平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2012年4月29日 例える

2012年04月29日 11時06分31秒 | Weblog
例える


 言葉というものは時間とともに変化するものなので、ある程度はその変化に従っていくしかないことは承知しているが、最近の「例える」という漢字の使用法に関しては、どうしても納得がいかない。
 曰く、「白い雲をウサギに例える」。朝日新聞の「天声人語」の執筆者までもがこのような書き方をしていたので、新聞社に電話をしてその理由を聞きたかったのだが、ご本人と話すことはできなかった。従来までの用法に従えば、これはもちろん「ウサギに喩える」とならなくてはならない。「白い雲がウサギのようだ」というような「ようだ」とか「似ている」という言葉を使っての比喩を「直喩」と呼び、「ようだ」抜きで「黒髪に霜が降る」(万葉集)というような言い方を「隠喩」あるいは「暗喩」と呼び、欧米語では「メタファー」と言う。いずれにしても「喩える」であって、従来の日本語には「例える」などという用法はない。
 『広辞苑』にも、「例える」という動詞形は載ってさえいない。ある具体的な「例」をあげて言うことを「例えば」というのみで、「例として引き合いに出す話」は「例話」と言う。しかしイエスが語られた「たとえ話」は「譬話」と書き、それは決して「例話」ではなくて、ある特定の独自の意味内容を伝達するためにイエスが語られた「物語」である。これすらも、いずれは「例話」と書かれることになってしまうのだろうか。
 そう言えば英語でも、私が高校生のころは、compare to ~ は「~にたとえる、なぞらえる」の意味であるが、compare with ~ は「~と比較する」の意味になる、と厳しく教えられたが、シャフナー先生によれば、今日では二つの区別をする人は英語を母語とする人においても稀になってしまっているそうだ。
 しかしイエスの「譬話」が「例話」と書かれるようになってしまったとしたら、私は大いに抗議をせざるを得ないだろうと思う。ある作家が、「語彙(ごい)が少ないとその人の感情は単純化し、そういう人格になってしまう」と書いていた。言葉本来の微妙な意味の襞(ひだ)を無視して単純化することは、私たちの「人格」の形成にまで関わることなのだとしたら、それは恐ろしいことであり、何としても避けなければならないことだと思う。


青野師

2012年4月22日 信仰に生きる者のさわやかさ

2012年04月25日 19時11分13秒 | Weblog
信仰に生きる者のさわやかさ


 苦しいときにこそ、キリスト者の本領は発揮される。苦しみに耐える力を神様からいただくからだ。ご利益を求めて、信仰生活を送っている人々は、自分たちの願望が満たされないと、あちらの神々、こちらの神々と、よりご利益のある神々のうわさを求めて訪ね歩くことになる。
 最近では、宝くじの神々まで誕生して、人間の欲望は神をも創造するのである。だから、日本では、神様に従うなどといった信仰姿勢は、理解しにくいものであろう。神々とは、人間に従うものである、これが、ご利益信仰の行き着くところである。しかし、キリスト教の神様は、私たちを創造し、命を与え、私たちに生きる目的を示し、私たちを導かれる神様である。
 いのちをはじめ、すべてのものを与えるのも、奪われるのも神様なのである。だから、苦難をも私たちは受け入れる。さて、今朝の春の陽気はとてもさわやかだ。庭のチューリップやプランターの花々も満開。さわやかというのは、湿度があまりなく、適度な温度で、どちらかというとひんやりするくらいである。毎日が、このようにさわやかだとどんなに快適だろうか。逆に、低気圧が近づいてくると、花粉症の私は症状がきつくなる。
 私たちキリスト者たちの生き方もさわやかでありたいと思う。ちなみに、「さわやか」は岩波の国語辞典では「気持ちがよくさっぱりしている」とでてくる。わかっているが、私たちにはなかなかできない。主にあって、淡々と生きていきたい。


平良師

2012年4月15日 2011年度の恵みを思う

2012年04月15日 11時38分13秒 | Weblog
2011年度の恵みを思う


 来週は、2011年度の報告定期総会である。まず、2011年度は、2人のこどもたちがバプテスマ(洗礼)を受けたことがうれしい。これはどのようなときであっても、教会の一番の恵みである。それから、3名の教会員が天に召されたことは、寂しくつらいことであったが、これもまた、私たちキリスト者は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、死に勝利したと言われているのだから、希望を断たれた出来事だったと言ってはならないのである。
 それとは逆である。しかし、そうは言っても、天に召された方々のことに思いをはせるとき、天国に行かれたのだという確信はあっても、やはりその別れは悲しく寂しい。死は、罪からの解放であり、新しい世界、永遠の命の始まりだから、私たちにはよきものであり、凱旋の勝利のときである。
 そして、いずれ、私たちも天の国へ旅立つことになって、あちらでお会いできる。霊の体があるとパウロは述べているが、それがどのようなものなのかはわからない。また、今のような心もちでいられるのかどうかもわからないが、神様のもとで一緒になるのであろう。
 それから、恵みは、大名クロスガーデンの建築が始まったことだ。いよいよ目に見える形で始動。10月末には、完成予定である。2011年度は、6月からご高齢の方々や足の不自由な方々のために送迎を開始できたことも恵みと言えよう。そして、恵みと思えぬ中に、真実に恵みがあることもおぼえておきたい。


平良師

2012年4月8日 大名クロスガーデン誕生はすぐ

2012年04月07日 20時48分54秒 | Weblog
大名クロスガーデン誕生はすぐ


 大名の建物の正式名称を決めるにあたり、多くの提案がなされ、大名フィリアと大名クロスガーデンで決選投票となり、10対28で後者に決まった。これまで仮称とは言え、大名クリスチャンセンターという呼び名にも愛着を感じはじめていた方々もおられただろう。大名クロスガーデンは、5つに絞った段階でも最高得票であったが、最後は若い人たちの幾人かの意見を多くの人が支持する形になって、この名称になったのだと理解した。
 「大名にあるキリストの庭」というなかなか素敵な名前である。大名という繁華街だったからこそ、ガーデンという名前をもってきたのはよかったのではないだろうか。あの場所は、雑踏の中のオアシスのようなところだ。若者たちの飢え渇いている魂に生きた水を与え、魂を生き返らせてくれるところになったらよい。
 また、「大名の十字架の立つところ(庭)」、こちらの理解の仕方も悪くない。イエス・キリストを証しする場所、イエス・キリストが、働かれる場所である。建物の完成は、10月20日(土)の引渡し予定となっている。施工業者さんは、それよりもできるだけ早くに引渡しができるよう努力してくださるとのことだ。
 どのようなプログラムを用意できるだろうか。多くの方々の奉仕を必要とする。一人でも多くの方々に、大名での奉仕の名乗りを上げて欲しい。今年になってもう4月。あっという間に11月はやってくる。祈りつつ備え、そして、主のお働きを楽しみにしよう。


平良師