平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2018年1月14日 新生JOYSHIP

2018年01月20日 22時30分39秒 | Weblog
新生JOYSHIP

 2017年11月は大名クロスガーデンの献堂5周年となり、青年伝道を目的にした土曜礼拝JOYSHIPもその成長と共に14時からの日曜礼拝となった。ひと時は50~70名くらいの方々が礼拝に集うようになったが、現在はこの礼拝は40名程の礼拝の群れとなっている。バプテスマを受けられた方はここ数年で10名以上であるが、その多くは学生であり、若い魂が主に結ばれることを私たちは喜び祝ってきた。
 その結果として、ご高齢に至る方から若い方に至るまで信仰の新生者が与えられていく一方で、新生者の人生の新しい課題、進学・就職・結婚・出産・育児・自らの人生の死までーを覚え、その時を迎える人々が増えていき、その方々にどれだけ教会は御言葉をもって人生を歩む指針を示せたのかは、いつも主からのわたしの問いとしてある。
 そればかりでなく、四人の男が寝たきりの中風の男を床ごと運んで行った時と同じように、与えられた魂を御子イエス・キリストの元へと連れていく事が出来たのかは信仰共同体である私たちの問いでもある。献堂して6年目を迎える2018年はそのような中で、再出発を促されていると強く感じている。それは多様化し、また変化する人々のライフスタイルの中で、どのような時でも御言葉に繋がることが出来るように、その形態やあり方をシフトチェンジ出来ることが教会には求められているのではないか。
 これまでの歩みの内には失敗や成功は多々あったが、それらのことに囚われずに、教会の愛する兄弟姉妹、協力者と共に、万事が益となるべく常に新しく協働していきたい。その力と知恵の源であるのは言わずもがな、主であることを心に置きつつ。


森 師

2018年1月7日 2018年、神様の創造の秩序に従う

2018年01月20日 22時23分13秒 | Weblog
2018年、神様の創造の秩序に従う

 のろのろしているのがいい、そう思わないだろうか。あたりの景色にも時に感動し、ちょっとばかし腰を下ろし、歌のひとつも歌って、それからまたてくてく歩き出すのだ。昨年のこと、黒いガウンを捜すけれどもない。妻が、「ガウンがクロゼットにかかっていたけれど、家に置いとったんやねえ~」と言ったので、「へえ、何で教会じゃなく、家やったんやろね~」と言いながら、クロゼットを捜すがない。
 おかしい。いくら捜してもないので、妻に、「ないのだけどね~」と言うと、「私は見たから見たと言っている、捜してないのであればないんやろ~」と言う。「ちょっと来て見てくれよ~」と言うが、「ないのであれば私の見間違いかも」と言って、来てくれない。不親切だと思う。
 それにしても不思議なことがあるもんだ。お昼に帰ってきたときに捜せばいいと思って、そのままにし、昼食に戻って捜すがやはりない。そして、その夜帰ってから、クロゼットを見るとあるではないか。不思議だ。「あんたまさか」と言うのだけはやめた。ところが、ストールがない。誰かに貸したような気がした。
 「誰かに貸さなかったかな」、と妻に言うと、「そんなの知らん~」と言う。あれこれと考えながら、教会に来てみると、昨日はないと思っていたところに、ちゃんと隠れるようにしてかかっていた。昨年は恐怖のスリッパ事件もあり、またかと思った。ねじがゆるみ、ちょっと~の生活が進行している。年相応!前向きで行こうと思う。


