平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年10月21日 スポーツを通しても・・

2007年12月30日 00時38分13秒 | Weblog
   スポーツを通しても・・

 先日のボクシングを観ていたら、歯のたたない若い挑戦者がチャンピョンを抱えて投げるという反則を犯した。どうも、セコンドからも反則の指示があったらしい。
 しかし、驚くに価しない。神なき者には、すべてのことが許されるのである。自分がすべてなのだと思えば、恐れるものはない。おそらく若貴ブームで相撲人気が高まったように、このボクサー親子が最近のボクシングブームを作っているのだからと考える人々がおり、それで利益を得ている人々がいたからだろう、彼らの振る舞いは目に余ったが許されてきた。
 彼らは、世の常識や道徳など、屁とも思わぬ態度が売りだった。それをまた人々は面白がった。ただ、勝ちさえすればいい、というこの時代をよく表していた。チャンピョンの方は、学生の頃、いじめられっ子で、それがボクシングを始めるきっかけになったと言っていた。善と悪の対決という印象を与え、観る者たちを楽しませた。
 試合は、一方的で、ガードを固め、一発を狙って前へ出る挑戦者を、チャンピョンが上手にあしらい、適当にパンチを浴びせ、大差で判定勝ちを収めた。昨日、反則をしたこの親子にボクシング協会より処罰が下った。予想よりも重いものだった。
 若いボクサーには1年のライセンス停止、コーチであった親には、無期限のライセンス停止。また、この親は教導に誤りがあり、ボクシングを汚したと非難された。スポーツを通しても、神様に栄光を帰すことはできるのだが・・。


平良師

2007年10月14日 愛国心教育の移り変わり

2007年12月25日 21時59分03秒 | Weblog
   愛国心教育の移り変わり


 日本の国民を最も幸せに導くべき政治の最高責任者、内閣総理大臣が突然交替した。ご承知のように、国内には大事な問題が山積しているが、そのうちで大切なものの一つに教育があると私は常々考えている。私自身、教育に少しく携わってきた経験があるが、文部科学省の人達と私の考えには、大きな開きがあるようだ。
 この数年、他の国と比べて学力・知力が低下し、体力も落ちているなどというデータが示されると、慌ててそちらに目を向け始める。そのことがどれだけ大切な意味をもっているのかどうか、をじっくりと考える余裕すらもっていない。日本人は愛国心がうすれてきたようだと、漠然と考え始めたのか、来年から中学生に武道を必須教科に組み入れると聞く。新渡戸稲造の「武士道」と混同しているのではないかと疑いたくなってしまう。
 文部科学省の教育関係者、とくに大臣などは、いじめを無くすようにしたいと考えているらしい。それはもっともなことであるが、私の考えでは、いじめはそんなに簡単に無くすことはできないと想像される。礼儀正しいはずの日本の国技(相撲)の世界に暴力沙汰がはびこっている現状では、武道などはかえって心配な気がする。
 私たちのように戦前から(昭和の初め)生きてきた世代の日本人は、教育は一歩間違うと怖いと身に沁みて感じる。とりわけ国家が教育の主体となり、教科書検定制度で国民の思考の自由を極端に狭めていることは嘆かわしい。
 戦前(日中戦争は始まっていた)も愛国心教育は行われていたが、70年余経った現在、再び同じように「愛国心」教育が強く叫ばれるようになったことに危険を覚える。郷土を愛する態度の達成度で個人(生徒、教師、国民)を評価するのは、国家主義に移行し、悲惨な戦争に突入した時代に酷似しているからである。
 「勝ってくるぞと勇ましく」、「死ぬも生きるも国のため」の歌声を聞いて、天皇のため、日本の国のために命を捨てることを平然と受け入れる「愛国心」を持たねばならないと強制された、かつての日本の歴史を、決して忘れてはいけない。


松村師

2007年10月7日 教会・礼拝の形、いろいろ

2007年12月22日 16時44分16秒 | Weblog
   教会・礼拝の形、いろいろ

 夏期休暇を利用して、ある教会の礼拝に出席した。300人程度の礼拝が土曜の夜に1回、日曜に4回、計5回行われていた。駐車場には、テントが張られ、そこで、受付、ミニストリー(奉仕)のあれこれの案内、行事の案内などがなされていた。中に入ると、あちらこちらで人々が語り合っている。
 主任牧師が、礼拝堂で、新来者とおぼしき人々に挨拶をして回っていた。私にも英語で挨拶されたが、英語がわからないとわかると、すぐに片言の日本語で話してくれた。それから、礼拝が始まった。アロハシャツの主任牧師をはじめ、皆、ラフな格好で礼拝に集っている。若い人々が多かったが、中高年層も3割ほどはいただろうか。
 聖歌隊が、一人また一人と講壇に30人ほど上がり、それから、4人の女性コーラスグループ、ボーカルのアジア系の男性が讃美し始めた。伴奏は、バンド形式で、フルートを演奏される人もいた。1曲目の後、新来者の紹介があった。
 礼拝で歌われたのは、全部で10曲くらい。讃美の歌詞とイメージする背景がスクリーンに動画となって映し出された。それからバプテスマ式があり、式終了後、受洗された人々の所属するスモールグループの人々が壇上に上がり、花束贈呈。糸のような目立たないワイヤレスマイクを使い、牧師はメッセージをした。
 日本語対訳も映し出された。創世記の冒頭、7日間でこの世界を創造されたことへの説明が興味深かかった。教会により、礼拝の形もいろいろである。なぜ、そのような形をとるのか、何のために・・、ちゃんとした理論や理由がそこにはある。


