平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2019年5月12日 家族の日礼拝を覚えて

2019年05月30日 22時05分49秒 | Weblog
家族の日礼拝を覚えて

 今日は「母の日」だが、当教会では家族すべてに対して感謝を表す日としておぼえている。神様が与えてくださった家族一人一人の存在を感謝する。もちろん、母親が子供へ注ぐ愛情は特別であり、そういった意味では、子どもにとって母親には感謝してもし尽くせないものがある。
 しかし、子どものいない女性、独身を選ばれた女性、母親が召された子どもたちのことも考え、むしろ当教会は、家族全員に対して互いに感謝を表そうとこの日を家族の日と決めたのである。しかし、このこともまた、現代は、家族の形も複雑化していて、1人住まいの世帯が半数を超えるようになった今は、この家族の日の礼拝自体も、今後は考えなければならないのかもしれない。
 天皇家に象徴されるように、家族が失われていく時代に突入しているのである。家族のこともそうだが、継承という問題は、今や何処でも課題となっている。教会の奉仕者も足りない状況となってきた。共働き世帯も多くなり、教会から30代、40代の層が薄くなってきた。ある方の話では、建築業も30代、40代の働き盛りの熟練した職人さんが継承がうまくいかず足りない状態となっているという。
 教会の抱えている課題は、日本の一般社会でもそれは同じである。しかし、今日、礼拝で3代にわたりキリストに従っているN家族が、証をしてくださったことは教会の希望であり喜びである。時代が変わっても、教会の人々は個人も家族も主の導きの中で生きている。


平良憲政主任牧師

2019年5月5日 ちょっとした疑問

2019年05月30日 22時03分47秒 | Weblog
ちょっとした疑問

 今回の10連休は、天皇の代替わりの儀式があるからだ。ところで、前の天皇の代替わりと今回では何が大きく違うかというと、前回は、昭和天皇が死んでその皇位継承のための儀式であったが、今回は生きておられる。即位の儀式のなかで、大嘗祭は天皇家最大の秘儀であるが、詳細は一切非公開である。
 その大嘗祭のなかでも、真床追衾というものがある。これをどのように行うかが、実は問題になっているらしい。真床追衾について、西郷信綱氏は、次のように説明している。「新しい資格は古いものの上にたんに付加されるのではなく、成年式がそうであるように、古い身分として死に、新しい身分として生まれかわるという変身の過程を通らねばならなかった。
 現に彼は瑞穂の国の君主たらんとして、稲の初穂を食べると共に、殿内の中央の神座で衾にくるまり、ここに臥す所作を演じたものと推測される。それは子宮の羊膜に包まれた胎児の状態にもどってこの世に再誕しようとしる模擬行為で、ホノニニギが生まれたての嬰児として、または真床覆衾にくるまって天降ったというのは、かかる過程の神話的表現に外ならない」。
 こうした儀式に公費が使われるため、これは政教分離原則に抵触する可能性があると言われている。しかし、誰も見たわけではないから、何とも言えない。言えることは、先の天皇はまだ生きているため、こうした儀式が仮に前回と同じようになされても、完了したことになるのかということ。


平良憲政主任牧師

2019年4月28日 貧しい者に-いかなる幸いが-

2019年05月30日 22時01分29秒 | Weblog
貧しい者に-いかなる幸いが-

 貧しい者は幸いである、とイエス様は言われた。マタイは「心の貧しい者」としたが、ルカには「心の」はない。経済的に「貧しい者」なのだろう。「心の貧しい者」というのは、誰にも頼ることができず、ただ己を神様に委ねるしかない、ひたすらに神様を求める信仰の持ち主を言っている。だから、心の貧しい者が幸いであるというのは、納得できる。
 しかし、ルカのように、経済的な文字通り貧しさを指して、幸いであるとういうとき、納得できる者は少ない。金さえあればと人は思う。最近の言葉に「アンダークラス」というのがある。極端に生活水準の低い非正規労働者の新しい下層階級だそうだ。可処分所得(収入から税金や社会保険料などを引いたもの)が全国民の中央値の半分に満たない人の割合を貧困率というらしいが、日本においては、245万円の半分、つまり可処分所得が年間122万未満しかない人は、15.7%になり、6人に一人が貧困にあえいでいるそうだ。
 そのアンダークラスは、日本に930万人いる。どうやって生活をしていけばいいのかわからない、家庭などもてるはずがない、自分が生きていくのが精一杯という人が6人に一人の割合でいるのである。
 連盟の教勢報告の1999年から2008年のいろいろな数値が10年間はほぼ横ばい状態だったのが、2008年から2017年の10年間には急激な右肩下がりとなったことからもわかる。もうすぐ貧しい年金取得の年齢になるが、主のくださる幸いを体験する。


