平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2014年12月14日 衆議院選挙の投票日に思う

2014年12月31日 23時28分35秒 | Weblog
衆議院選挙の投票日に思う

 科学の発達は、確実に地球の寿命を縮めている。しかも、この100年は、それまでの時代の何倍という速さで、そうしてきたのではないか。情報化社会は、私たちからゆとりを奪ったとも言える。何もかもが速度を増し、その速さについていけない者がいわゆる負け組となっている。情報の量と速さがお金になる時代である。これらが、社会を加速させる。この時代に生きた私たちの罪は、他のどの時代に生きた人々の罪よりも重いかもしれない。
 私も来年で60歳となるが、この世とのお別れの時も一歩また近づいた。これは、加速された社会の影響もあるのだろうが、60年なんてあっという間だった。残された時間を思うと、記憶から遠くにいた人々の顔が急に思い出されて、一人一人が愛おしく思えてくるのは年とった証拠であろうか。
 そして、私も神様のもとへ行ったときには、お前は何をしていたのだ、と問われるのだろう。「私のようなちっぽけな人間を問うなんて、おかど違いです。権力を握っていた為政者たちをどうぞお問いになってください」。そう言いたいが、おそらく、「嫌々、十分にお前も私の大切な地球を台無しにした一人だ」、と言われそうな気もする。
 今日は、衆議院選挙の投票日だ。平和は、世界が平和であってはじめて、平和と言いうる。情報化時代の良きものがあるとしたら、人々が世界規模で物事を考えるようになったことだ。今度の選挙では、世界の平和を志向する政治家がたくさん誕生することを祈る。


平良師

2014年12月7日 レジェンド以上

2014年12月31日 00時05分59秒 | Weblog
レジェンド以上

 2104年ユーキャン新語・流行語大賞が12月1日に発表され、「集団的自衛権」とお笑いコンビ日本エレキテル連合の「ダメよ~、ダメダメ」の二つが、年間の大賞に選ばれた。私も「ダメよ~、ダメダメ」が、入ると思っていた。あの派手で摩訶不思議なメークのお笑い芸人女性二人組が、「ダメよ~、ダメダメ」と言うのだが、気味が悪いが確かに流行したのではないかと誰もが実感しただろう。
 笑えない流行語は、「集団的自衛権」である。集団的自衛権と二つ選ばれたのが、傑作であった。つなげるとこうなる。「集団的自衛権」は、絶対に「ダメよ~、ダメダメ」。レジェンド(伝説)という言葉もノミネートされていた。火付け役は笠井というジャンプスキー競技の選手だ。そうだ、古からこの名はおぼえ続けられている。ソチの冬季オリンピックでも、銀メダルを獲得した。42歳というから、かれこれ20年以上、選手生活を送ってきたのだろう。
 これだけ長く活躍すれば、伝説にもなる。そのためには、怪我や病気をしないこと、ずっと体を鍛え続けること、注意すべきことはたくさんあっただろうが、とにかく、節制をしなければできないことだ。
 そして、選手生活を続けて、数々の賞を獲得したのはすばらしい。イエス様もある意味では伝説の人になったが、わずか2年ほどの公的なご生涯であった。しかし、このお方は、レジェンドであり、そして2,000年以上たった今もなお現役でおられるからすごい。


平良師

2014年11月30日 宣教師とは-神の宣教を、それぞれの地で担っていく-

2014年12月28日 12時37分08秒 | Weblog
宣教師とは-神の宣教を、それぞれの地で担っていく-

 宣教師とは何でしょうか。宣教師が宣教師であることの中心的な意味は、海外へ赴くことではなく、送り出されることです。派遣されて初めて宣教師となります。クリスチャンは、主日礼拝に参加し、そこからそれぞれの場所へ派遣されるのですから、その意味で皆「宣教師」なのです。神様に礼拝を献げ、そして説教などを通して力を頂きます。そして、教会からこの世へ派遣されていきます。教会は、信徒たちが必要なサポートをします。では、その宣教師の前に「国外」が付くと、何が違ってくるでしょうか。実は、本質的には何も変わりません。
 来年4月から私と妻、薫は「国外」宣教師として、カンボジアへと赴きます。形としては連盟派遣ですが、平尾教会からも派遣されることになります。宣教師と教会の関わりは、基本的には、平尾教会のメンバーと教会の関わりと同じです。少し遠くなるので、直接会える機会は頻繁にはないと思います。
 しかし今は、技術の進歩によりTV電話などですぐに繋がることができます。離れた場所で、1つの礼拝を献げることさえできるのです。平尾教会の皆様が、礼拝から学校や職場、家庭に派遣され、そこでの証しを携えて再び礼拝へと戻ってくるように、私たちもまた、平尾教会から派遣され、そして皆様の祈りを通して力を頂きながら現場で活動し、そしてまた平尾教会へと、カンボジアの証しを携えて戻ってきます。
 私たちと平尾教会は、共に神様の宣教を担う、いわば「チーム」だと思っています。互いにいつも祈り合いながらチームとして協力し、福岡とカンボジアそれぞれの地で、神様の宣教を担っていければと願います。今後もぜひ、皆様の祈りのお支えを、宜しくお願いいたします。


