 先日、野方教会の泉先生から「宣教25周年記念誌」をいただいた。野方教会は、長住教会の伝道所として出発した。そして、その長住教会は、平尾教会の伝道所だった。そうしてみると、野方教会は、私たちの孫にあたる教会である。
 そこが、25周年を迎えた。とても喜ばしいことであり、心からお祝い申し上げたい。さて、平尾教会も教会組織20周年のときに「ひらお20年」という記念誌を出した。Y兄にうかがったことがあるが、40周年記念誌は、諸状況が整わなくてできなかったということである。
 教会組織50周年ということならば、あと6年ほどの余裕がある。しかし、宣教50周年というのであれば、そろそろ準備を始めなければならない。宣教開始の年は、1955~56年頃で、カルペッパー宣教師が、S兄のお隣にあった宣教師館で始められたのである。
 このような何十周年記念というのは、歴史を積み上げていく上で、とても重要なものである。例えば、記念誌を一つ作るにも、50年間の歴史資料を集めるとなると、そう簡単ではないし、あわせてその中身の検討や原稿の依頼も必要となる。
 記念行事の内容も考えねばならない。宣教50周年ということであるなら、来年度くらいから、準備委員会を作り、少しずつ作業に入っていくことが必要になろう。教会は、一つの節目を迎え、新たなるヴィジョンに向かって歩もうとしている。これまでもそうだったし、これからも神様の期待に応える教会であることを求めつつ。


平良 師

2004年11月7日 書を読まざること三日ならば

2007年01月14日 23時06分03秒 | Weblog
 書を読まざること三日ならば

 戦後二、三年経った頃(1947~48年)、「リーダース・ダイジェスト」という雑誌に林語堂(1895~1976)という人のことばが載っていた。
 それは、「書を読まざること三日ならば、鏡中に見る己の顔厭わしき感あり。」というのであった。彼は中国の福建省で牧師の家に生まれ、ハーバード大学、ライプチッヒ大学で学び、後に北京大学、厦門(アモイ)大学などで教鞭をとり、最後は香港で客死した。彼は思想家・言語学者であり、全世界と全人類を一つのものと考えて行動するコスモポリタンでもあった。
 ノーベル文学賞のパールバックが序文を書いた「わが国、わが国民」(1935)は米国でベストセラーになったといわれ、他にも「北京好日」「人生を如何に生きるか」などすぐれた著書をいくつも出している。
 これを読んだわたしは、当時高校生であったので、人間は多くの本を読むべきで、三日も読書をしないなら自分の顔もだらしなくなるぞ!といった教訓であろうと思っていた。
 しかし、今考えると、この“書”ということばは書籍一般を指すのではなく、聖書を意味していたのではないかと思うのである。信仰深く思索に富む、そして風刺とユーモア作家といわれる林語堂のことであるから、そのように受けとめる方がふさわしいと考えるのは思い過ごしであろうか。
 真実はともかく、聖書は三日も読まないことがないよう、与えられた聖書日課などに従って毎日少しずつでも読むことは、有意義な人生を過ごす最も賢い歩みではないかと思うのである。


松村 師

2004年10月31日 こういう時だからこそ

2007年01月14日 00時07分22秒 | Weblog
   こういう時だからこそ

 台風23号の被害は、死者・行方不明の方々合わせて80名にのぼった。農作物や家屋の被害、道路、堤防その他損壊した箇所も多数であった。それが終わったら、今度は、新潟県中越地震である。これまた、甚大な被害のようである。
 今年、日本列島は踏んだり蹴ったりである。被害に遭われ、家や家族を失った方々、数々の財産、その他、多くを失った方々の悲しみとこれからの労苦を思うと、神様の慰めや癒しをお祈りしないではおれない。余震が続くなか、今だに家に帰れず、避難所で生活を余儀なくされている方々も多い。
 経済面でも社会面でも明るいニュースがない。スポーツもまた、経営不振で球団の合併問題などが話題になった。国際情勢も相変わらずだ。どうなっているのだろう、我々を取り巻く情況は。キリスト教の福音が今ほど、必要とされている時代もない。
 きっと真の力、慰め、支え、励ましになるだろうに。しかし、語るこちら側に、自分たちの方を振り向いてくれるだろうかという恐れや諦めがあるのではないか。誰も耳を傾けようとしないのではないか、人を招くほどの魅力や力が教会にはあるだろうか、あれこれ考えて二の足を踏む。
 私たちには何もないが、御言葉のもっている力がある。それを伝えることはできるのである。自分を語らなくても、キリストのすばらしさを語ることはできる。今は、イエス・キリストの福音を語らねばならない時だ。