平良 師

2017年12月31日 ふたつの『常識』

2018年01月19日 23時18分18秒 | Weblog
ふたつの『常識』

 「青野先生はキリスト教の『常識』にいつも挑戦されているのですね」といった類のことを言われることがある。しかし私が挑戦しているのはむしろ、少しでも新約聖書学の「常識」を日常のキリスト教信仰のなかに取り入れたい、ということである。しかしそれらふたつの「常識」は、多くの場合、厳しくあい対立しているので、ことはやっかいなのである。
 例えば、先週クリスマスにお祝いしたばかりのイエスの誕生であるが、それは処女マリアが「聖霊によって」身ごもった男児の出生としての、いわゆる「処女降誕」であった、との主張の歴史的信憑性は、新約聖書学的にはほとんどまったく相手にされない。
 「それは古い伝承であるどころか、……何らかの歴史的記憶に遡るものでさえない」(J. ロロフ)。また、「豊富なヘレニズム的な並行資料を前にしては、……それはまさに歴史的蓋然性のないものである」(U. ルッツ)。「豊富なヘレニズム的な並行資料」は、ヘラクレスとかアレクサンダー大王、哲学者プラトン、ローマ皇帝アウグストゥスなどなど、当時の偉大な人物や英雄の多くが神を父親として生まれてきた、と証言している。
 だから、イエスに関する「処女降誕」の物語は、キリスト教に固有のものではまさになかったのであり、当時の「世俗的」な「信仰」形態のひとつにすぎなかったのである。もしもそれがキリスト教の福音にとって本質的で必要不可欠な意味を持った信仰理解であるのならば、たとえそれが非科学的であろうと非「常識」的であろうと、新約聖書学は敢然とそれを選びとることを躊躇はしないであろう。
 しかし、パウロが言うように「神は御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送られた」(ローマ8章3節、新共同訳)のであり、だからこそこの世の弱く罪深い者たちの救いはあり得るのだ、という聖書に固有な信仰理解は、「処女降誕」の思想とは相容れない。すなわち、人間的な弱さや罪深さを超越した絶対的な聖潔さや強さをこそイエスの誕生のなかに見ようとする思想とは、合致しない。そしてこの「弱く罪深い者たちのため」という視点を強固に持ったフェミニスト神学的な新約聖書学が、「処女降誕」物語に大きな違和感を持つのは当然であろう。
 日本バプテスト女性連合の機関誌『世の光』の2017年度の「聖書研究」担当の、国際的に活躍中のフェミニスト聖書学者山口里子さんは、その12月号で、まず初めにマリアの「婚外妊娠」という事実があって、それが「処女降誕」の物語へと発展したのだろう、と推論されている。同様に国際的なフェミニスト聖書学者である絹川久子さんも、『沈黙の声を聴く マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局 2014年、222頁以下)で、ほぼ同様の議論を展開されている。
 『世の光』12月号を読んだ一人の女性は、「もしもこういうことが教会で語られてきたとしたら、婚外妊娠というようなことで深く心を痛めてきた女性たちの多くが、きっと大きな慰めを受けることができたでしょうに」と慨嘆されていた。しかしキリスト教の「常識」は、そのような発言こそ神への冒涜だ、ときっと激しく断罪することだろうと思う。
 私個人は、ローマ皇帝アウグストゥスは父親の介在なしに直接神から生まれたのだと主張する「皇帝崇拝」に対して初期キリスト者たちが抱いた抗議の思いこそが、「処女降誕」物語の成立の動機だったのではないか、と考えてはいる。しかし、いずれにしても私の「挑戦」は、当分終わりそうもない。


青野 師

2017年12月24日 谷口嘉浩兄のことを思う

2018年01月19日 23時11分55秒 | Weblog
谷口嘉浩兄のことを思う

 今年のクリスマスは、谷口嘉浩兄のことを思うと悲しい。今は、主のみもとで安らいでおられることだろう。平和の日の礼拝では、谷口兄に、この数年いつも平尾教会の社会委員長として、平和について語ってもらってきていた。障害を負っている立場ということもあってか、今年できたこひつじの園ランチカフェの働きにも気持ちを注いでくださった。
 特に、お母様が9月に天に召されてからは、ご自宅を教会のいろいろな集会に使ってもらいたいと幾人かの方々と話し合って、それなりに準備を進めていた。しかし、その矢先の11月21日に脳出血で倒れられたのだった。そして、12月17日に66歳で天に召された。
 新生讃美歌の154番「生けるものすべて」が愛唱讃美歌で、ローマの信徒への手紙5:3-5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」が愛唱聖句だった。
 154番は、イエス様のご降誕を歌っているこの時期の讃美歌であり、聖句は、あたかも、ご自身のこの十数年の歩みを総括しておられるようにみえる。今日もこれから教会車で、祈祷会に来られる方を迎えにいく。イスが外に出ていくタイプのこの福祉車は、谷口嘉浩というもうひとりの主人を失って、とても寂しそうだ。


