平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2016年1月24日 問題は何か、なんて・・

2016年01月30日 22時13分09秒 | Weblog
問題は何か、なんて・・

 今度の主日(本日)の最低気温はマイナス3度、最高気温は0度ということだ。番組によってはかなり天気予報に時間を割いて、詳しい説明をしてくれる。いろいろなメカニズムがあるようで、海水の温度が上昇してとか、エルニーニョ現象がどうのこうのとか、多量の二酸化炭素の排出で温暖化現象が強まり、その与えている影響とかなどなど勉強になる。
 気象衛星やその他諸々の現代科学の粋を集めた長期予報も出る。おおむね当たっているのだろうが、はずれることもなきにしもあらずである。今年は、暖冬とのことであった。冬全体からずればそうだったということになるのかもしれないが、このところの寒さは、違うんじゃないと言いたくなる。
 しかもマイナス3度なんて困る。熊本など盆地だからマイナス5度である。そう考えていると、2月の初めにバザーに出すヤマメを調達に阿蘇高森に行くのだが、あのあたりはさらに4度くらい低いから、今回のような寒さが続けばマイナス9度ということになって、沢は凍りついているのではないか。いやいや、まず現場までたどり着くことができないだろう。困った。
 最近の天候は極端である。昨日まで、雪が降らなくてスキー場も開けないと思っていたら、今日はドカ雪。環境破壊という人間の所業に、神様は異常気象をもって警告されている。それにしても、「問題は、今日の雨、傘がない」(ある歌の一節)である。ヤマメ釣行の日だけは、暖冬であって欲しい。


平良 師

2015年1月17日 「もうひとつのクリスマス」について

2016年01月23日 21時51分58秒 | Weblog
「もうひとつのクリスマス」について

 先週の本コラムで主任牧師の平良憲誠先生は、クリスマス礼拝における私の説教についてこう書いてくださった。「青野先生の説教では、クリスマスのもう一つの見方、別の観点から福音の真理に迫る見方があることを教えていただいた。それは、福音理解の深さ、広さ、豊かさへつながった。」そして平良先生は、「この信仰告白は、何人の信仰をも制限することはない」という、平尾教会の信仰告白の前文を引用されながら、私青野は「私たちの教会の信仰告白を生きている」とも記してくださった。
 私が平尾教会員になるよりも20数年前に書かれた平尾教会の、個々人の信仰を最大限尊重するという決意を表明しているこの信仰告白によって、私自身がどれほど力づけられてきたかは十分に言い尽くせないほどなので、平良先生のお言葉はほんとうに有難いものであった。イエスの誕生を「処女降誕」という形で理解する仕方は、決して肯定的に評価するわけにはいかない「奇跡信仰」そのものではないのか、とそれを批判的に捉える私の説教に、いたたまれない思いを持たれたのであろう一人のご婦人は、席を立って会堂を出ていかれたが、その方は他の教会に籍をおかれている方だったので、嗚呼、平尾教会の信仰告白の前文をその方もぜひ熟読玩味してほしいな、と思わずにはおれなかった。
 実は12月半ばに西南学院大学神学部チャペルでも私はほぼ同じ主旨の説教をさせていただいたのだが、関東地方にお住いのG牧師は、私の説教との関連で最近次のようなメールを私にくださった。神学部に送り出している神学生が帰省した際に、その夫人に青野先生の安否を問うたところ、次のような返事が返ってきた、というのである。「お元気そうですよ。私は出席できなかったのですが、神学部チャペルで青野先生は、物議を醸す説教をお元気になさったそうですよ。」私の説教が「物議を醸す」ものとして神学生の間で受け止められてかもいたとは知らなかったが、それも理由のないことではないとは思った。
 しかしその牧師は、「私はそれを聞いて嬉しくなりました」と記してくださったのだった。「物議を醸すほどに根底をつく言葉が少なすぎると思うからです。多くの教会でも、世界そして自分の足元がこれほどのスピードで激変し矛盾と葛藤に満ちているにもかかわらず、人々の中に物議を醸すような言葉が投げつけられていない現状に危機感さえ覚えているからです。」2011・3・11以後の世界はまさにそのような世界ではないのかと思うのだが、平良先生と言い、この牧師先生と言い、こうした同労者が与えられていることはほんとうに感謝なことだと思わずにはおれない。もちろん、中座こそしなかったものの私の説教でひどく傷つけられたと感じた方々がきっといらしたにちがいないと思うし、私自身も自分の捉え方が「絶対的に」正しいなどとは一刻たりとも思ったことはない。
 しかし私が提示した、パウロやマルコに代表されるような、「処女降誕」を知らない「もうひとつのクリスマス」についての証言者もまた、新約聖書のなかには確実に存在しているという事実は否定できないだろうと思われるので、ともに新約聖書の多様な証言に耳を傾けていきたいものだと切に願っている。平良先生が先週結論として記してくださったように、「多様性は、己に固執せず、見聞を広げることから生まれる」のだから。


