平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2017年8月20日 最近のわたし・・いい加減な者であるけれど

2017年08月29日 12時56分50秒 | Weblog
最近のわたし・・いい加減な者であるけれど

 私たちは、それぞれに神様が与えてくださる人生の歩みをなしている。ある人にとっては、あまりにも過酷だと感じられ、ある方には、今のところ順風満帆である。しかし、生まれてから死ぬまでの人生をならしてみると、誰も彼もおしなべてとんとんだと考える人もいる。
 否、そうではない、そこにはやはり歴然と差があるとしか思えない人もいるだろう。人生に起こる事柄の内容を考えてみると、明らかに自分の責任だと諦めのつくものもあれば、どうして、と不条理な世の中や神様の与えられた人生を思って恨んでしまう事もある。私たちは自分たちに与えられた課題を思いつつ、歩んでいくしかない。
 そして、その課題を的確につかんでいる人もいれば、それがわからず、ただ、毎日もがいている人もいる。キリスト教信仰に生きる私たちの基本姿勢は、神様に赦された者としての歩みである。それは、神様の愛や、与えられた人生の課題や期待に応えようとするものだ。神様はこのような自分には何の期待もしていないと思うのは間違いだ。愛されているので課題が与えられている。
 私は、恥ずかしいけれど、傲慢にも自分はまじめで誠実な人間であると思っていた時期がある。しかし、聖書を知れ知るほど、自分の罪の深さに気づかされることが多くなり、いつの頃からか、神様は、この私にいつまで忍耐してくださるのだろうかと思うようになった。そして、神様の愛と赦しをさらに深く思うようになった。


 平良 師

2017年8月13日 平和と宗教

2017年08月29日 12時45分11秒 | Weblog
平和と宗教

 日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争、中東での戦争などの紛争の中で、90年代に南アフリカは平和的に政府が変わり、差別政策が撤廃され、新しい社会を創出したことは、20世紀の最高の話です。
 現代はどちらかというと、「宗教」が問題として取り上げられる中で、ツツ氏とマンデラ氏がキリスト教に立脚し、社会混乱や内戦を拒んで、平和の道を選んだのは、奇跡的な歴史の転換です。ちなみに、デクレルク大統領について言われるのは、「心がよいというよりも、頭がよくて、権威を手放さなければ、内戦に陥ることが分かった」そうです。
 心も頭も生かし、不正を正し、神様に創造された人類の人権を守ることです。ミカ書6:8にあるように、“神様はあなたに何を求めておられるかを理解することは難しくないでしょう?既に知っているでしょう?神様が望んでおられることはこれです。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと。」”(私訳) 
 南アフリカだけではなく、さらにもう一つの誇るべき歴史があります。日本は72年間、平和を訴え続けて、武器を使用せず、世界貢献を貫いてきたことです。今年の夏、様々な危機に直面している今だからこそ、信仰者が声をあげ、創造的に、前向きに、平和の道から外れないように祈り、キリスト教会としてしっかりと立ちたいと思います。


L・ハンキンス 師

2017年8月6日 平和を作るために

2017年08月29日 12時39分34秒 | Weblog
平和を作るために

 「窮鼠猫をかむ」ということわざがある。追い詰められて逃げ場を失ったネズミが、猫をかむのである。弱い者も追い詰められると死力を出して強者を負かすことのたとえだ。まさに、C国がそうである。今のところ、頻繁に大陸弾道弾のようなロケットを打ち上げて威嚇しているだけだが、そのうち、とんでもない事態を引き起こす可能性がある。
 それに対して、日米であちらの空域で戦闘訓練をしたとのことだ。C国もだがA国の双方が、やんちゃな指導者たちだから、ほんとうに心配だ。何が起こるかわからない時代になってきた。そして、N国の指導者は、この機に乗じて、だから、軍隊が必要なんだといった論法を強力に主張するのだろう。困った時代になった。
 環境問題や平和を考えなければならない昨今、どうしようもない二人が、核のボタンを押す権限を持っている。ほんとうに恐ろしい。神様は、人間が神様との関係を断つことを罪と言われた。そして、人間も、同じ人間同士、とことん話し合って関係を築こうとしないならば、それもまた、罪であることを聖書は私たちに教えている。
 イエス様は、これから神殿に参って献げ物をしようとしていた男に、まず、関係を悪くしている人物と仲直りしてから、それから神様に献げ物をするように言われた。実に、身近なところから、私たちは平和を作る作業を推し進めていかなければならないのだ。夫婦、家族、教会員、ご近所、学校、職場、外国の方々など。