平良 師

2017年12月17日 2017年は『北』

2018年01月19日 22時58分24秒 | Weblog
2017年は『北』

 子どもが親から勉強しなさいと言われて、「今、しようと思っていたのに、お母さんが勉強しろと言うので、したくなくなった」。「あんたのためを思って、言ったのよ!」。「うるさいオニババア!」。こんな会話がよくある。
 しかし、驚くことはない、大人でも誰とは言わないが、こういう夫婦もいる。「もう食べない方がいいんじゃない!」。「自分で考えて食べているの。あんたがいつもそんな感じだから、ストレスがたまって、そうよ、こんなに肥ったのは、あんたのせいよ!もっと食べてやる」。互いに愛情から出た言葉とは言え、世には、実にくだらない会話をマジで交わす人々がいるものだ。他人事ながら情けない。
 ところで、2017年度の世相を漢字一文字で表したら「北」だそうだ。北朝鮮の北、ついでに言えば、北米の北も挙げておこう。この一国を代表する書記長と大統領の言い合いは、簡単に表現すれば「うるせえ。ロケットマンが!」「血を見ることになる。覚悟しておけ」、なんて、実に情けない会話を交わしていたことよ。どうしようもない大人になれない二人に、世界が呆れはて、それだけならまだしも、翻弄され、遂には、恐怖におとしいれられた2017年だった。
 世界では数々のうれしいニュースがあったはずなのに、すべてが消し去られ印象に残らず、台無しになったのが悲しい。我らの2017年を返せ!そして、この一年、この二人について結構紙面を割いた私も、愚か者よ、と神様に言われそうだ。


平良 師

2017年12月10日 ちょっと危険な匂い

2018年01月19日 22時47分58秒 | Weblog
ちょっと危険な匂い

 最近のはやりの言葉で、ポピュリズム(大衆迎合主義)というのがある。あのトランプ大統領がその旗頭のように言われている。
 「福音と世界」の12月号で吉松純氏の「ポピュリズムとアメリカの教会」という文章の中で、吉松氏は、「トランプは選挙中から、『ヒラリークリントンはエリートの代表であり、庶民の憎むべき敵である』、と宣伝し、反対に『自分こそはアメリカのさびれゆく産業を復興させる民衆の味方である』と位置付けました。
 拳を振り上げ『アメリカをもう一度偉大にする』との掛け声でマジョリティである中産階級と労働者階級の白人をおだて、『あなたたちは特別な存在だ』と特権意識を植え付け、彼らの中にあった白人至上主義、差別偏見を引き出して他人種、他民族への排他主義を増長させました」と書いている。そして、「トランプの発言は一般大衆受けを狙ったポピュリズムのお手本のようです」と。
 しかし、アメリカの良心あるキリスト者たちは、このトランプに対して、当初から現在に至るまで、いろいろな場面でノーを言っているという。しかし、ご存じのように保守系福音派教会、女性聖職者を認めない教派、性的マイノリティーを罪人と断罪し、同性婚を認めない教会などは、トランプを支持し、トランプの政策に沈黙しているという。このポピュリズムは世界的な傾向かもしれない。この国でも、そのようなことをしている光景を見かけることがあり、ちょっと危険な匂いを感じる。


平良 師

2017年12月3日 平尾の会堂も、もうすぐ23歳

2018年01月19日 22時40分42秒 | Weblog
平尾の会堂も、もうすぐ23歳

 現在の平尾の会堂は、1994年12月15日に竣工した。もうすぐ23年の歳月が経つことになる。この建物は、約1億円で建設されたが、1992年12月に隣接地を50坪購入しているので、建築にかかわる費用は、そこまで含めると、かなりの額に上ることはわかる。そして、結局、5千万円が借金となり、現在もなお返済し続けている。
 しかし、それも2019年8月末をもって終了の予定である。あと21回の返済となった。先輩たちの強い信仰に敬服すると共にその信仰を支えてくださった神様に感謝しなければならない。毎月の建築献金額が返済額に足りない状況はずっと続いているので安心はできないが、少なくとも、神様は銀行への返済を滞らせることなくここまで守ってきてくださったのである。そして、返済が完了する頃、建物の年齢は25年を経過することになる。
 ただしその時、空調機器を始めとする備品や修理を要する箇所が発生していないかと気にはなる。どこの教会も、その多くは宣教活動をした実りを得て、教会の運営にあたっている。時代の要請に応えうる宣教活動が展開できるならば、たくさんの実りを期待できる。社会は日進月歩の歩みをしている。情報化の波は、社会を大きく変えた。
 ヨーロッパの少なからぬ伝統的な教会が、化石同然となるなか、少子高齢化の進む日本の教会が、同じ道を歩まないという保障はどこにもない。教会の本質を大切にしながらも、時代に合致した宣教の歩みが求められる。


