平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2004年10月3日 礼拝の重さ

2007年01月09日 22時51分58秒 | Weblog
     礼拝の重さ

 礼拝は、非常に重い。礼拝は、自分にとって神様がどのようなお方かを示す、最大の証しの行為だ。ある人が、何はさておいても礼拝を選んだというなら、その人は神様を証ししたことになる。
 そのとき、その人の主がどなたか明らかになった。しかし、あれやこれやがあって礼拝に来られなかったという場合がある。本人の痛みに留まらず、それは教会の痛みとなる。礼拝は、自分がそこへ出席できたことを喜ぶと同時に、そこへ集うことができなかった人々をおぼえ、祈る場ともなる。
 礼拝は、この一週間が、主に喜ばれる者としての歩みであったかどうかを吟味し、悔い改める場でもある。ときに、「あなたは愛をもち、忍耐して他者に静かに語りかけたか」、などの主の声を聞くこともある。主に赦されて新たな一週間を始めなければならない。
 同時に私たちもまた赦していないあの人この人を今週こそは赦せるように祈ろう。謝るべき他者がいるなら、その勇気を主に願おう。礼拝で心合わせて声高らかに主を讃美するとき、私たちはうれしく、震える思いすらする。讃美は、音楽という手段をとおして、神様へ、私たちの魂を彼方へ届ける作業である。
 他に、礼拝に飾る生け花に賛美という行為を託す方もいる。舞踊があり、朗読などにも工夫をこらす。交読という形の祈りもある。私たちの教会は、全年齢層の一つの礼拝を守っている。これからも、すべての者が共に力を合わせ、礼拝を創ろうと思う。


平良 師