平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2009年5月24日 匂いのない生活から

2009年07月28日 23時42分31秒 | Weblog
   匂いのない生活から

 私は匂いには非常に敏感で、逆に妻は、非常に鈍感である。おならをしても、屁えー気づかないなあ、私ではないよ、あなたでしょ、との会話は日常茶飯事である。しかも強烈なものをお見舞いされて、私はへきへきだ。マンションの階段でたばこを吸う人がいて、これも敵わない。香水を体中に撒き散らしているのではないかと思えるほどにたっぷりかける御婦人がいて、階段を通って行ったときにもまたくらくら来てしまうのだ。
 私にとって、香りは、ないことが一番だと思っていた。魚を釣って、それを捌いて、そうするとあの魚の生臭い匂いが体にこびりつくのだが、これさえなければと思う。匂いは、ないことが最高である。お父さん、加齢臭がするよ、などと言われないだろうかと、びくびくしながら娘の横を通ることもある。
 ところが、最近、A姉からアロマティラピーなるものを勧められて、ときどきいろいろなものを嗅ぐようになった。はじめは、例によって花粉症の時期に、鼻水をたらしていたところ、A姉が、これはいいですよと、ティッシュにスースー(ユーカリなのどのいくつかのブレンド品)を振りかけて私にくださった。それを嗅ぐと、不思議に鼻がとおり、気持よくなったのである。
 最近、聖書に出てくる乳香などは、清純な感じがして、落ち着いてくるので気に入っている。実際、そのような効果があるという。博士たちが捧げた乳香、沈薬をイエス様も嗅がれただろうか。


青野師

2009年5月17日 幻・夢をみる(第1話)

2009年07月23日 13時22分03秒 | Weblog
   幻・夢をみる(第1話)

 新しい地での伝道の幻について話し合った。大きく二つの選択肢がある。従来型の教会形成と主にある交流中心の施設である。後者にしたところで、集まって何かをするときには、礼拝を守り、伝道の思いを携えていることには変わりない。また、後者の課題としては、二箇所での活動ということになり、大きな労力を必要とするということである。
 それから、従来型の教会形成をする場合は、それが心おきなく、大胆にできるような環境整備をまずはしなければならない。それを成すことができれば、それこそ、この地では、1週間に幾度かの礼拝を行うこともできるし、幾種類ものプログラムを企画することができるだろう。
 そこで、私たちは考える。何故、この土地を、神様は他の方や団体ではなく、私たち平尾教会に与えられたのだろうか、と。それについての神様の御心は次第に明らかにされることだろう。言えることは、この地での宣教活動をしていくために、平尾教会の群れの存在が必要とされ、我々に伝道の業が託されたということなのである。内容としては、幾つか例示したように、豊かな交わりを通しての伝道を進めるために与えられたという捉え方もできる。
 また、ここ数年、平尾教会は、手狭になった礼拝堂での礼拝をどのようにすべきかを考えてきたが、神様の私たちの思いを遥かに超えた恵みにより、その解決策を今示されているとの考え方もできるだろう。いずれにしろ、御心を求めつつ歩むのみ。


平良師

2009年5月10日 家族、夫婦、神の家族

2009年07月11日 15時38分10秒 | Weblog
    家族、夫婦、神の家族

 夫は92歳で今も現役の漁師をしている。妻は、昨年から夫の身が心配になり、一緒に船に乗り込むことにしたという。しかし、夫が間違って海に落ちても自分には何もできないから、そうなったときは、自分も海に飛び込むしかないという。妻は87歳。日本では最高年齢の夫婦船だ。
 夫も丘に上がれば、今までしたことのなかった買い物を妻と一緒にするようになった。妻が心配だからという。夫婦は、昨年から息子たちに家を譲り、市営のアパートに住んでいる。何の家財道具もない。その春初めてとれた一匹の鰹に舌鼓を打ちながら夕食をとる。鰹の刺身と漬物とごはんだけの慎ましやかな食事である。
 子どもたちは、年齢的なことを考えて、船から下りるように説得するが、父親は、そうなったら自分はすぐにでも死んでしまうだろうから、それはできないと頑固である。今日も夫婦船は漁に出る。5月5日にあったNHKの新日本紀行から。夫婦というのは、長く連れ添えば、良いものだけがその分、残っていくのだろうか。頑固な夫を理解してくれる妻がいれば、その男は幸せだ。破れかぶれの妻を理解してくれる夫がいれば、その女は幸せだ。誤解なきよう、我々夫婦のことではない。
 さて、教会は神の家族である。この家族は、一人ひとりを理解し、一人ひとりに寄り添ってくださるイエス・キリストを仰ぎながら、互いの関係が成り立っている。イエス・キリストにあって互いに愛し合う神の家族をこれからも目指す。


