平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2014年5月11日 数えよ、主の恵み

2014年05月19日 18時35分04秒 | Weblog
数えよ、主の恵み

 「望みも消えゆくまでに」(新生讃美歌103番)の讃美歌が頭の中で繰り返される。数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ一つずつ~数えてみよ主の恵み。生きていると年もいくつだったか思い出せなくなる方がおられると聞いたことがあるが、数は多くなってくるほど数えるのが億劫になるのかもしれない。昔は結婚して~年目だねとか言えていたのだが、言えなくなるのはそれも同じようなことかもしれない。とかく数を数えなくなるのか。
 ヘブライ語聖書(旧約聖書)ではモーセ五書(創・出・レビ・民・申)が何文字あるのか、書き手が数えているらしい。申命記の最後には最初からの五巻の総文字数(ヘブライ語)が400945文字あるそうだ。これは聖書を書き写していくとき、間違いがないかそれぞれの巻末の文字数を数えて答え合わせをしていたことによる。
 「律法の一点一画も」とイエス様は仰ったが、そんな熱意と情熱が聖書の書き手にはあったということだ。同じように詩編の文字数の真ん中がどこかと数えられており、詩編80篇14節の「アイン」という文字が中心の様である。強調してアインは宙吊りになっている。
 150篇もある詩編の文字数を数えるのも大変だったであろうが、きっと、詩編の神に対する祈り、喜び、感謝、叫び、臆せず神に向かう言葉たちの中に、そしてその中心に目を表していたアイン(目)を発見した時の喜びはいかほどだったろうか。神の眼差しは中心に注がれている。日々の恵みを数え、その中心に神様の守りの目があることを日々覚えたい。


森 師

2014年5月4日 弱さではすまされないが・・

2014年05月10日 21時46分04秒 | Weblog
弱さではすまされないが・・

 テレビの映像には、傾いている客船から下着姿で救助船に乗り移る一人の憐れな男の姿があった。あれが、その船の船長だった。船内には、また、何百人もの人々が取り残されていることがわかっていただろう。下着姿だったから、寝起きだったのか、海に放り出されても動きやすいように準備していたのか、助けられた時、どうも一般人と言ったそうだ。
 一方、危ないから動くなと言われていた乗客たちは、その指示に従って、命を落とした。実に気の毒なことであった。キリスト者の多い国だから、乗客たちの中には、キリスト教徒もいたであろうが、祈りつつ、召されていった方々もいたかもしれない。また、船会社のオーナーが、キリスト教の異端の一派の指導者と聞いて、これもまた複雑な心境になった。
 そして、この船会社の従業員の多くがこの異端の信徒だったというから、胸ふさがる心地だ。その教えは、一旦救われた者は、罪を犯しても悔い改めなくてもよいということらしい。だから、この船長も乗客たちを見捨てて逃げてしまったのか、とテレビの出演者が言っていた。ああ、そうかもしれないが、しかし、それとは関係なく、彼自身、船長としての責任感も誇りもそのときにはなくなっていたのだろう。そして、咄嗟のことで自分が助かりたい一心だったのだろう。
 ひとの弱さを思わないではおれない。私もまた教会の舵を託されている者として、その責任を常に問われていることを改めて自覚しよう。


平良師

2014年4月27日 良い道が用意されている

2014年05月03日 21時47分08秒 | Weblog
良い道が用意されている

 信仰を持たない人々は、事を成し遂げるためには、強靭な精神力が必要だと言うであろう。己の力だけが頼みだ。努力、忍耐、その他諸々。しかし、強靭なだけに、ぽきっと折れることもある。私たちは、信仰があるから、ある程度のところまで来ると、あとは神様にお委ねしますと、己を捨てる道を知っている。それでも、自分にしがみつくことから解放されることは難しい。
 もちろん、社会的には、その立場にある者は、最後までしっかりと責任をとらねばならないが、内面的には、キリスト者たちは、そのように神様にお委ねできるのである。私は、神様から示されたと信じることを遂行しようとするが、それが、行き詰まりを見せるときがある。そうすると、後は、神様がよきようにしてくださる、と信じるのである。
 すると、すっと進むべき道が示され、閉じられていた扉が開かれることは少なくない。そのような経験をキリスト者たちは幾つも持っている。これが証しである。叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。しかしながら、すぐにそれがそうなるときもあれば、いくら叩いても、求めても、そうならないときもある。
 私たちは、扉が開かないときは、叩き続けるか、開かないのが御心なのだろうと考える。もし、開かない扉であると判断するならば、そこに第三の道が用意されていると考えたい。私の予想だにしなかった良い道が用意されている。良い道である。


平良師