平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2009年10月25日 松崎準牧師就任式・按手式とK.T姉のこと

2009年11月26日 23時10分47秒 | Weblog
松崎準牧師就任式・按手式とK.T姉のこと

 札幌教会での特別伝道集会の奉仕の翌日、松崎準牧師の帯広教会牧師就任按手式があり、出席させていただいた。準牧師とT姉、H君が、とても愛されているようすを拝見し、温かい気持ちになった。青野先生が、説教をされ、私が按手の祈りをさせていただいた。
 お父様のA兄が、「帯広教会の皆さんが、すべての力をもって息子を支えてくださっているようすに感動しました」と挨拶されたあと、母君のK姉が、準牧師のことを「この会が終わったら、煮て食おうと焼いて食おうとご自由になさってください」と言ったのには皆驚き、次の瞬間、爆笑が起こった。和やかな喜びのときを共にさせてもらった。
 そのあと、いろいろ回って、京都のK.T姉のところに立ち寄らせていただいた。この日は、私たちが来るというので、娘さんのK姉が、T姉を施設からご自宅に連れて来てくださっていた。私たちのことは忘れておられたが、平尾教会の牧師だとわかるととても喜んでくださった。ご自分が救われたときのことを昨日のことのように何度も語られた。
 そして、私たちのこと、平尾教会のことを力強く祈ってくださった。それから、平尾教会へのメッセージもデジカメに向かって、元気なお声で述べられた。来週に教会の皆さんにもお見せしたいと思う。ご本人は101歳だが、92歳だと思っておられ、K姉の説明にもまたまたと笑って信じようとされない。春の召天者記念礼拝には必ず来たいとのこと。


平良師

2009年10月11日 家族の心を明るくする政治

2009年11月24日 15時36分04秒 | Weblog
   家族の心を明るくする政治

 わが国の内閣が8月の衆議院選挙で、民主党に変わり、少しずつ政治形態が変わってきた。少しでもよい方向に進んでほしいと思うのは、わたしだけではないだろう。

 今の日本で大事な問題は、いくつもある。賃金格差、医療、公衆衛生、年金、教育、食糧、環境、警察、国防、外交、労働、法律、税務、財政その他多岐にわたる。

 以上のことも大切だが、政治がとりあげているのは、目に見えるものにとらわれすぎているように思う。つまり今の状態でもっとも必要なことは、金銭で改善される部分もあるし、それも充分とりあげることが大事なことではあるが、人間一人ひとりが、金銭以外のことでも大切にされなければならないと思う。

 つまり、家庭における家族個々人の交わりが、時間的に少なくなってきて、各自がもっている人生の目的や将来の希望などについて語り合うことが足りない状態と考えられる。教会は、学校以外での交流が多いように見受けられるので、各年齢層での交わりなどが多く催されていることは、大変喜ばしいことと感謝している。平尾教会だけでなく、他教会との交わりも今後益々頻繁に計画されるよう願っている。


松村師

2009年10月4日 夢考、第五話

2009年11月20日 22時51分40秒 | Weblog
     夢考、第五話

 今朝方見た夢は、こんなふうだった。S大学で、何かの講演会があり、私が司会となっている。普通の座席の前に、ブルーシートのようなものが敷かれ、そこには、ごろんとなって聞いている人々がいる。居眠自由というわけだ。
 司会の私は、はじめの挨拶をしたあと、どういうわけか、自分もその前のシートにごろんとなっている。いつの間にか眠っている。途中、休憩を入れることになっていて、自分の仕事をしなきゃと思っているが、誰かが、司会がいないといって代わりの者が休憩に入りますとアナウンスした。それからまたうつらうつらして、そのうち講演が終わった。そのときも、自分の出番だと思いながら、うつらうつらしていたら、そのうちまたもや司会がいないということになり、代わりの者が終りの挨拶をして終わった。
 私は、はっと飛び起きて、ズボンを履いて、マイクの前に立ったら、ほとんどの人々が会場から出て、幾人かの人々の後姿が見えただけだった。それから、スタッフの人々にお詫びの挨拶に回ろうとしたが、誰一人として捕まえることができない。
 それで目が覚めた。妻に話したら、「あなたって、そんな夢ばっかりねえ」、と情けないと言わんばかりだ。どうせ見るなら、もっと信仰的な夢を見たいものだと自分でも思う。例えば、H姉は、生死をさ迷っていたとき、神様におみやげを持って行こうと思って、自分の生前の善行をひっさげて行ったら、何一つ受け取ってもらえなかったという。


平良師

2009年9月20日 鍛錬

2009年11月12日 22時34分32秒 | Weblog
      鍛 錬

 身内の自慢めいた話をするのは多少気が引けるが、私の五歳年上の長兄は72歳を過ぎた今でも虫歯が一本もなく、自分の歯すべてが健在である。そして驚いたことに、兄嫁にもまたまったく虫歯がない。