青野 師

2016年1月10日 もう一つのものの見方

2016年01月16日 21時53分59秒 | Weblog
もう一つのものの見方

 昨年のクリスマス礼拝の青野先生の説教では、クリスマスのもう一つの見方、別の観点から福音の真理に迫る見方があることを教えていただいた。それは、福音理解の深さ、広さ、豊さへつながった。私たちの教会の信仰告白(この信仰告白は、何人の信仰をも制限することなく、あかしとして又、はげましとしてこれを宣言します)を生きている先生である。
 同じ方向から見ていてはわからないことが世の中には多いことを知らされる。私などは実に狭い世界に生きているので、世の荒波のもまれ方も少ない。それじゃあ、一般社会では通用しませんよ、と思われていることも多いと思う。そして、それで多くの方々に迷惑をおかけしていることも多いのだろう。この場を借りて、お詫びしておきたい。
 しかし、なかには、それが牧師の務めだから、世の常識と同じことを言ってもらったり、振る舞っていてもらってもつまらないし逆に困る、そういう考えの方もおられるだろう。ただし、これは私に限らず誰にもあてはまることだが、ある程度の常識がないと話ができない、ということも事実ある。
 神様の存在を真実に信じているということ自体が、まず、常識を逸脱しているというのが、日本人の感覚かもしれないが、キリスト者が多い国々の人々からすると、神様の存在を信じていないという傲慢な人間は、信用できないと考えるということも聞いたことがある。多様性は、己に固執せず、見聞を広げることから生まれる。


平良 師

2016年1月3日 リセットのありがたさ

2016年01月16日 21時50分43秒 | Weblog
リセットのありがたさ

 元旦礼拝では、「リセットのありがたさ」という題で説教させていただいた。パソコンでも、コピー機でもごちゃごちゃしてきて、にっちもさっちもいかなくなれば、リセットをしたらよい。荒療治だが、いざとなれば電源を引っこ抜いてしまう事もあり。そうすると、新しく始められる。年が改まるというのは、つまり、そういう類のことなのだと理解している。新しい気持ちで、仕事でも何でも始められるのはありがたい。
 神様は、人間を創造されたけれど、その人間は神様の望むようには生きなかった。神様が望む、神様と人間の関係を回復するために、最初の人アダムとエバは楽園から追放された。二度目のリセットとおぼしきことは、ノアの方舟の物語だろうか。邪悪な人間たちは地上から一掃されてしまった。しかし、それでも人間は、罪を繰り返した。三度目のリセットは、バビロン捕囚であろうか。
 そして、ついにイエス様の十字架によって、最後のリセットが完了した。このリセットのおかげで、ようやく、神様と人間の関係は、神様が望まれる本来の姿に立ち戻れることになった。神様ご自身が愛をもって創造された人間をもう一度愛されることを決意され、私たち人間も神様のその愛を信じて生きていくことができるようになった。人間は、十字架の上に神様の愛が極まっていたことを信じたのである。
 年が改まれば、昨年の記憶は急速に遠ざかる。2015年は遥か遠い昔のように思えてくるから不思議だ。


