平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2017年10月15日 格差社会に泣く人々にも

2017年10月22日 14時16分08秒 | Weblog
格差社会に泣く人々にも

 ぶどう園のたとえ話では、朝6時から働いた男と、午後の涼しくなった5時から1時間だけ働いた男とが、同じ賃金だったという。その日の仕事が終わり、賃金を払うときとなり、夕方の1時間しか働かなった男から賃金が支払われ、いよいよ朝の6時から働いた男の番となった。彼は、当然、この夕方5時からの男よりも数倍の賃金をもらえるものと期待した。
 ところが、彼も同じく1デナリオンだった。朝の6時から働くことのできた人は、屈強な体に恵まれた人だったのではないか。そして、夕方5時からの男は、体力にも恵まれず、見るからに弱そうな人だったのだろう。彼は、それまで誰も自分を雇ってくれなかったという。11時間もの間、彼は、落胆と不安な時を過ごさねばならなかった。
 今の日本社会は、経済的には上向いているらしい。多くの人々に実感がないのは、給与はさして上がっていないからだ。大企業、一部の企業、株の運用がうまくいっている人々などは、儲かっているが、それ以外は大したことはないという。
 富や能力に恵まれている人々は、それなりに裕福となるが、それ以外の人々は富のおこぼれに少しでも与れることができたらと卑屈な面持ちだ。このお話は、格差社会に泣いている者たちにも、同じ賃金が支払われたという話として考えることができる。神様は、どのような者にも、同一賃金を支払いたいと願われている。体も能力もすべては神様の恵みとして与えられた。だから報酬も同じ。


平良牧師

2017年10月8日 統計的なお話し

2017年10月22日 14時06分46秒 | Weblog
統計的なお話し

 統計的には、日本のリベラル派は3割で、あとは保守派だそうだ。そんな話をあるテレビ番組で誰かが言っていた。また、10人いたら、自分を好意的に見ない人が3人はいるそうだ。そうだとすれば、あまり、深刻にならなくても済むかもしれない。多くの者から好意を寄せられるあなたにも、あなたを嫌いな人が3人はいると思えば、意味もなく自分を敵視する人がいたとしても、許せるのではないか。また、戦後のほとんどの時代を現与党が政権を握ってきたとしても、リベラル派は3割だと考えると、世の中、こんなものなんだろうなあと諦めもつくかもしれない。
 統計的には、何十年ごとにこの地域で地震が起こっていることもわかる。それで、そろそろ厳重な警戒と入念な準備をしておかなければならない、ということになる。そのことと、私たちの信仰者としての立ち位置はどのようにあらねばならないのかと、ふと思う。統計上のデータは、これくらいで我慢したり、また、逆に、希望を失わないで戦ったりという一つの指針を教えているが、信仰に立つ私たちは、神様のされる業が一方においてあるのだから、こうした数字を最終的には気にせず、ことにあたる。
 一般社会では、こうした統計的なデータに沿って、力加減を調整している。もちろん、私たちも主からの知恵の一つとして、統計上のデータを宣教に用いることは許されるであろう。しかし、あくまでも、御心を祈り、決断することを優先するのである。


平良 師

2017年10月1日 名人と言われて、その気になって・・

2017年10月22日 14時02分41秒 | Weblog
名人と言われて、その気になって・・

 先日のこと、例によっていつもの所で鯛を釣っていた。この日は、祝日とあって、子供連れの親子が多く、それで放流も多かったのだろう、よく釣れた。
 すると、隣にいた小学校の3、4年生くらいの男児が、私を見て、このおじさんはどうしてこんなに釣れるのと職員に聞いていた。職員は、このおじさんは名人なんだよ、と言った。それから、この子は、私に名人、名人とやたらと親しげに、「名人、どうしてそんなに釣れるのですか」、と聞いてきた。私は、「ここにおじさんはよく来てるから、どうしたら釣れるか、皆よりも少しわかっているからかなあ~」と、ちょっと、名人と言われて、照れくさそうに答えた。
 そして、私は、「おじさんなんかより、隣のおじさんの方がすごいよ、シマアジを二匹も釣っているでしょ!」と言った。この子は、「否、おじさんの方がすごいと思います。鯛を10匹釣っているんだから」。そして、続けて言った。「おじさん、そんなに釣っているのだから、ぼくたちにもおすそ分けをお願いします」。なんて賢い子なのだろう。私は、この子に鯛を二匹あげた。そうしたら、「向こうの子にもお願いします」と言ってきたから、そうだね、それじゃあと一匹あげた。
 私は、次第に恥ずかしくなってきた。私は、この子供たちの分まで釣っているのだろうなあ。最終的にこの日の釣果は18匹だった。終わってから、職員が「困りますねえ、人にあげるほど釣っちゃいけませんよ」と苦笑しながら言った。


