例える
言葉というものは時間とともに変化するものなので、ある程度はその変化に従っていくしかないことは承知しているが、最近の「例える」という漢字の使用法に関しては、どうしても納得がいかない。
曰く、「白い雲をウサギに例える」。朝日新聞の「天声人語」の執筆者までもがこのような書き方をしていたので、新聞社に電話をしてその理由を聞きたかったのだが、ご本人と話すことはできなかった。従来までの用法に従えば、これはもちろん「ウサギに喩える」とならなくてはならない。「白い雲がウサギのようだ」というような「ようだ」とか「似ている」という言葉を使っての比喩を「直喩」と呼び、「ようだ」抜きで「黒髪に霜が降る」(万葉集)というような言い方を「隠喩」あるいは「暗喩」と呼び、欧米語では「メタファー」と言う。いずれにしても「喩える」であって、従来の日本語には「例える」などという用法はない。
『広辞苑』にも、「例える」という動詞形は載ってさえいない。ある具体的な「例」をあげて言うことを「例えば」というのみで、「例として引き合いに出す話」は「例話」と言う。しかしイエスが語られた「たとえ話」は「譬話」と書き、それは決して「例話」ではなくて、ある特定の独自の意味内容を伝達するためにイエスが語られた「物語」である。これすらも、いずれは「例話」と書かれることになってしまうのだろうか。
そう言えば英語でも、私が高校生のころは、compare to ~ は「~にたとえる、なぞらえる」の意味であるが、compare with ~ は「~と比較する」の意味になる、と厳しく教えられたが、シャフナー先生によれば、今日では二つの区別をする人は英語を母語とする人においても稀になってしまっているそうだ。
しかしイエスの「譬話」が「例話」と書かれるようになってしまったとしたら、私は大いに抗議をせざるを得ないだろうと思う。ある作家が、「語彙(ごい)が少ないとその人の感情は単純化し、そういう人格になってしまう」と書いていた。言葉本来の微妙な意味の襞(ひだ)を無視して単純化することは、私たちの「人格」の形成にまで関わることなのだとしたら、それは恐ろしいことであり、何としても避けなければならないことだと思う。
青野師