平良 師

2015年12月27日 2015年の終わりにあたり・・

2016年01月08日 23時11分40秒 | Weblog
2015年の終わりにあたり・・

 何ごとにも始まりがあれば、終わりは必ずと言っていいほどある。教会も始まりがあれば、終わりがある。教会だから永続するなどと思ってはならない。世にある教会が消滅してしまう例は、いくらでもある。戦後のバプテストの教会でも、そうなってしまったいくつかの教会があることを残念ではあるが痛みをおぼえつつ想い起こす。
 初代教会の時代から続いているとおぼしき教会が、はたしていくつあるだろうか。史跡になっているような教会はあるが、それ以外で、この教会の群れは初代教会から続いていますと言えるような教会はほとんどないだろう。しかし、今、我々の群れが存在しているのは、受け継いできた信仰者たちの働きによることは確かである。
 ならば、教会の群れは散り散りになっても、どこかで誰かが福音を語り、それをこれまた誰かが受け入れるといった引き継ぎの作業は絶えることなく続いてきたということだ。主のみ業だ。2015年も私たちは、イエス・キリストの福音について語り続けた。十字架におかかりになったこのお方が、キリストであると伝えた。
 そして、その宣教によって、救いに与った方々もおられた。教会という建物は消滅しても、また、群れそのものも散り散りになったとしても、誰かによって福音は語り続けられていく。それが、私であったり、あなたであったり。そして、2016年もまた、同じように、私たちは、種まきの作業を行い続け、収穫のときを待つ。収穫の主に祈りつつ。


平良 師

2015年12月20日 クリスマスに日本社会は

2016年01月08日 23時08分33秒 | Weblog
クリスマスに日本社会は

 イエス様誕生の知らせは、羊飼いたちのような、どちらかというと貧しく罪ありと思われていた人々や東方の占星術の学者たちのように異邦人と見なされていた人々に、一報がもたらされた。経済的に、今の半分くらいの日本国民は、生活が苦しいといった感覚なのではないだろうか。円安などで、ある人々は潤っているが、貧しい階層の人々が増えているということだ。格差社会である。
 私も来年度からのことは覚悟しているものの、ほんとうに貧しい人々の暮らしぶりを知るにつれ、それでも私など恵まれている方である。しかし、世の教会がする支援活動なども、諸教会自体が疲弊している中で、何ほどのことができるだろうか。
 暖冬とは言え、突然の寒気もないわけではない。社会も同じ。貧しい人々は増え、年金受給の方々もやっとの生活をし、大学を卒業した者たちもワーキングプアで奨学金も戻せず、まして結婚などはままならず、高齢者は病院にかかったり、介護を受けるにもお金がいり、窃盗や詐欺などの犯罪は増え続け、軍靴の足音は近づいている。それでも、どういうわけか政権の座につく者たちは変わらない。この国はどうなってしまうのか。
 「若者たちが夢を持てないような国は、悪い国に決まっている」と、ある方の発言を紹介したことがある。このような社会にあって教会はキリストの光に照らし出されたビジョンを持ちたい。キリストは、絶望という暗闇に希望という光をもたらしたお方なのだから。


平良 師

2015年12月13日 流行語とは

2016年01月08日 23時04分54秒 | Weblog
流行語とは

 今年の流行語大賞は、「トリプルスリー」と「爆買い」だった。これは、ユーキャンという会社が、主催しているもので、年末の恒例行事となっている。「爆買い」は、中国からの観光客で、このところの中国経済の好調で潤った方々がたくさんの日本製品を桁違いに買っていかれるようすを表した言葉である。流行語としては、誰もがなるほどと思ったことだろう。
 「トリプルスリー」は、ソフトバンクの柳田選手とヤクルトの山田選手が、打率3割、ホームラン30本、盗塁30を成し遂げられるかどうかが話題となったあたりから、多くの人々の関心を集めたというので、こちらも流行語大賞に選ばれた。
 あるテレビ局が、街行く人に、今年の流行語大賞になった言葉についてインタビューをしていた。アナウンサーから「トリプルスリー」と聞かされて、「えっ!、知りませんね」とか、「どこで、流行っていたのですか」などと、答える人もいて、こちらの方は、意外と流行語ではなかったかもしれないと思った。そのアナウンサーは、「野球に関心のある方々の間では、確かに流行語でした」と結んでいた。
 このようなものは、選択基準を設けていて、それに則って発表されているのだろうが、いい加減なものだ。その一年の世相を振り返って楽しむという点ではいいのだろう。口を開けばイエス・キリストと言っていたので、クリスチャンと呼ぶようになったらしいが、これもまた当時としては流行語であって話題の人々だった。