平良 師

2004年10月24日 青野先生の説教・講演集『十字架につけられし給ひしままなるキリスト』を読んで

2007年01月12日 23時35分58秒 | Weblog
 青野先生の説教・講演集『十字架につけられし給ひしままなるキリスト』を読んで

 キリスト教の中心は、イエス・キリストの十字架の理解にある。私が最初に出会ったときから、今日に至るまでが25年とすれば、おそらくそれ以前からということになるので、もう30年以上も、青野先生はそのことだけを考え、そのことだけを語ってこられたのだと思う。
 私が教員をしていた頃、青野先生が教師たちの研修会で話しをされたことがあったが、そのときの内容は、キリストの逆説的な十字架理解、父母の会でもそうだった。青野先生は、こう言われた。
 「私はこれしか話すことがでないので・・」。パウロが、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(1コリント2:2)と言っている姿と重なる。
 209頁に「キリストは今もなお、『十字架につけられし給ひしままなる』姿をもって、私たちと歩んでくださっているのです。しかも復活されたキリストとして、共に歩んでくださっているのです」。
 これが、青野先生の十字架と復活の理解なのだと思う。「ですからこそ、そのような復活のキリストは『私の恵みはあなたに対して十分である。力は弱いところにこそ完全にあらわれるのだから』ということがおできになる方なのです」。
 キリストを知った後も私たちには苦難がある。祈っても何もからわらないことだってある。喜びが一転して悲しみとなる。神は力あるお方ではないのか。青野先生の十字架の理解と復活の理解は、そのような私たちに神様の真実の力を指し示しておられると思う。


平良 師

2004年10月17日 ファミリーキャンプに参加して

2007年01月11日 21時49分20秒 | Weblog
 ファミリーキャンプに参加して

 「教会と子ども」というテーマでファミリーキャンプを10月10日、11日に行った。初日は雨もようだったが、11日は快晴で、特に朝のいろは島の展望台からの見晴らしは、絶景だったと早朝にでかけた方々は言っていた。
 O兄は、中心としての子どもと共なる礼拝のあり方について述べられた。私は、子どもと共に歩む教会の全般的なあり方を考えてみた。それを受けて全体討議に入り、夕食を終えてからは、各分団に分かれて話し合いを深めた。
 子どもたちもまた、1つの分団をつくりリーダーの先生方と礼拝や伝道、教会仲間の交流について考えた。分団で話し合ったことを書記か、司会をされた方が発表して、それへの感想や質問、意見などを出し合って、その日のプログラムは終了した。
 その後、まだ話し足りない方々は、宿泊予定の一室を使って、夜遅くまで語り合った。翌日の祈祷会は、F姉とM君が証しをして、子どもたちの讃美と続き、三人ずつ1グループでおもに「教会と子ども」をおぼえて祈った。
 いろは島を後にして、名護屋城を見学、昼食は大手門食堂の600円にしては、おいしく豪華な弁当だった。今回は、これからの平尾バプテスト教会を、子どもたちも一緒に考えることができたのがよかった。
 参加者は、42名だったけれど、来年はもっと多くなるだろう。そして、参加する人が多ければ多いほど、未来が開け、希望に胸は膨らみ、夢が夢でなくなる。神の恵みに期待過剰は許される。


平良 師

2004年10月10日 教会パンフレットに思う

2007年01月10日 21時28分31秒 | Weblog
   教会パンフレットに思う

 平尾バプテスト教会のパンフレットができた。O兄、K兄の働きに感謝したい。このパンフレットは、使用したときに生きる。どのようなときに使用したらいいのだろう。
 カバンにいつも、2~3部はしのばせていて、酒の席でも結構、「オレなあ、ちょっと、この頃…」と会社の同僚がつぶやく、そのときおもむろにこの教会パンフレットを取り出して、「このパンフレット、何だと思う?ホテルのカウンターじゃないんだ。ここは俺の行っている教会だ。聖書の話はおもしろいぞ、どうだい、一度教会に来てみないか」とこんな調子である。
 ちょっと軽い例であったとは思うが、大事なことはお誘いすることなのである。これまでは、思いはあってもなかなか切り出せないでいた人も、今度からは、パンフレットを渡すだけでいいのである。「感じのいいパンフレットでしょう」。
 もちろん、これを機会に、お手紙か何かで、教会へお誘いしてくださって、そのときに同封する。キリスト教主義の学校などにも置いてもらえたらと願っている。くりかえすが、このパンフレットは、利用されてはじめて生きるのである。
 このパンフレットを手にして、80人の信徒が一年に10人ずつに伝道すれば、八百人の人々に確実に福音の種蒔きができる。三年でこのチラシは、配布し終わる予定である。
 このパンフレットを見て、さて何人の方々が教会を訪れるだろうか、楽しみだ。パンフレットを送ってくださいとの声もすでに届いている。