平良憲政主任牧師

2019年4月21日 共に復活-韓国独立宣言から-

2019年05月30日 21時58分45秒 | Weblog
共に復活-韓国独立宣言から-

 イエス・キリストの復活を喜び祝い申し上げます。復活者イエスによって示された、死で終わらない命があることは何と嬉しいことでしょうか。復活の命について、その意味を捉えなおし、深めていきたいと思わされています。
 今年私は韓国独立運動100年の記念の年に、慰安婦問題を考えるユーススタディツアーに参加させて頂きました。全ての旅の日程を消化できませんでしたが、それでもソウルでの韓国ユースとの交流や、独立宣言文の学びには、深い恵みを頂きました。韓国の独立宣言文には2・1(中国)、2・8(東京)、 3・1(ソウル)の三つの宣言文が存在します。世界中へ民族自決主義を求めて宣言文が書かれましたが、それぞれ書いた人も土地も時期も異なります。
 新約聖書の四福音書がイエスをそれぞれの視点から記したように独立宣言文もそのような成立の過程がありました。2・1は迫害の故に中国へ逃れた韓民(クリスチャン含)たちが中国で「共に復活し」「天意の実現」を目指し、「平等」を勝ち取ろうと呼びかけます。2・8は韓国人留学生が東京のYMCAで独立宣言文を読み上げました。「血戦」などの強い意志を顕にしつつ、武器に寄らない「素手の反抗」―非暴力の平和構築運動―であることを呼びかけました。3・1は「全人類の共同生存権」や「平等」「世界平和」を謳う宣言文でした。
 韓人の「共に復活」という言葉には、大きくは二つの意味があったことを知りました。ひとつは同胞への慰めと励ましの呼びかけ、皆で共に復活しよう、という呼びかけです。そしてもう一つは、世界中の植民地化で虐げられている人々のへの連帯でした。「復活しよう」と叫ばれたあの場所で、私が見たものは、3・1独立宣言文の中にあった「日本の不信を責めはしない」という一言でした。復活の命とは、赦しの宣言でもあったことに気付かされた旅でした。


森 崇 牧師

2019年4月14日 キリスト教の土着化の一助として

2019年05月30日 21時53分28秒 | Weblog
キリスト教の土着化の一助として

 この4月から「天国までの風景ミニストリー」を月に一度始めることにした。きっかけになったのは、ある牧師が、自分が行く施設のご高齢の方々から、もう歌はいいから、キリスト教の天国の話や葬儀や墓の話を聞かせて欲しいと言われたというのだ。
 彼は、ご高齢の方々は、昔のなつかしい歌を好むと思って、子供の頃の童謡や演歌などを歌っていたが、実際は、天国の話や葬儀の話、また、高齢者の生き甲斐について聞きたいと思っているというのだ。私は、本当にそうかもしれないと思った。それで、ご高齢の方々や死期の迫った人は、天国に行くまでに、どのような風景を見ることになるだろうかと、ふと考えて、このようなミニストリーを行うことにした。
 一回目は、キリス ト教でいうところの天国とはいったいどのようなところなのか、そんなことを一緒に考えてみたいと思った。聖書は、決して一枚岩ではないことくらい誰もが承知しているだろう。天国は、いろいろな説明の仕方をされている。特に、イエス様は、たとえ話を用いて、天国、神の国のお話を随分とされた。それ らを総合して考えてみると、天国とはこのようなところ、とおぼろげに語ることができる。
 日本にキリスト教が土着化するためにも、仏教が占めていた葬儀やお墓の問題など、キリスト教的なるものをしっかりと提示して、多くの方々がこれに与ることができるようにその門を広げることは、意味あることと考える。