平良 師

2015年12月6日 面白みとか味とかいうもの

2016年01月08日 23時01分35秒 | Weblog
面白みとか味とかいうもの

 フィギュアスケートのシーズンも、12月末でファイナルとなり、年間の最優秀選手が決まる。羽生選手は、いつも安心して見ていられるが、浅田選手は、最初のジャンプで転倒することもあり、はらはらさせられる。しかし、はらはらさせられるから、応援する側としては熱が入り、面白いのかもしれない。
 プレーしている選手は、必死だろうけれど。先日のNHK杯では、羽生選手は、完璧なまでの演技を見せた。カナダ大会で悔しい思いをしたので、かなり努力したそうだ。得点も320点代と見たこともない点数で、驚いた。ただし、テレビの視聴率は羽生選手が18%で、浅田選手が24%だったということだ。
 芸人の又吉が、芥川賞を受賞して一躍話題になった。彼の語りは、とつとつとしているが、何かしら味がある。完璧さからほど遠い人のような印象だが、真実を語っているようには思える。幼い頃、大人たちの宴会の場で、漫才のようなことをしたところ、かなり受けたのだそうだ。そうしたら、父親がそっときてほめてくれると思ったら、調子に乗るな、と言ったそうだ。また、自分のサッカーの試合を見に来たはずなのに、試合は見ないでよその子供たちと相撲をとっていたという。
 しかし、そのような父親が好きだったとも言っていた。彼は父親似だ。イエス様が愛した人々も、ペトロにしろ、ザアカイや香油を塗った女性にしろ、完璧さどころか、欠けの多い人々だったが率直で味がかなりあったのかもしれない。


平良 師

2015年11月29日 世界構築のために

2016年01月08日 22時58分06秒 | Weblog
世界構築のために

 このところ世界のあちこちで、テロ事件が勃発し、報道がなされている。そして、貧困、飢え、搾取、疎外、弾圧、不平等、抑圧、迫害、殺戮などがある至るところでテロリストが生まれている。もし、その逆で、世界中が、平等、博愛、豊かさに満ちているならばテロリストは生まれない。世界中が、というところがミソだ。
 たとえ、武力でもって弾圧し、沈静化したかに見えても、心のうちに大きな傷を負わされ、それが怒りや憎しみとなり、報復の機会を狙っている者が存在する限り、真の平和は訪れることはない。警戒をいくら強めても、力で押しつぶすことは不可能と言える。かつては、外部からテロリストは入ってくると発想していたものが、だから、水際をしっかり守れば大丈夫と考えていたことが、今は、内部で育てられ、作られる時代になった。
 だから、日本でもテロは十分起こりうる。人が心を持っている限り、テロリストになることを防ぐ方法は、武力ではない。武力で押しつぶすことではなく、人の心から、憎しみや怒りがなくなることに力を注ぐことだ。人の心から憎しみと怒りを取り除くことができれば、テロリストは生まれない。
 キリスト教は、和解の福音である。暴力の連鎖、報復の連鎖が起こっているところに、和解の福音を告げ知らせることもまた、私たちの使命である。しかし、そんなキリスト教も、十字軍などで、かつて多くの過ちを犯した。真の和解を成し遂げることこそ平和構築の道と言える。


平良 師

2015年11月22日 人として通ずるものはある

2016年01月08日 22時45分46秒 | Weblog
人として通ずるものはある

 妻が、税関で荷物の中に、生ものがあるのが見つかり、その荷について別室に連れていかれ説明を受けたという。係り員が3名ほどいて、その中で妻が言った英語は、「マイドーター、ベイビー、ボーン」だったそうだが、おそらく、手振り身振りを交えて、その荷がいかに、娘の欲しがっていたものであり、彼女は近く出産を控えているので、是非、その娘にこれらの日本食を食べさせてあげたいと必死になって伝えたのだろう。
 中味は何と、私の釣ってきた鯛(宗像大島産)の昆布〆とヤマメ(阿蘇高森産)の燻製、それから、博多辛子めんたいこなどであった。税関の係り員がどのように判断したので、そうなったのかはわからないが、とにかく、3分くらいで無罪放免、しかも、その品々も没収されることなくすんだそうだ。
 ドイツに到着した日の夕飯は、それらのものをおかずに、娘夫婦もとてもおいしいと満足げだったらしい。ある人は、生ものが許されるなんて、とても信じられないと言われた。
 一昨年、次女の連れ合いがバプテスマを受けるというので、サンフランシスコに行ったときに、税関で、いろいろと英語で尋ねられて、ウーとか、エーとか言って、困ったという顔をしていたら、突然、「カンコーデスカー」と聞かれて、驚いて「エーマー」と答えて、胸をなでおろしたことを思い出した。神様の創造された者同士、言葉は通じなくても、気持が通ずることはあるだろうと思うのだ。もちろん、その逆もあるが・・。


平良 師