嶋田師

2014年11月23日 I姉の思い出

2014年12月26日 22時09分21秒 | Weblog
I姉の思い出

 I姉は、2002年から平尾教会の礼拝に出席されるようになった。私は、2003年から平尾教会の牧師として招聘され、その務めにあたらせてもらっているが、祈祷会でのことが、懐かしく思い出される。
 私が聖書の解説をしたあと、出席者にその応答をその頃からしてもらっていたが、座席の位置から応答の順番が最初であり、毎回の率直な感想は痛快だった。ときどき、私のことをイエス様の次に思い浮かべると、額を触りながら、この辺かな、と言われたときには、とても面映ゆい気持ちがした。
 施設にお訪ねしたある日、大名の方はいかがですか、うまくいっていますか、と、礼拝には来ることができなくなったけれども、教会のことを考え、愛しているありがたいご高齢の先輩信徒のお姿をそこに見た。戦争中、教員をされていて「ご真影」を抱えて、空襲を避けた話などもお聞きしたことがある。脳梗塞で何度も倒れられたが、その度に、不死鳥のごとくに、立ち上がった。天国を待ち望んでおられ、その場所をいろいろと思い巡らせておられた。「天国に行くことはもうわかっています」、ときっぱりとした言葉を聞いたときには、こちらも爽快な気持ちになった。
 息子さんご夫妻は、もちろんのこと、O姉が、懇ろに訪問されたり、電話をなさっていて、ときどきごようすをうかがい知ることができた。教会の子供たち一人一人をおぼえ、愛し、支えてくださった方でもあった。秋の深まりと共に寂しさが足早にやってきた。


平良 師

2014年11月16日 私たちもまた・・

2014年12月24日 00時28分36秒 | Weblog
私たちもまた・・

 テニスの錦織選手やスケートの羽生選手が、世界的な活躍を見せている。フィギアスケートでは、その年に活躍した上位者たちが競って、最優秀選手を決めるファイナルという大会があることは知っていた。羽生選手の怪我をおしての先日のプレーは多くの人々に感動を引き起こした。
 ファイナルと言えば、テニス界でも同じような大会があり、それに日本人としては初めだという錦織選手が、その資格を得て参加するというので、楽しみにしていた。昨晩の試合はマリー選手と戦って、圧勝だった。それまで一度も勝てなかった相手だった。すばらしい戦いぶりで、日本人として鼻高々であった。
 神様が、天上界でサタンに、ヨブのことを彼ほどの人間はいまい、と称賛を贈ったとき、サタンは、人間が理由もなく神様を拝むでしょうかと、ヨブの打算についてほのめかした。それで、ヨブは、サタンに試されることになった。神様の称賛に与る者は、その真価を問われることになる。ほんとうにそれほどの人間なのか、と。ヨブも弱い人間だった。サタンの誘惑に遭えば、ひとたまりもなかった。彼は、自分の誕生を呪う形で、神様を呪うことをした。
 自分など、生まれてこなければよかった、と。だから、あまり神様から賞賛されるような目立ったまねはしない方がよいのかもしれない。ひっそりとつつましやかに生きていけたら、それでよいのかも。
 しかし、神様に従う人生は、自ずと、少々騒がしいものになるきらいがある。


平良師

2014年11月9日 主より勲章をいただく

2014年12月11日 14時55分43秒 | Weblog
主より勲章をいただく

 秋の叙勲があり、それぞれの方面で、功績のあった方々に国より勲章が贈られた。今朝のテレビを見ていたら、遮断機の下りている踏切に入っていったご高齢の方を助けた一人の女性に勲章が贈られたことを取り上げていた。命がけの行為であるが、助けた方は、おそらくその状況の中では誰もが同じことをしたと思います、と謙虚であられた。こういう方に勲章が贈られるなど、この国も捨てたものではないと思った。
 同時に、人の命を救ったので贈られる勲章もあるのだと思った。国からの叙勲の制度は、推薦をする方々、組織があってのことであり、それを最終的に国が判断して、叙勲を決める。この叙勲の制度については、その根拠について憲法上の問題もあるようだが、現在はさほど議論があるふうでもない。
 ところで、神様の目からするならば、誰もが勲章をもらうに値する人であるかもしれない。人生をずっと通してという人は、少ないかもしれないが、「あなたはあのときよくやった、忍耐した、愛を示した、勇気があった」と、神様は、私たちを見てくださってきている。
 私たちは、誰から評価されたいだろうか。誰から賞をいただきたいだろうか。誰から褒めてもらいたいだろうか。他者からも国からも、自分が所属している会社や学校、団体、組織からもあればうれしい。しかし、私たちの生き方は、神様からのみ見ていただくものであって、そういった意味では誰も見ていない中で行われるのである。


平良 師

2014年11月2日 理由のないことなどない?

2014年12月10日 00時02分37秒 | Weblog
理由のないことなどない?

 野球を見ていて理解できないことがある。それは、ピッチャーの代わるタイミングである。打たれているのに、どうして、代えないのか。逆に、まだまだ大丈夫と思うのだが、どうして代えるのか。野球をよく知っている人は、その理屈がわかっているはずだ。
 しかし、素人には、なぜ、といった疑問がある。同じように、その道では当然のことでも、素人にはわからないことは山ほどあるのだろう。管理釣り場では、それぞれのエリアに、魚がよく集まるポイントがあり、その場所はくじで決めることになっている。だから、急いで受付に行く必要はない。以前は、先着順だったので、船から降りると、我先にと走って受付に行く光景が見られた。私もその先頭をきった一人である。
 ところが、ある時から、くじということになり、多くの人々が戦意を喪失した。どうせ、くじだから慌てる必要はないと。ところが、それもしばらくのことだった。ある時期から、再び皆が走り出したのである。なぜか。それは、くじで、はずれた自由席も、潮と時間帯によって、くじであたった場所よりも釣れることがあるからだ。だから、はずれの席の中でも、よりよい場所を確保するために、以前と変わらず走るようになったのである。
 管理釣り場を運営する側は、再び、走り出した釣り人たちを眺めて、せっかく走らなくても済むようにと、考えてあげたのにとがっかりだそうだ。一匹でも多く釣るために、釣り人たちのあくなき戦いがある。


平良師