平良憲誠 主任牧師

2019年4月7日 信仰とは

2019年05月30日 21時50分52秒 | Weblog
信仰とは

「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様はよく言われた。そのときの信仰とはいかなるものだったのか。それは、イエス様に対する深い理解があったわけではない。このお方にすがれば何とかしてもらえるに違いない、或いは、何とかして欲しいといった一念、そういう藁にもすがりつきたい思いをこの場合は信仰と言っているに過ぎない。
 その程度といったら語弊があるかもしれないが、そのような類の信仰なのである。しかし、イエス様はこうも言われた。「もし、からし種一粒ほどの信 仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」。人は、ちょっ とした信仰があれば十分なのであるが、そのちょっとした信仰すら持ち得ない人がほとんどだ、そういうことであろう。
 イエス様のことが十分に理解できたので信仰に入るという人はいない。まさにそれは聖霊のお働きとしかいいようがない仕方で得られるものである。十字架の意味や復活の意味など、教理についても、そのあとにいろいろと説明を聞いて、そういうことだったのかと理解するが、納得できないことも多々あろう。
 長い年月をかけて、繰り返し読む聖書を通して、或いは、キリスト者としての教会生活を続けるなかで、教理の妥当性を少しずつ少しずつ、確認していく。ただし、私たちの教会は、これとても多様な考え方を相互に受け入れ合うのだから、真実に自立した姿勢が問われているのである。


平良憲誠 主任牧師

2019年3月31日 必然性のなかで生まれた多様性

2019年05月30日 21時47分30秒 | Weblog
必然性のなかで生まれた多様性

 毎年、新しい課題が生まれ、それに対処しようとしてあれこれ考え、具体的な策を講じるが、それがうまくヒットすることもあれば、空振りに終わることもある。また、何が問題となっているかを十分に捉えられないでいるときもある。
 2019 年度の平尾教会の課題は何か。それは、平尾と大名のそれぞれの礼拝に集っている者たちが、多様性を認め合える教会の形を作ることである。そのために平尾教会組織改革検討委員会が、2年近くにわたり話し合いを重ね、今年の 9 月には最終答申を提出することになっている。これを受けて執事会で、さらに検討を加え、新しい教会組織なるものを臨時総会に提案することになっている。
 ただし、そうしてできた新しい教会の組織をもってしても、教会の状況が一向に変わらないことも予想される。私たちの伝道対象地域は、大名が商業地域であり、平尾が住宅地域である。だから、同じように行うことはできない。それぞれの地域に必要とされている事柄に応答できるものを用いながら、宣教活動にあたっていくことになる。
 2019年度計画総会資料に時代の趨勢は多様性を認め合うことだと書いたが、私たちの教会はそのことを教会の必然として受け止めている。なぜなら、聖書の福音理解、礼拝スタイル、各種ミニストリー、幾つかのスモールグループなど、どれ一つとっても、多様性を認め合うことなしに成り立たないからである。


平良憲誠主任牧師

2019年3月24日 他者の気持ちを理解することの難しさ

2019年05月30日 21時43分43秒 | Weblog
他者の気持ちを理解することの難しさ

 他者を思いやる力をうるためには、自分が経験していないことを何らかの形で獲得する必要がある。自分が経験したことは、その気持ちわかるよ、う〜ん!理解できる、とこうなるだろう。しかし、そうでない場合、なかなかわからない。できる人には、劣等生でずっと人生を過ごしてきた者の気持ちはわかりようがない。
 その逆の立場もしかり。しかし、例えば、文学などを通して、そのことは若干であるが、理解できるようになる。小説に親しんでいる人は、数々の主人公の人生をとおして、色々な考え方や思いを知り、人はちょっとしたきっかけで挫折したり、どん底に落ちていくのだと、自分の小さな世界だけでは理解できなかった種々の人間の気持ちや社会の仕組みなどがわかるようになる。
 キリスト者たちも聖書をとおして、そこに登場している人々の立ち振る舞いを見ながら、罪や救いの内実、神様と人間、イエス様と自分の関係など多くを知ることができる。そして、そこに生じている神様と人間との気持ちのやり取りを垣間見る。多くの人間は、自分こそが、その人の気持ちをわかっていると思っているが、本人でない限りそれは無理というものだ。
 否、本人すらも、ころころと変わって、いったいどれが本心なのかわかっていない場合すらある。私達は聖書の文字を読んで、理解を深めようとする。それとても「文字(この場合律法)は殺しますが、霊は生かします」との言葉があるとおり限界がある。


