平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年6月21日 二つの悲しみ

2015年06月28日 23時00分03秒 | Weblog
二つの悲しみ

 悲しみには、「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」があることをパウロは、コリントの信徒への手紙二の7章10節で述べている。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。世の悲しみのなかにも、悔い改めを生じさせるものは、たくさんあるように思う。
 しかし、それは、悔い改めというよりも後悔に近い感情ではないだろうか。悔い改めというのは、最後には神様に対して生まれる感情であって、はじめは人に向かって動いても、それで完結するものではない。悔い改めは、最後には、神様に行きつくものではないか。世の悲しみは、後悔ばかりで終わってしまう。そして、そのような世の悲しみは、遂には死をもたらすことになるという。世の悲しみは、後悔から始まって、喪失感とか、無力感とか、絶望感とか、それらに近いものを伴って、そこ止りとなってしまう。
 信仰する者にとって、絶望で事柄が終わらないのは、つまり、死ですべてが終わらないのは、和解があり、復活があるからだろう。例えば、私たちが人と和解をなしえなければ、そこで生じた悲しみも終わることはない。そういった意味では、人は多くの悲しみを抱えながら生きている。また、死ですべてが終わっているのなら、私たちの気持ちの行場はないことになる。和解と復活の対象の第一は神様であるが、次に、私たち人間の関係であることを意識したいものだ。


平良 師

2015年6月14日 喜びを深める

2015年06月23日 22時00分15秒 | Weblog
喜びを深める

 平尾バプテスト教会大名クロスガーデンの第二礼拝の呼び名であるJOYSHIPという言葉は造語であり、主にある喜び(JOY)の関係(SHIP)を築き、深めていこうというところから始まった。2014年1月から日曜日の昼に礼拝を持つことが出来るようになり、当初15名程だったが、現在35-50名ほどが礼拝に集うようになった。
 ここには、「礼拝者として生きる」ことが信仰生活の中心に据えられ、そこから神の家族となる交わり(Fellowship)、信仰の成長(Discipleship)、仕え合う事(Partnership)を通して神様が与えられたそれぞれの人生の使命(Mission)に生きることを目標としている。
 私は与えられた賜物を用いて使える奉仕(Ministry)という言葉をこれまで大切にしてきたが、最近サマリア人のたとえの中での「隣人になっていく」という事を考えさせられている。隣人が倒れている状況に出くわして、サマリア人が時間や、労力や、財産までも差し出して倒れている人の隣人となった、そこに持てるものを用いて、あるいは忍耐して他者に仕える奉仕(・・)の(・)精神(・・)という事を発見した。
 そこは人種を超え、身分を超えて、愛の関係が築かれる。私たちの日常には様々な必要があり、奉仕もそこにあるが、奉仕そのものというよりも、そこで出会わされる隣人との出会いを通して、隣人になっていく、その喜びを深めたい。なぜならば、倒れていた私を介抱し、宿屋に連れて行ってくれたその人こそイエス・キリストであったのだから。


森 師

2015年5月31日 救いに至る道

2015年06月11日 12時38分40秒 | Weblog
救いに至る道

 神様にどのようなお考えがあるので、このようなことが起こったのか、信仰する者なら、誰もが考えることだ。目に見えてきたことを通して、その背後にある神様の御旨を推し量るのである。
 しかし、問題は、この目に見えている部分をどう理解するかなのである。同じ物を見ていながら、そこに神様のご栄光を見る人もいれば、そうでない人もいる。見えない物を見る、そこに信仰者としての醍醐味もあるはずだ。
 この2 ヶ月、使徒言行録から説教をさせてもらったが、私が、特に今回気付かされたことは、パウロが、イエス・キリストをとおしての福音について、「説明」したり、「説得」する場面が多いということだ。「説明」とか「説得」、「証し」という言葉が多く用いられていると感じた。
 見えないものを理解してもらうために説明したり、説得することは、至難の業であるが大事なのである。不思議なことに、その時、すべての人が受け入れないということはなく、すべての人が、受け入れる、理解、納得することもない。ある人は受け入れ、ある人々は受け入れないという状況が発生する。
 だから、すべての人々に救いの御手は差し伸べられているとは言っても、やはり、それに与ることのできる人もおれば、そうできない人もいるのである。それは、最終的に本人の選びの問題であり、責任はその人にある。しかし、福音を聞く機会がなかったという人もいるから、救いは神様の選びだといったことも言われるのである。


平良 師