  平良 師

2004年10月3日 礼拝の重さ

2007年01月09日 22時51分58秒 | Weblog
     礼拝の重さ

 礼拝は、非常に重い。礼拝は、自分にとって神様がどのようなお方かを示す、最大の証しの行為だ。ある人が、何はさておいても礼拝を選んだというなら、その人は神様を証ししたことになる。
 そのとき、その人の主がどなたか明らかになった。しかし、あれやこれやがあって礼拝に来られなかったという場合がある。本人の痛みに留まらず、それは教会の痛みとなる。礼拝は、自分がそこへ出席できたことを喜ぶと同時に、そこへ集うことができなかった人々をおぼえ、祈る場ともなる。
 礼拝は、この一週間が、主に喜ばれる者としての歩みであったかどうかを吟味し、悔い改める場でもある。ときに、「あなたは愛をもち、忍耐して他者に静かに語りかけたか」、などの主の声を聞くこともある。主に赦されて新たな一週間を始めなければならない。
 同時に私たちもまた赦していないあの人この人を今週こそは赦せるように祈ろう。謝るべき他者がいるなら、その勇気を主に願おう。礼拝で心合わせて声高らかに主を讃美するとき、私たちはうれしく、震える思いすらする。讃美は、音楽という手段をとおして、神様へ、私たちの魂を彼方へ届ける作業である。
 他に、礼拝に飾る生け花に賛美という行為を託す方もいる。舞踊があり、朗読などにも工夫をこらす。交読という形の祈りもある。私たちの教会は、全年齢層の一つの礼拝を守っている。これからも、すべての者が共に力を合わせ、礼拝を創ろうと思う。


平良 師

2004年9月26日 今年の夏は暑かったけれど

2007年01月08日 22時39分00秒 | Weblog
   今年の夏は暑かったけれど

 今年の夏は猛暑だった。初夏の頃から始まって、つい二、三日前くらいまで真夏日が続いた所もある。また台風もよく来た。それも大きいものが。あちこちで局地的な大雨となり、洪水が起こった。
 世界的にみても、アメリカの大きなハリケーン、ヨーロッパ各地の森林火災、グリーンランドでは氷棚が崩落など、やはり温暖化現象の影響があるのだろうと誰もが思ってしまう。
 しかし、実際は、そこらの因果関係についてははっきりとそうだとは言えないらしい。それでも、多くの人々が温暖化現象ではなかろうか、と思うようになっていることは、悪いことではない。
 私たち人間が、自分たちの生き方や歩みを考える材料を提供している。温暖化現象が進めば、陸地の何%かが水没する、それによって世界の人々の生存率が低くなる。海水の温度が高くなるので、それが与える海洋生物への影響や気象への影響が懸念される。
 私たちは、とかく自分のことしか考えられず、遠い国で起こっていることに痛みや危機感を持つことがなかなかできない。しかし、温暖化現象は、地球規模で取り組まなければならない課題であることは誰にもわかる。
 一説では、温暖化の影響がそれほど深刻でないようにするためには、実は京都議定書の20倍もの二酸化炭素の削減が必要なのだそうだ。神様に管理を任せられた私たち人間がしでかしたことであるから何とかしなくてはならない。猛暑だなんてなまぬるいという日が来る。


  平良 師

2004年9月12日 スイス・ドイツ語(スイス便り5)

2007年01月07日 21時58分30秒 | Weblog
 スイス・ドイツ語(スイス便り5)

 8年ぶりにチューリッヒにやって来て久しぶりにスイス・ドイツ語を耳にしたときは、まるで「ふるさとの訛り」でも聞くかのように、とても懐かしく感じたものだ。
 しかし半年間の滞在が終わろうとしている今、そのスイス・ドイツ語に対する思いが、何かとても複雑なものになっている。スイス・ドイツ語とは、スイスのドイツ語圏の人たちが日常的に話す方言であるが、標準ドイツ語とは非常に違っていて、合計すると8年以上スイスに住んだことになる私も、やっとその一割ほどを何とか推定できる程度である。ドイツ人でも最初はこの方言がまったく理解できないそうだから、私にわかるはずもない。
 ところが、その理由はさまざまにあるのだろうが、そして8年前にすでにその徴候は現われていたのだが、テレビなど公共の場面ではほとんど用いられることはなかったスイス・ドイツ語が、どんどん人々によって公けに語られるようになった。
 今回の初めての体験として、私たちが出席しているバプテスト教会でも、説教のほとんどがスイス・ドイツ語でなされるようになっていた。礼拝後の報告も同じだ。年配の人たちの多くは、スイス・ドイツ語のわからない人が出席者の中にいる場合には、説教は標準ドイツ語でするように、さもなければ教会は愛のない仕業をしていることになる、と主張する。
 またベルリンからやって来たドイツ人牧師は説教の中で、彼の教会の会員がスイスの教会で理解不能な説教を聴かされたことを例に挙げて、説教は理解されなくては「異言」に等しいのだから、スイス・ドイツ語ではいけない、と明言していた。しかし、そうした意見は何の効力ももたないままである。教会員のイラン人夫妻に、スイス・ドイツ語はわかるの、と訊いてみたが、「ナイン」と寂しそうに笑っていた。
 説教がわからない教会に毎週行くことは苦痛である。旧友たちとの交わりはとてもうれしいのだが、それだけでは「礼拝」にはならない。ひるがえって私は、難解な神学用語を用いながら、説教を理解できないものにしてはいないか。わからない説教を聴かされる立場におかれてみて、痛切な反省を強いられている。


  青野 師