平良 師

2017年11月26日 意を強くさせられた記念講演

2018年01月19日 22時27分00秒 | Weblog
意を強くさせられた記念講演

 連盟結成70周年の記念講演ということで、連盟研究所所長の朴先生が講演された。それは、これからの時代にふさわしい希望に満ちた教会像であった。その話を聞きながら、それはまさに、今の私たちの教会が求めている教会像ではないか、と思わされ意を強くしたのだった。
 まず、先生が言われたことは、教会もまた、時代のパラダイム(ある時代の人々の見解や思考を根本的に規定する枠組みとして、科学的認識、慣習、理論、思考、価値観、観念などが結合した総合的枠組みまたは概念の集合体)を必要としているという。その一つとして、これからの教会は、多様性に富み、いろいろな人々を受け入れることのできる教会であることが求められるというのだ。
 排他的、独善的であってはならないと。また、今の時代は、トップダウンではなく、それぞれの賜物を自由に生かしたリーダーシップが求められているとも言われた。神学も、平凡な生活のできごとから、それぞれが、自分なりに考えることが大切だ、また、他者の立場になって考えることで、人権意識も作られる。健全な民族意識を持ちながら、同時に、世界市民としての意識をもち、世界規模でものごとは考えること、とも言われた。
 最後に、ボンヘッファーの言葉をもって、講演をしめ括られた。「教会は常に改革されなければならない」、「教会が教会であるのは、それが他者のために存在する時である」。


平良 師

2017年11月19日 祝福された子ども祝福式

2018年01月19日 22時20分16秒 | Weblog
祝福された子ども祝福式

 イエス様が子どもたちを私のところに来させなさいと言われ、集まってきた子の頭の上に手をおいて祝福された場面は何と麗しいことか。そう、今年の子ども祝福式ほど、祈ったことはない。
 昨年の子ども祝福式は、外部の方々の参加が少なく、とても寂しかったのである。もちろん、教会の子どもたちはいたので、それはそれでうれしかったのであるが、外部の方々にハガキを出し、お誘いをしたものの反応はなかった。それで、何とか今年はと思っていた。そして、祈った。
 結果、教会学校に日頃来ている教会の子どもたちをはじめ、共同保育の子どもたち、JOYSHIPの子ども、アーベントに来ている子どもたち、こひつじの園ランチカフェに来ている子どもたちなど、22名の子どもたちが来てくれた。そして、そのお父さん、お母さん、お婆さん、兄弟なども来てくれて、久々に100名を超え、賑やかだった。私は、自分の孫たちも来てくれることを願って祈っていたが、長男の子どもたちは来られないとのことだった。実に寂しく悲しかった。長男家族に対する日頃の祈りが私には足りないのだろうなあ、と思った。
 そして、神様の御心をふと思い、複雑な心境だった。しかし、礼拝が始まって、しばらくしてから、長男の息子が礼拝堂に、にこにこしながら入ってきたとき、私の心は震え、神様に感謝し、ひれ伏していた。義娘は、仕事で疲れ、明日は行けないと答えたのだが、思い直して来てくれたのだった。


平良 師

2017年11月12日 勝利の陰にファンの涙あり

2018年01月19日 18時34分14秒 | Weblog
勝利の陰にファンの涙あり

 日本シリーズの第6戦の日、1対3で負けていたので、私は、もう観戦をやめて仕事に戻ろうと思った。なぜかと言えば、私が必死になって応援を始めると、どういうわけか、そのチームが負けてしまうのである。それで、このままだといつものようになると思い、仕事に戻ることにしたのである。
 あくまでも配慮の話。仕事をしていると、携帯が鳴った。妻からで、「爺ちゃんこの声からわかろうが、ソフトバンクが追いついたばい」。余計な情報をくれるものだ。私は、急いで家に帰った。家と仕事場は、走って3分だ。それからまた、熱い応援をしていたら、相手チームがヒットで塁に出た。何となく相手チームに勢いがありそうに感じられた。それで、ヤバいと思い、また、走って仕事に戻った。
 そうしたら、「サファテが何とか凌いだばい」とまた携帯だ。それから、しばらくして、「ソフトバンクが2アウトで、1,2塁たい!」と言ってきた。私は、ぐっと我慢した。そうしたら、またもや妻からで、「ソフトバンクが勝ちました!やったね!」ということだった。こんなところにも、ファンの涙ぐましい努力があるのをソフトBは知っているのか。
 家に帰ったら「観ればよかったじゃん!仕事はしたとね!」と妻。ところで、サファテが、MVPに選ばれたということだ。昨年、Sさんが、被災地支援のためにと、サファテが提供してくれたシャツをオークションで扱っていたのだが、あのシャツは買っておくべきだった。


平良 師