平良憲誠 主任牧師

2019年3月17日 無題

2019年05月30日 21時40分57秒 | Weblog
無題

 2月24日から3月3日まで、イスラエルに旅行をしてきました。友人と2人で、旅行社が催行する7泊8日のツアーに参加したのです。空路香港経由でテルアビブから入国しました。ヤッフォ、カエサリア、アッコと地中海沿岸を北上し、ガリラヤ湖周辺のティべリア、カペナウム、ナザレ、カナなどイエス様が生活された街々を巡った後、4日目からはベトシャン遺跡、エリコといった古代の街やヨルダン川のバプテスマサイトを辿りながら死海西岸をバスで南下しました。そして、切り立った岩山の頂上に残されたマサダ要塞跡や死海文書で有名なクムランを訪れ、最後にエルサレムやベツレヘムの遺跡や教会巡りをするという盛りだくさんの旅でした。
 教会の皆様には、私の旅の安全をお祈りくださり本当にありがとうございました。ヨルダン川西岸地区も通りましたが、実は、危険を感じることは一度もありませんでした。とはいえ、周辺の国々とは陸続きですから、いったん戦争が起きればどうなるかはわかりません。銃弾の生々しい跡が残る遺跡をいくつも見ました。
 この旅行では、世界中からの大勢の巡礼者と一緒になりました。ベツレヘムの聖誕教会では、「まさにここで」イエス様がお生まれになったという地下の小さな洞窟を「ほんの数秒間」見るのに人々が押し合いへし合いして並ぶのですが、「ほんとかいな」と思いつつも、私も「押さないで~」と叫びながらしっかりシャッ ターチャンスを狙いました!
 今回とりわけ印象に残ったのは、北のガリラヤ湖周辺の水と緑の豊かさと死海周辺やエルサレムの砂漠や荒地の茶色い風景とのコントラストでした。イスラエルは日本の四国ほどの小さな国ですが、北と南では驚くほど気候も風土も違います。折しも受難節です。イエス様がどのような思いで最後にエルサレムに入って行かれたのか、復活の時に「ガリラヤで会おう」と言われたのはなぜか、そんなことを改めて考えさせられた旅でした。


才藤千津子 協力牧師

2019年3月10日 人生のどんでん返し

2019年05月30日 13時41分36秒 | Weblog
人生のどんでん返し

 それまでの人生が、いかにつてを白色に塗り替えることができる。料理をして、まな板がべとべとどろどろになっていても、水で洗い流せば、さっときれいになる。停電の長い間、手探り状態であるものを捜していたが、突然に電気が灯って、あっという間にそれを見つけ出した。
 私たちがイエス・キリストに出会うというのは、そういうことではないだろうか。それまでの人生が、一変する。それまで、負としか思われなかった出来事が、すべて、プラスに転じるような、そのようなことになる。オセロをやっていて、それまでは半分以上が黒だったのに、最後のその一つで、大半が白になってしまうような、そのようなことだ。イエス様に出会うことで、私たちの人生には、どんでん返しが起こる。
 パウロは、イエス様に出会ったことのすばらしさのために、それまで自分にとって有利と思っていた事柄を塵芥のように思うようになった。ペトロは、商売道具を捨て、父親さえも置いて、イエス様に従っていった。ザアカイは、これまで集めていたお金を何倍かにして返すと言った。
 それまで、自分にとって大切だったものをいとも簡単に捨て、イエス様に従う道を選ぶ。そのときから彼は魚ではなく人間を獲る漁師になった。イエス様に出会った者は、人生のどこかで、何らかの形で、それまでの歩みや考え方とは違う、どんでん返しを経験する。


平良憲誠 主任牧師