平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年4月19日 だれでもキリストのうちにあるなら

2015年04月25日 22時58分20秒 | Weblog
だれでもキリストのうちにあるなら

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二のコリント 5:17)
 春になって桜の花が咲き、死んでいるようにみえた木が新たに葉っぱが生えて、この時季にキリストの復活祭も祝います。
 これからはいのちの季節になります。キリストに信仰をおいて私たちも新しくされます。これは格好や見た目のことではなく心のトランスフォーメーションです。年をとれば体が衰えますが、キリストに頼るといつも心が若返ることが出来ます。ハレルヤ! それによりすべてが変わります!この世の視点や生活や優先順位が新しくされます。
 私たちのいのちはキリストと結び、彼は私たちの新しい源です。必要なすべてのものを与えてくださいます。これからの生活もゆだねることができます。本当のいのちへ導きます。その中で試練があっても力と知恵を与えられることでしょう!
 この季節に私たちの新しい人生を考えて感謝しましょう。そのためにキリストが十字架にかけられました。そして復活の力を見せてくれました。これこそが本当の福音でしょう。


S.バレット師

2015年4月12日 石河姉、高木姉のこと

2015年04月19日 22時52分23秒 | Weblog
石河姉、高木姉のこと

 石河裕子姉は、昨年の11月17日に天に召された。私が招聘される前の年の2002年頃から当教会に来られるようになり、息子さんご夫妻以外では、西南女学院教員時代の教え子のO姉が、ここ数年はよくお見舞いをされ、何かとお世話されていた。
 懐かしいのは、祈祷会のときに、一言感想や意見を述べる時間があって、石河姉のいつも座る座席の位置が最初なものだから、彼女からの発言になるのだが、額のあたりに手をおやりになって、ここらあたりに何かある、天国の前にもう一つ別の世界があるように思える、と言われていたことだ。
 ユーモアもあり、私たちを喜ばせてくだることも多かった。幾度か倒れたが、その都度、回復を遂げられ、お見舞いに行くと、歩行器から手を離して歩いて見せ、ほら!とおどけるなど、少々ちゃめっけのある方だった。しかし、ときどき真剣な表情になって、「大名はどうですか」と聞かれた。また、「お祈りをお願いしますね」と私が言うと、「いつも祈っています」と力強い返事が返ってくるのだった。
 また、昨年の6月20日には、高木通子姉が天に召された。ホスピスで、共に讃美をし、お祈りをさせていだいた。最後まで、穏かな日々を高木兄をはじめお子様たちと過ごされた。共同保育の子どもたちをジャガイモの収穫に招いてくださり、蒸かしたジャガイモや畑の野菜のサラダなどをご馳走してくださった。石河姉も高木姉も、お見舞いに行くと励まされるのはこちらだった。


平良 師

石河姉、高木姉は故人ですので、名前をそのまま記載してます。

2015年4月5日 バプテスト派の礼拝スタイル

2015年04月19日 22時36分11秒 | Weblog
バプテスト派の礼拝スタイル

 バプテスト派の礼拝スタイルを強いて言えば、教会ごとに違うというのが正直なところだろう。これが正統で、これは間違いであるとかは、おそらくない。否、そういうことを主張しないのである。画一性を主張しない。また、どのように神様を讃え、礼拝するかということも、自由であるべきだと主張してきたのではないだろうか。
 連盟のある教会は、伝統的形式に則った礼拝を行い、ある教会は福音派の教会で見られるように手拍子をしたり、手を挙げたりしているのであり、また、ある教会は、讃美を中心にした礼拝を行っている。福岡にあるバプテストの教会でも細かに見ると、さまざまである。時代と共に変化してきたと言える。
 そういった意味では、私たちの教会も、平尾の礼拝と大名の礼拝では、その礼拝スタイルは既に違う。何を重視するがゆえに、このような形を行っているかである。その意味付けが重要であろう。礼拝に集っている人々がどのような人々であるのか、或いはどのような人々を対象にしているのか、集ってくる人々の年齢の問題、また教会が位置する地域性によっても、その礼拝スタイルは変わってくるだろう。
 私たちの教会は3つの礼拝スタイルを持とうとしている。おそらく、いずれの礼拝も教会形成や伝道と無関係でない。これまでもこの礼拝スタイルこそが、バプテストであるということはなかったし、今もそのようなものはない。これからも、そういうことにはならないだろう。


平良 師

2015年3月29日 教会のアーモンドの花

2015年04月05日 23時20分28秒 | Weblog
教会のアーモンドの花

 最初見たときには、この桜は、咲くのが他の桜よりも早く、しかも、なんと大きな花をつけているのだろうと、思った。後に、これが、アーモンドの花だと知った。今、そのアーモンドが満開を迎えている。アーモンドと聞いて、「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンドの枝が見えます。』主はわたしに言われた。『あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。』」というエレミヤの召命の箇所を思い起こす人は多いだろう。
 TK君が、東京の大学にこの春合格して、福岡を離れることとなった。このアーモンドの木は、ご両親が、TK君が生まれたときに、記念としてこの前庭に植えたものだそうだ。年々この木は成長して、多くの花をつけ、アーモンドの実をつけている。TK君は、自分がこれから成そうとしていることに強い意欲をもっている。歴史を学びたいということだ。
 過去を学ぶことは、現在、そして未来が見えてくる。イスラエルの人々は、アーモンドの花が咲くと、春がすぐ近くまでやってきたことを理解した。そのように、預言者エレミヤは、先を読む力を神様からいただいた。TK君は世界史を学びたいという。歴史を学び続け、これからの日本のキリスト教がどのようになるのか、否、なっていくのが望ましいのか、いつの日か語り合えるときがくるのを待っている。
 日本の桜よりアーモンドの花が先だと、心得ておきたい。


平良 師