平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2016年6月5日 高齢化社会のなかで教会は

2016年06月13日 22時04分13秒 | Weblog
高齢化社会のなかで教会は

 高齢化社会を迎え、教会も社会に対する奉仕をと思うが、とりあえず、教会のご高齢の方々に対するお世話から始めたいと思う。教会は、教会生活、信仰生活を、年齢を経てもなお続けられるように、送迎をはじめとして、教会に来られたときにも、それなりに教会内で安心して動けるようにその受け皿をつくることである。
 そして、日常の生活についても、病院にお連れするなど行政が手の届かないところを要望に応じて、カバーできたらと思うのである。働き人の問題もあるから、簡単ではない。また、こちらからの訪問も充実させたいと思う。今年度は、施設に入所されている方々への出張晩餐も行いたいと思う。
 現在、教会では、礼拝への送迎はなされている。ただし、帰るときまでの当番は決まっておらず、そのとき、時間のある方が送っているか、ご本人が、交通機関を使って、あるいは、タクシーで帰宅されているのが実情である。また、高齢者に寄り添うミニストリーと友愛委員会の有志、そして、牧師とで、施設に入所されている方々のご訪問を昨年も何度かさせていただいたが、こうしたことも定期的になされるとよいかと思う。
 そして、これからの生活をどう立てていけばよいのか、そうした相談にも、行政と協力しながら考えていけたらと願う。とにかく、こうした課題に対して、教会がどれほど力になることができるのかわからないが、取り組まなければならない課題の上位にあることだけは確かだ。


平良 師

2016年5月29日 国際基督教大学(ICU)の決断

2016年06月13日 22時00分40秒 | Weblog
国際基督教大学(ICU)の決断

 ちょうど、前の日曜日に、人は生まれた時に定められた「運命」のとおりに生きるのか、という話をしていたところでした。神様は一人ひとりがどのように生きていくかを決めておられて、違う選択をした場合、例えば大きな試練のようなものを与えて、以前の選択は間違っていました、などと示してくれるのだ、と思いつつ、どこか腑に落ちないものがありました。
 金丸先生は、IIコリント5章17節より、神様は私の選択したところから新しい道を作ってくださるのだとお話しくださいました。だから、間違った選択をするのではないかと恐れなくてもいいのです。神様は本当に私たちを愛して、尊重してくださっているのです。長い間抱えていたもやもやがはれた思いがしました。
 リーダー研修会の参加者としては、子どもたちと直接かかわる時間はあまりありませんでしたが、グループの中に一緒に入れてもらってハイキングに出かけたり、世界祈祷週間献金を提唱したロティ・ムーンの劇をみたり、宣教師や牧師、あるいはミッションボランティアとして、海外で働いておられる方々のビデオレターを見たりしているときは、自分もはじめて小羊会キャンプに参加した小羊たちの一人と同様の、初めての所に来て少し不安が混じっているような、しかし新しく与えられた友達と一緒に、メッセージを一生懸命聞き取ろうと期待しているような気持ちで過ごしました。教会に小羊会がないけれどもこのリーダー研修会に参加されている方々も何人もいました。
 これまで小羊会には直接的には関わってきませんでしたが、子どもに伝えようと考えることは、自分の信仰や伝道のことについて考えることであると思わされました。