 私が大学生だった頃、当時80歳近かった母教会の目白ヶ丘バプテスト教会牧師の熊野(ゆや)清樹先生に、先生がとてもきれいな歯をしておられたので「ご自分の歯ですか」とお尋ねしたとき、「そうだよ、自分の歯だよ」と言われて驚いたことがあるが、それは「入れ歯だけど、でも自分のものだ」というジョークであった。兄たちの場合には、生来の「自分の歯」がすべて健康なのである。

 兄弟とは言ってもずっと離れて暮らしてきたので、彼らがどんな生活習慣の中にあるのかまったく知らなかったのだが、数年前に偶然、兄が就寝前に2、30分かけて入念に歯磨きをしているのを目撃して、ああ、立派な歯の存在の背後にはこのような「努力」の積み重ねがあったのだ、と認識させられた。私はと言えば、治療はもちろんしてあるが、虫歯だらけである。最近当教会員のM.N兄(福岡歯科大の先生)のご好意で、徹底した歯のチェックと治療をしていただいたのだが、唯一褒められたのは、私の年齢で親知らずが四本すべて揃っているということであった。ただしそのあとにM先生は、「でも親知らずはあってもなくてもいいものなんですけどね」と笑いながら続けられた。

 先生は、丁寧に毎食後に歯磨きをするように、そして就寝前には小さな「歯間ブラシ」や歯垢(しこう)除去用の特別な糸をも使用して徹底した歯磨きをするように、指導してくださった。そうしておかないと、ある日突然多くの歯が一斉に瓦解してしまうとのことだった。

 9年連続200本安打という大リーグ新記録を達成したイチロー選手の背後にあるという驚くべき日々の「鍛錬」の百分の一でもよいから、歯磨きにおいてのみならずすべての面で私も、「自分のからだを打ちたたいて従わせる」(第一コリント9・27)という「鍛錬」「努力」をなし続けていきたいと思う。


青野師

2009年9月13日 9月は教会学校月間

2009年11月07日 00時15分27秒 | Weblog
    9月は教会学校月間

 日本バプテスト連盟は、9月を教会学校月間としている。バプテスト教会は、教会学校で教会を形成してきた。それは、米南部バプテストがそうであり、その伝統を我々も受け継ぎ、大事にしてきたのである。
 教会学校の役割は、単に、聖書の学びをするだけではない。集まっている方々との交わりのときでもあり、相互牧会的な働きも担っている。各クラスには、プログラム運営をするリーダーと書記がいる。リーダーは、聖書をひもとき、分かち合いの場面をつくる。
 書記は、出席している方々を確認し、しばらく来られない方々にはお便りを出したりして、それぞれの状況を把握し、場合によっては、リーダーや牧師に相談して、教会生活が滞りなく、続けられるように祈り、努める。日本バプテスト連盟教会教育委員会の提案によって、教会学校の目的は次のように設定されている。
 「教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人々が、イエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、生の全領域において主を証しする生活を確立していくことにある」(1971年)。
 私は、小学4年から教会に通うようになり、高1でバプテスマを受けたのだが、教会学校の時間は、いずれのときも楽しみだった。人前で自分の意見を述べるのが、自然とできるようになったのは、教会学校の時間に自由に意見を述べる機会が与えられていたからだと思っている。また、リーダーの先生方との出会いを懐かしく思い出すたびに、育てていただいたと思う。


平良師

2009年9月6日 私たちの立場は変わらない

2009年11月02日 16時59分46秒 | Weblog
   私たちの立場は変わらない

 政権が交代することとなった。立場は、人を変える。これまで、庶民の生活が第一、と謳っていた野党だったが、政権をとった途端に人が変わったということにならなければいいが。
 強者になると弱者の気持ちがわからなくなる。弱者になると、自分よりもさらに弱い方々の立場が、よくわかるようになり、自分の身も顧みず、何とかしてさしあげたいと思うようになる。与党だった党は、これからは生活に苦しんでいる方々の声に耳がもっと向くことだろう。
 ところで、新しい政策を行うための財源を心配している声が多い。それに対しては、重要と考えるところに、お金を回すということだ。それにしても、長くそうした政策をし続けるには、この国にはお金がすでにない。そのような中で、頑張ってと声援を送りつつ見守る人、お手並み拝見と冷ややかに見ている人、様々である。
 ただ、新閣僚はわたしが決めます、といった硬直したものの言い方の中に、権力の座についた者のおごりを早くも見た気がした。信仰者は、その権力が神の御旨に反しない限りにおいて、それに従うという告白を共有している。いかなる権力であれ、それが、聖書の神様が教えているところ、イエス様が教えているところに反することを行おうとするならば、私たちは、NOと声を挙げるのである。
 政教分離原則というのは、国家が宗教に介入してはならないとするもので、信仰者は、常に国家のすることに関心を示す。私たちの立場は変わらない。


平良師