平良 師

2017年9月24日 本の紹介

2017年10月22日 13時58分25秒 | Weblog
本の紹介

 「憎しみつづける苦しみから人生を取り戻した人々の物語」という本を紹介したい。これはヨハン・クリストファー・アーノルドが書いた「赦し」に関する人々の物語を綴った証し集です。筆者ヨハンはブルーダーホフ(兄弟の場所の意)という国際的なキリスト教運動に属しており、質素、共同体生活、非暴力という生き方を実践するグループにいます。
 1920年のドイツの学者エバーハード・アーノルドによって設立されましたが、伝統的にはヨーロッパにおけるアナバプテストやピューリタンの伝統を受け継ぐ団体です。初代教会の様に個人の持ち物を放棄し、全てのものを分かち合います。本の中では人々に起きる様々な悲劇に対して、いかにキリストを信じる者たちが赦しを実践していったのかを記しますが、いわゆるハウツー本ではなく、「赦されている」から「赦す」という決断に立った人たちの物語です。
 わたしはこれらの「赦し」は世界に、そして日本に、今とても必要とされている事柄ではないかと感じています。人種関係や宗教観は差別によって大きな壁を作り、互いが互いへの怒りを招いています。無関心と不理解があり、あおられるのは恐怖だけです。アメリカでも、日本でもそうです。
 そのよう中で神に赦されたものとして、赦しを実践するとは、悲嘆に留まって気持ちを中へと留まらせるのではなく、むしろその悲嘆を神が最善のものへと導いて下さることを信じて、神や人との関わりに開かれていく事です。そんな時代の中で、公開された映画アメージングジャーニーは「赦し」とは何であるのかを世界に共に考えてもらいたいという一石であると感じました。主よ、わたしたちがあなたの赦しとなる事が出来ますように。


森 師

2017年9月17日 こだわりつつも前へ

2017年10月22日 13時54分04秒 | Weblog
こだわりつつも前へ

 私たちは、それぞれにこだわるポイントを持っている。そこに触れると、つい反応をしてしまうのである。こだわることが悪いのではない。私もそれはある。そうしたこだわりは、その人がそれまで大切にしてきたものである。
 そのこだわりの多くは、その人の喜びの経験、苦い経験による個人史のなかで醸成され、確信にまで至っている。だから、なかには客観性を問われても理解してもらえないものもあるだろう。しかし、そのこだわり故に、周りが気づかされたり、ときには悔い改めにまで導かれることがある。
 ただし、ときには、その大切にしているこだわりを放棄しなければならないこともある。そして、それはたいへん不安を伴うものとなる。例えば、お金にこそ、すべてを決する 力があるといったこだわりを持っている人は、そのこだわりから解放されると、人の心を信じる領域が増えることになるだろう。徴税人ザアカイの場合は、イエス様が、金の代わりに信じられる対象として、彼の心のうちを占めてくれたのが最大の要因となった。そのことで、彼は、人を愛したり信じることができるようになった。
 多くの人々と共に生きていくときには、そのこだわりを放棄しなければ一緒に歩めないということも起こる。教会はミッションステートメントを実現していくために、いろいろなことを今検討しているが、一人のこだわりを大切にしつつ、前に進むためにはどうすればいいのかも考えることが求められている。


平良 師

2017年9月10日 逃れの道が備えられることを祈ろう

2017年10月22日 13時48分31秒 | Weblog
逃れの道が備えられることを祈ろう

 K国が、水爆実験に成功したというニュースだ。多くの国民が餓死しているという状況の中で、この国の指導者は何を考えているのだろう。結局は独裁政治を維持するためにしていることだろうが、世界中の人々が恐怖に陥れられている。
 困ったと思うのは、いくら平和を求め非戦を訴えても、このような報道が毎日のように流されると、人々は、それに対応する手立てを考え始めることだ。憲法9条で、自分たちの命は守られるのか、と心配し始める。「戦力を保持せよ」、「国の交戦権を認めよ」、そうなることを恐れる。さらに、K国のこうした出方を見て、多くの国々が核を保有しさえすれば同等の立場で物が言えるようになるなどと判断すれば、これこそ恐ろしい世界の到来だ。
 日本に核の保有を声高に言う人々も増えてきた。最初は、北の若大将といった感じだったが、今は何をしでかすかわからない、笑ってばかりもいられない専制君主になった。しかし、神様はこうした人物を用いられて、私たちに真実に平和に生きる道を選び取るのか、それとも人類の消滅を自ら招く道を選ぶのかを選択させようとなさっているのかもしれない。
 今の時代は、地球環境の問題、平和の問題など、かつてないほどの危機的状況である。人間の多くの罪が生み出している所業だ。悔い改めが求められている。今こそ、主に祈り、世界の英知を集めて、平和のうちに解決できる道を真実に考えなければ。


平良 師

2017年9月3日 教会はいろいろある

2017年10月22日 13時41分39秒 | Weblog
教会はいろいろある

 自分たちの教会がどのような教会なのかを、自分たちで決めることができるのがバプテストである。しかし、イエス様が言われたように、イエス様が土台の石、要石であって、それを取り除くことはできない。また、キリストの体を構成している教会員一人一人の頭は、イエス様なのであって、それを取り除くこともまたできない。
 ある教派は、救われた者として、聖なる生活をすることを心がける。ある教派は、聖霊の働きにとことん身を委ねようとする。また、ある教派は、悔い改めることを強く求められる。そして、ある教派は、祈りを信仰の中心と位置付けて、多くの時間を祈りにあてる。ある教派は、教会の運営面で、牧師の意向が教会運営に対して決定権をもっている。
 バプテスト派は、いろいろである。祈りを大切にしている教会、聖なる生活に重きをおいている教会、聖霊の働きを一番に考えている教会。そうすると何をもってバプテスト派というのか。教理的なことは大方同じだが、いくつか大切にしている主義や特徴がある。その一つは、聖書主義である。聖書だけを唯一の信仰の基盤とする。
 また、信仰告白をした者にのみ浸礼をほどこすといったことや教会運営が民主的に行われている点である。バプテストは、すべてのことをできるだけすべてで考えていく教派であるから、何事も時間がかかるし、段階を踏まえつつ、積み上げていくことの成熟さが必要である。


平良 師