平良師

2009年5月3日 「クロうと(玄人)」(釣考第12話)

2009年07月10日 00時46分30秒 | Weblog
  「クロうと(玄人)」(釣考第12話)

 私は、勉強はどちらかというと嫌い。怠け者に近い。ご存知のように、整理整頓は苦手。そんな者だが、ここは何とかしなければならないとなると、少々は動く。聖書を読む。祈る。勉強もする。人にも聞く。本も読む。観察もする。情報を集める。対策を練る。実行に踏み切る。などと、偉そうなことを言ってゴメンナサイ。

 何のことはない、先日、クロ(メジナ)を26匹も釣り上げて、自分は意外と勤勉家かもしれぬと有頂天になっているだけのこと。この日、例の釣り場で、クロを釣ったのは私だけだった。来たーと魚の引きに合わせるパフォーマンスに多くの羨望のまなざしが寄せられる。この釣り場では、クロは、なかなか釣れない魚。警戒して、針にかかっているエサは食べない。他のまきえは、パクパク食べているのに。糸を細くして、針を小さくすると食べるのである。

 しかし、そうすると、かかったときに糸がすぐに切れてしまう。エサも、まきえと同じものを使わないと食べない。まきえは、小さなアミ。これを針に通すのは、実に面倒なのである。だから、つい、大き目のアミにすると、途端に食べない。それから、他のまきえと同じ速度で針のエサも下ろしていくこと。同調が大事。ここではクロはすぐ目の前にいるので、竿は短め。そうすると、しなりが足りなくなって、竿のコントロールに工夫がいる。諸条件が整って初めて釣り上げられる。

 誰かが私に「よっ!クロうと」とうまいことを言ってくれた。


平良師

2009年4月26日 恵みを数える習慣

2009年07月05日 14時37分31秒 | Weblog
    恵みを数える習慣

 何ごとにおいても恵みを数えることのできる方がいる。パウロは、「万事が益となるように共に働く」神様のお力について述べているから、それでいくと、私たちには、そのときにはとても恵みとは思えない事柄も、いずれ恵みとして数えることができるものになるということだ。つまり、私たちにあるのは、恵みだけなのである。
 2008年度の報告総会が今日行われる。この一年教会に与えられた恵みをあれこれと数えてみる。誰もが無条件で喜べる内容もあれば、そうでないものもあるだろう。しかし、そうでないものも、いずれは恵みと化することを信じよう。
 ちなみに、今日、朝から今に至るまでのことを考えてみる。恵みとおぼしきことは何か。今日もまた、教会に来て、あれこれの仕事をすることができた。伝道のことを教会を超えて考える機会が与えられた。大名における伝道にあれこれと思いを馳せることができた。他者を慰める機会をいただいた。妻の苦言に従ってよい結果を得た。励ましの言葉をいただいた。夕食の差し入れ。クロ大漁を夢で見た。コーヒーがおいしい。ソフトバンクの勝利。恵みと思えないこともあったが、それもいずれ益となるというのだから、数えてみる。
 妻からの罵詈雑言・・ハテ・・不思議と他には思い当たらない、たったこれだけ。そうか、一つが大きすぎて、他の恵みでないと思える事柄が、それほどに感じられないですんだのだ。なるほど、こうしたことで恵みになっている・・。


平良師