平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年5月27日 夢は消えたのだろうか

2007年07月29日 14時32分32秒 | Weblog
   夢は消えたのだろうか

 コンピューターの発展は、ある領域では、私たちの生活に豊かさをもたらしてくれている。しかし、神様の介入があるということを忘れさせる。
 「夢」というのは、飛んだり、越えたりする力だ。データーを打ち込んで、これから先、起こるであろういろいろなことを予想することは、現実的な世界を描くことだ。
 「夢」というのは、私たちの信仰には、欠かすことのできないものだ。つまり、神様の力の介入を期待するのである。教会の年度の計画も、今、自分たちにはこれこれの力しかないから、これくらいのことをしようではなく、神様の力を信じて、これこれのことにチャレンジしよう、という立て方をする。明らかに、信仰のなせる業なのである。
 だから、連盟の推進する「地域協働『夢』プロジェクト」という言葉自体は、実に、信仰的な言葉であると思っていた。先日、連盟事務所に行ったら、「夢」プロジェクトの「夢」が消えて、ただの「地域協働プロジェクト」になるのだという。なんとなく、連盟全体の動向を象徴しているかのようで、複雑な思いであった。
 「夢」を語れなくなった連盟、(「歌」を忘れたカナリア)とまでは言わないが、寂しい。ただ、「夢」プロジェクと銘打った連盟の意図は、諸教会が夢を描く機会となり、宣教活動が活性化されることだった。
 この出来事は、「夢」持てぬ時代の悲しみと言うべきか。それとも、与えられる「夢」の拒否であり、諸教会の自立の表れ、バプテストまだまだ健在というべきか。


平良師

2007年5月20日 五月晴れのように

2007年07月26日 22時20分24秒 | Weblog
   五月晴れのように

 五月晴れのさわやかな天気のように、いろいろとうれしいことがあったり、抱えている問題が解決したらいいのだが、この天気とは裏腹にいいことが少ない。
 先日も少年が母親を殺すという事件があった。子どもの親殺しは、昨年の倍の件数になっているという。精神鑑定の必要があるということだ。子どもだけではない。
 新聞には、現代のサラリーマンは、労働過重で体や精神を病んでいる者がさらに多くなっているとあった。社会が格差社会となりつつあるなか、自分たちだけは、上の方にと、競争も激化していくのだろう。あちらこちらでひずみはさらに大きくなり、その犠牲になる人々も多くなる。
 聖書は多くの真理を私たちに語っている。それに耳を傾ける人もおれば、耳を貸さない者もいる。私たちは、聖書から知恵をいただき、聖書の賢さに生きるべきで、世のずる賢さに生きることをしない。
 そこを踏み間違えると、罪へと転落するだろう。そうなることが、私たちにとっては、一番心晴れないことだ。私たちは失敗をしてもよい、損をしてもよい、寂しいことだが、人に裏切られてもよい、侮られてもよい、それが、もし、聖書を生きることによってもたらされるのなら、私たちは、心晴れやかに、日々を堂々と過ごすことができるのである。
 それでも、どこかでイエス様を裏切ってはいやしまいかと、我々は思う。だから、昨日も今日も明日も十字架におかかりになっているキリストがおられると信じたい。


平良師

2007年5月13日 家族―経験を共有する人々

2007年07月20日 23時35分05秒 | Weblog
  家族―経験を共有する人々

 人は、生まれてから死ぬまでに、多くの経験をする。うれしい経験、悲しい経験、苦しい経験、腹の立つ経験など、新鮮でわくわくするような経験もあれば、退屈でしようがないものもある。
 私たちはそれらの経験によって、少しずつ知恵もついていく。しないですめばそれに越したことはない経験がある。病気の経験もしたくない。人から傷つけられることも願い下げだ。厳しい仕事、厳しい生活状況も避けたい。できれば、親しい人々との別れの経験もしたくない。
 しかし、私たちの人生は、こうした経験からは逃れることは難しい。むしろ、このような一見、負と思われる経験を多くしている人は、人生に対する捉え方や信仰が随分と深いように思う。
 それから、うれしい経験は、人を愛して得られる喜びだ。神様を愛し、信じて、与えられる慰め、御業のすばらしさだ。人のこの世の歴史は、死をもって終止符が打たれる。もちろん、神様におぼえていただいている私たちの命は永遠である。
 しかし、この世で、私たちは、自分のなす経験をどれほどの人々と共有できるだろうか。私たちの存在は、この時代に、この世の生活を共にするようにと与えられたあなたや私というお互いなのだ。
 具体的には、血のつながりのある愛しい家族と教会の神の家族だ。親も子も教会の兄弟姉妹も神様の御心による組み合わせであることは間違いない。そして、一人のちょっとした経験も分かち合うようにとこれらの家族は与えられている。