平良 師

2017年7月30日 Aさんの「言語感覚」について

2017年08月29日 12時36分47秒 | Weblog
Aさんの「言語感覚」について

 常日頃「言語」を研究対象としている私にとって、Aさんの「言語感覚」はとても気になる。Aさんは、「共謀罪」についての4月の国会審議のなかで、野党のY議員からの質問に、こう答えた。「『そもそも』には『初めから』という理解しかないと思っているのかもしれないが、辞書で念のために調べたら『基本的に』という意味もあった。
 オウム真理教はある段階において一変した。……いわば『基本的に』変わったかどうかということにおいて、『そもそも』という表現を使ったのだ。」ところが、現在出版されているどの国語辞典を見ても、「基本的に」などという意味の記載はない。「念のために調べた」のが事実なら、すぐにでもその辞書を指摘できるはずなのに、それができない。またもAさん独特のはったりか虚言か、と思わずにはおれなかったが、何と次のような閣議決定が後日発表された。
 「『大辞林』(三省堂)に『(物事の)どだい』という意味があり、『どだい』には『基本』の意味がある。」国語の用法に関する閣議決定がなされるということ自体が異様であるが、その内容も何とも苦しい言い逃れとしか思えなかった。全閣僚が、上司の貧しい言語感覚を必死になって「忖度」している姿がそこにはあった。上の引用にも登場するように、また24日、25日の閉会中審査においても同様だったが、Aさんの答弁には意味のない「いわば」、そして「まさに」が頻発する。
 「えー」とか「あのう」とは違って歴(れっき)とした意味を持つ語なのだから、側近の誰かが注意をして改めさせてほしいのだが、一向にその気配はない。「云々」(うんぬん)を「でんでん」と読んでしまうというのも常識の欠如以外ではないが、自分の読売新聞の記事を「熟読してほしい」という発言もまた、まったく非常識である。「他人の書いたものを熟読する」とは言うが、他人に向かって「自分の発言を熟読せよ」とは、普通の人は言わないからである。
 Aさんが東京都議選の応援演説のなかで、聴衆の一部から「A辞めろ」「A帰れ」コールが巻き起こったときに、「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と発言したことについて、タレントの元宮崎県知事の東国原英夫さんが次のように語ったと報じられた。「あの言葉っていうのは、今までの不祥事の全部合わせたぐらいの、本当は言ってはいけない言葉。国民に一国の総理がですよ、反対だからと言って、批判しているからと言って、『こんな人たちには負けるわけにはいかない』って言ったんですね。
 この言葉が大問題にならないことがおかしい。あれで僕は、自民党惨敗だなと。最終的に決定しましたね。」考えてみれば大変にひどいAさんのこの言葉の持つ重大性に、最初私は迂闊にも気づいていなかった。彼は私にとっても「総理」なのだなどとは、考えたこともなかったからである。そう考える必要もなくなる日が近いことを願っている。


青野 師

2017年7月23日 情報を受ける側の責任

2017年08月29日 09時41分35秒 | Weblog
情報を受ける側の責任

 最近、テレビにMという女優の動画がよく取り上げられている。どうして、あのような動画を再三取り上げるのか、よくわからない。たいして面白い動画でもない。連れ合いとの夫婦関係がだめになって、夫を懲らしめる目的なのか、自分の正当性を訴え、理解を得たいのか、少なくとも平常心を失って病的にさえみえるが、取り上げるマスコミもどうかと思う。また、夫の名誉も著しく傷つけられている。
 それとも、これは、今の時代、夫婦ならば誰でもやってみたい衝動に駆られるお話なのか。こんな話題よりも、このところの豪雨など、世界規模になっている異常気象について、実際のところはどうなっているのか、そのような情報こそ、しっかりと調べて報道してもらいたいものだ。
 また、先日、ある方の講演を聞いていて、ホームレスの方々が最近少なってきたのは、原発のごみ処理などで、その方面の雇用が増大しているからだという。福島原発の処理にも随分の労働者が送られているのだろうが、再稼働する原発が増えてきたこともその一因らしい。原発のごみ処理など、とても危険な労働に、ホームレスの方々が多く雇用されているというのが事実ならば、それもまた、大きな問題であろう。
 メディアの使命は、大きい。取り上げるべき問題、事件、テーマは山ほどあるのに、どうしてあのくだらない動画なのだろうか。聖書からの情報は軽々に取捨選択するわけにはいかないが、両者とも受け手の責任はあるのである。


平良 師