平良師

2007年9月30日 教会の目的

2007年12月16日 16時11分10秒 | Weblog
     教会の目的

 現在扉を開け放して礼拝をしていること、また、二部礼拝の可能性を考えていることは、人数が増えてきたことに対する打開策を考えているだけではない。それは、むしろ、小さなことである。問題は、私たちの教会がどれだけ伝道のスピリットを持っているのか、そのことが試されているのだと考えている。
 教会がいただくヴィジョンの程度しか教会形成はできない。これはよく言われることだ。教会は、ある目的をもって宣教活動を行っている。その目的は、人数ではない。人数は結果として、そうなってきたとしかいいようがない。
 それでは、その目的とは何かとなれば、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということである。そのことを教会は行う。
 そのことをしないのであれば、教会というところは単なるサロンと化すだろう。教会は、礼拝をはじめ伝道するときに健全な働きをなす。しかし、交わりも大切である。学びも大切である。レクレーションも大事だ。心の痛みや病が癒されるようにと祈ることはもっと大切だ。つまり、教会は、伝道だけではない。
 しかし、それでもなお言わねばならない。教会の中心は、伝道である。イエス・キリストの福音を語り、一人でも多くの人々にバプテスマを授け、キリストに命じられたことを教えることである。教会の存在理由だ。


  平良師

2007年9月23日 教育・訓練を見直す

2007年12月13日 23時46分38秒 | Weblog
   教育・訓練を見直す

 今週いっぱい休暇をいただいて、教会を留守にする。これから、どのような教会を立て上げていけばいいのか、少し材料を収集して来ようと思う。私は、これまであまり信徒の方々を意識的に育てるということを考えてこなかった。それには理由がある。まず、私がだらしない人間であること。二つ目は、信徒訓練とか弟子訓練といった言葉が嫌だったことである。
 何かそこにマインドコントロールのようなものを連想したからだった。その私が、最近、否、教育・訓練は大事だと思うようになっている。それは、私が牧師になって、立場が変わったということよりは、ある女性のキリスト者としての成長著しいのに驚かされているからだ。
 彼女は、数年前から東京の恵約宣教教会(伝道所)に通っている。そこで、しっかりとした学びをして、自立したキリスト者としての立ち方を教えられている。彼女の話を聞いていると、まず信仰の質の変化、信徒しての立ち方、教会へのかかわりの姿勢など、教えられるが、決して型にはまっているわけでもいない。
 彼女は、恵約宣教教会に行くまでは、いくつかの教会に顔を出していたようだが、礼拝を守ることもまれであった。それが今では、何かで福岡に帰ってきたときも、教会の自分の負わされている係りの責任を果たすために、メールで情報のやりとりをしている。
 彼女の中の教会の大きさを思う。これらは神の恵み、教会の愛情溢れる教育以外の何ものでもないと思えるのだ。。


 平良師

2007年9月16日 ほとんど相対的に見える

2007年12月05日 22時28分15秒 | Weblog
  ほとんど相対的に見える

 誰もが、自分は、まともな普通の人間だと思っている。誰も自分は他人と比べて変わっているとは思わない。自分の考えや行動パターンと違う考え、動きをする人を見て、そんなこと普通では考えられない、あの人、ちょっと変じゃないと思う人が多い。
 確かに自分勝手な人は困る。世の多くのキリストを信じない人たちからすると、あんな話信じている人たちってキモイ、変ということになるのだろう。でも、ある牧師は、福音を聞いて、イエス様を信じようしない人はキモイ、変と思うらしい。若者たちが、気持ち悪いという言葉を短くして、キモイと言っている。
 初め、私は気持ち良いの短縮形とばかり思っていた。ネガティブな感じのするものは、このキモイという言葉でひっくくってしまうようだ。娘から、お父さんの頭キモイ、これはわかる。しかし、テレビばかり見てるんじゃないよ、と娘に言うと、それがキモイったい、と言われる。教員をしていた頃、キリスト者でない先輩から、「君をキリスト者にしておくのはもったいない」と言われて、一瞬喜びそうになった。
 よく考えると、そういうあなたがキリスト者にならないなんて、もったいない、そう言うべきだった。誰もが、自分は普通で、あたり前だと思っている。変な世界に行くと、あなたのあたり前は、変になる。要するにこの世の多くは相対的で、絶対的なことなど、ごくわずかである。神様を信じている私たちには、ほとんどのものが相対的に見える。


平良師