平良 師

2016年5月22日 家訓として伝えたいこと

2016年06月03日 11時56分32秒 | Weblog
家訓として伝えたいこと

 西南学院の建学の精神は、C.K.ドージャー先生が言われた「西南よ、キリストに忠実なれ!」だ。キリスト教主義の学校であれば、どこもそうでなければならないから、当然の言葉だと言えば、それまでだが、これがなかなかそうはいかないから、あえてこうした言葉を持ってこざるをえなかったのだと思う。
 キリスト者なら、キリストに忠実に人生を歩むのは当然である。ところが、それがなかなか理想どおりにはいかない。教育現場で理想を語らなくなったらお仕舞だから、ミッションスクールは、存続する限りこの言葉と共に歩み、散るときもこの言葉を実践したがゆえに終わったということになるのだろう。
 かつて、日本には、それぞれの家に家訓というものがあった。いつの頃からか、そのようなものを大事にする家庭はなくなった。私も父からそれらしきことを聞いたことはない。私が平良家の家訓を作るとすれば、次のようなものを遺したい。他者を愛することができなくてもせめて「他者に意地の悪いことをするな!」である。
 ところで、会社とかお店、スポーツの世界では、何やら社訓とか、大事にすべきお約束ごとがあるようだ。私たちの教会も「ミッションステートメント」(宣教理念宣言文)なるものを今年は作ろうとしている。これを見て、平尾教会が、何を目指し、何を大事にして宣教活動を行おうとしているかがわかり、そらなら喜んで参加したいと多くの人々の共観を得られるならば幸いだ。


平良 師

2016年5月15日 誤解って大事かも

2016年06月03日 11時52分21秒 | Weblog
誤解って大事かも

 誤って理解することを誤解という。妻が、久山療育園に行ったおり、ある方が、「TMさんは、久山に来られるたびにワークキャンプのTシャツを着て来られて、久山のことを愛しているのですねえ、感動しました」と言ったという。これが、誤解であることは、妻を知る人はよくわかるだろう。
 彼女は、冬以外の季節はいつでもどこでも、久山のワークキャンプのTシャツを着ている。それは、アメリカに行こうが、ドイツに行こうが、カンボジアに行こうが、東京に行こうと同じである。ついでに言えば、寝るときもまた、このTシャツを着ている。それほどに久山を愛しているからだろうと考える人がいるだろうか。これもまた誤解である。
 彼女は、このTシャツは、着心地がよく、何を着ようかと考えなくてよいので、これにしている。何を着ようかと考えることが面倒くさいのである。誤解ということであれば、イエス様は、多くの人間から誤解されたお方ではないだろうか。私もあなたも誤解しているかもしれない。イエス様はそのようなお方ではない、イエス様はそのようなことは考えてはおられなかった、などなど、たくさんあるかもしれないのである。
 しかし、今さら、真実のイエス様はこのようなお方だったと言われても困る。私は、イエス様はこのようなお方だと信じているのであって、それが私の信仰である。誤解から結婚に至る人々も多いことを思えば、誤解がなければ人生無味乾燥で面白くないだろう。


平良 師

2016年5月8日 律儀な甘夏

2016年06月03日 11時46分25秒 | Weblog
律儀な甘夏

 この甘いかおりは、いったい何だろうか。誰かが香水か何かを床に落としたのではないか、などと初めは思っていた。これが、甘夏の花の匂いであることは後でわかった。特に、男子のトイレの窓を開け放っておくと、トイレのなかにその匂いは充満していて、芳香剤の代わりになってくれる。それにしても、こんなにたくさんの花をつけているのを見たのは初めてである。
 昨年、お隣の家の屋根に触れているために、公孫樹とその周辺の木を切ったので、それで、陽当たりがよくなって、たくさんの花をつけたのだろうか。それともよく言う当たり年なのだろうか。今年は、40個足らずだったが、来年は、もっと多くの甘夏の実を収獲できることだろう。それにしても、この甘夏の木はけなげである。何の手入れもせず、肥料もやっていないのに、それでも毎年律儀に実をつける。
 それも教会の甘夏は、とてもジューシーで美味である。神様からの恵みだ。先日、大島の渡船場で大島特産の甘夏を買ってきた。300円で6個も入っているから、さぞ、パサパサしてあまりおいしくないのだろうと思っていたら、これが意外にとてもおいしかった。
 それでも、教会の甘夏が一番だ。教会の甘夏のおかげで、この果物がたいへん好きになった。ただし、たくさんの実をつけた次の年に梅の木が枯れたことを思い出すと、ほどほどでいいからといいたくなった。何事も無理をすると後が続かない。いつまでも実をつけて楽しませて欲しいものだ。


平良 師