平良師

2007年5月6日 言葉が伝わる前提

2007年07月14日 15時21分37秒 | Weblog
   言葉が伝わる前提

 運転しながらラジオを聞いていたら、鹿児っま弁が耳に飛び込んできた。ホークスのある選手の登場歌になっているという。
 それは、鹿児島出身の歌手、長渕剛の「きばりやんせ」という歌。この歌のサビの部分は、「きばれ/きばれ/きばりやんせ/いっどどま/けしんかぎり/きばりやんせ」というものだ。プロ野球選手がバッターボックスに立つときに流れる登場歌だから、こういう内容もあろう。
 この鹿児島弁の歌詞の意味は、「がんばれ、がんばれ、がんばりなさいよ、一度くらい、死ぬくらいに、がんばりなさい」、となる。特に、「きばりやんせ」の「・・んせ」というのは丁寧語で、しかも優しさが込められている。叱咤激励でもあるが、愛情が溢れ出るような応援歌なのである。
 これくらいに聖書の原典も理解できたらいいが。同じ言葉でも、どのような状況の中で語られた言葉なのか、また、その人が、その言葉を使うときは、専らどのような意味で使うのか、など、使われる状況や使う人の癖、地域などによっても言葉の重さは変わる。言葉は選んで話すという人もおれば、失言ばかりでごめんなさいという人もいる。
 人間関係がよいときは、あまり気にもとめない言葉が、悪ければ一つ一つひっかかる。言葉を共有するときには、その前提としての人間関係がある。関係が良ければ多少の意見の違いは善意に解釈されうる。
 だから、意思疎通を図ろうとするなら、すべてに先立って相手を愛することが必要なのである。


平良師

2007年4月29日 他宗教との比較でわかる

2007年07月07日 22時29分45秒 | Weblog
  他宗教との比較でわかる

 先日、ある宗教のお話を聞く機会があった。そのお話は、とても興味深かった。
 いくつかのことを紹介すると、例えば、人間は「悪人」から「聖人」まで、いくつかの段階に分けることができるという。「悪人」というのは、自分さえよければいいという人間だそうだ。そして、「凡人」は、いたかいなかったのかわからなかった人々。
 その次が「善人」、これは、隣近所のために生きた人、次が「英雄」で、国のために生きた人、ただし、英雄の評価は国境を越えることはない。そして「偉人」、人類のために生きた人、最後が「聖人」、神様のため、天や宇宙のために生きた人、なのだそうだ。
 この宗教では、「聖人」にまで少しでも近づくことができるように導くことが目的だという。また、一日に5回の祈りのときがあり、一年に1ケ月の断食がある(太陽が沈むと食べてよい)。聖地の巡礼、寄付・献金・喜捨、神告白が大事であるという。
 伝道方法は、5人の人々が、まず日常の生活を犠牲にして、伝道のために一緒に生活をする。そして、そこに人々を連れてきて、共に生活をしながら、悩みを共有したり、祈りやいろいろなことを教えるのだそうだ。ある部分は、キリスト教と共通したところがある。
 他の宗教と比較するときに、キリスト教の特徴もはっきりする。私たちの救いは、私たちの業にはよらない、神様の側の一方的な恵みによるものだということ。自分の力ではなく、神様に委ねることこそが大切なのである。


平良師

2007年4月22日 殺すな

2007年07月04日 00時35分00秒 | Weblog
      殺すな

 先週は、銃による痛ましい事件が報道されていた。一つは、アメリカのバージニア州立大学の銃乱射事件で、32名もの若者が犠牲となった。日本でも、長崎市長が、銃で撃たれて亡くなった。米国で銃を乱射した人間は、相手が誰でもよかったのだろう。それだけに、命を落とした者も、その家族もたまらない。また、撃った人間も自殺をしているから、被害者の家族は、誰にこの怒りをぶつけてよいのか、わからない。
 犯人たちは、あることに対して、強い憎悪を抱いていたことだけは確かだ。被害者の家族たちの悲しみは察して余りある。信仰を持っている私たちは、こうした事件をどのように考えたらいいのだろうか。
 突然の不幸にみまわれた人々、それもこれからの夢ある人生を奪われた若者たちのことを考えると、実に気の毒でならない。こうした世の中の不条理に遭遇すると、神様のことがわからなくなる。
 ただ、銃などというものはいらない、あってはいけない、そう思う。つまり、武器を手にすることで、人間はより人殺しになれる。「殺すな」、これはモーセがシナイ山で神様から受け取った十戒の一つである。
 また、武器があるから、これを用いて、という思いも安易に生まれる。気持ちの解決は武器を用いることによっては図れない。人殺しの道具を持たないことが一番である。
 日本国憲法九条は、国が武力を持たないことを明記している。「殺すな」、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる神様の戒めを恐れよう。


平良師

2007年4月15日 執事研修会にあたり

2007年07月01日 13時18分40秒 | Weblog
  執事研修会にあたり

 この研修の目的は、教会を牧師と執事たちが協力して、いかに建て上げていくかということであった。そのために、牧師や執事たちの役割や働きを確認させていただいた。
 教会の雰囲気があらゆる面で良好であることが教会を建て上げていくときの基本的な条件である。暗い雰囲気の教会に人は来るだろうか、いつもピリピリしているような雰囲気のところに人は行くだろうか、安心できないところ、意気消沈しているところ、不親切なところ、退屈なところ、すったもんだばかり発生しているところ、心の平安や慰めがなく、勇気も与えられないところ、安らぎのないところ、そのようなところだとわかっていたら、誰もそのようなところへは行かない。
 知らないで、一度行っても、二度と来ることはないだろう。教会は、イエス・キリストの教会であることをまず、私たちは、心にしっかりと刻んでおくことである。キリストを証しできないような教会であるなら、それは、実に悲しい。
 ある教会員から最近、「教会に行くなら平尾教会と、巷では言っていますよ」と聞いた。これはまた、実に大袈裟なと思ったが、しかし、そのような褒め言葉を私は単純に喜ぶ。それは、私たちの教会に今、好ましい雰囲気があちらこちらにあるからだと思う。
 しかし、もっともっと努力したいし、気をつけなければと反省することもある。まずは、牧師や執事たちが、協力し、率先して、教会生活を誠実に豊かにおくることである。


平良師