平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年8月3日 家族に囲まれて

2008年08月26日 18時50分58秒 | Weblog
      家族に囲まれて

 7月27日の夜の11時頃に阿部康子姉が、天に召された。彼女は、自分が召されたときにはと、いくつかのことを言い残していかれた。葬儀はたくさんの賛美歌を歌って欲しい。中身はこれこれの賛美歌で、最後はハレルヤコーラス。死ぬまで自分を貫いた人だった。
 献体は規定に合わず適わなかった。調子のいいときには、車いすではあったが、毎日でも天神にでかけた。そこには、行きなれた店々があり、馴染みの店員がいて、彼らとしばらく話すことも楽しみだったようだ。
 彼女のご実家は、当時は天神の有名なカメラ屋さんだった。天神はかつて慣れ親しんだなつかしい場所だった。彼女の若い時を知る人は、あるときまで歩行もできており、話し方も今よりも鮮明だったという。
 私は月に一度、昨年から銀行にお金を下ろしに行く手伝いをするようになり、2回に1度は、高宮の駅ビル1階の喫茶店で、コーヒーを一緒に飲んだ。これは日頃、阿部さんとゆっくりと話す機会のない私にとって、いい時間だった。内容の多くは、世相について。日本はヘルパーさんが不足しており、近いうちにインドネシアから若い人々を受け入れるという話も彼女から聞いた。
 彼女と喧嘩をした人も多い。彼女いわく、喧嘩は家族の一員となった証拠。してみると、彼女には多くの家族がいた。私もその一人に加えられた。また神の家族の教会員一人ひとりにとって、彼女の苦しみや喜びを時に共有できたことは今喜びになっているに違いない。


平良師

2008年7月27日 今は悪い時代なのです

2008年08月20日 22時44分21秒 | Weblog
  今は悪い時代なのです(エフェソ5章16、17節)

 毎日の新聞やテレビを見ていると、日本の国内にしても、全世界のいろいろなところで発生している事件が、あまりにも多く、またその性質が、険悪であることに驚かされる。
 エフェソの信徒への手紙5章16節に書いてあることの内容は詳しくはわからないが、これらが書かれた約2000年前の時代と現代とで類似の現象が起こっていることは事実であろうと推測される。
 人類の歴史には実にこのような出来事が、数多く起こっていたと考えられる。それらの犯罪の種類の夫々の背景、原因などは多種多様であろうが、これらを減少、抑制することはできないものかと考えるのは、筆者一人では決してないであろう。
 人間は、いろんな環境で育ち、教育を受け社会の中で成長するが、生後初めて接する親子の人間関係が、極めて大きな影響を与える。戦後日本では、物質の欠乏状態を克服することに、国民は非常な苦労を重ねて、10~20年の努力(アメリカの援助もかなりあったが)の結果、少しずつ全国民の栄養状態は良好になっていった。その後の10~20年、すなわち戦後の30~40年間で(神武景気)、肉体の栄養状態は世界のトップクラスになったが、肝心の霊性の豊かさが御座なりになった。
 そのため、われわれ日本人はいつの間にか魂の抜けた、腑抜け人間に陥ってしまったように思われる。
 目には見えないが、創造主なる神の存在を忘れ、神の前にへりくだることが、人間にとって最も大切なことが、わからなくなってしまった。わたしたちは、いつも主に向かって心から讃美し、主のみこころがなんであるかを悟るようにしたい。


松村師

2008年7月20日 神様の委託に応える時代到来

2008年08月17日 12時25分31秒 | Weblog
   神様の委託に応える時代到来

 神様は我々人間にこの地球の管理を任せられた。資源は枯渇しても、動植物は循環がうまく行けば保てる。魚は獲れるときに山ほど獲ってきたから、激減した。魚群探知機のようなものが精巧になってからは、確実にそれこそ一網打尽で魚が獲れるようになった。漁獲高が割り当てられていても、それに達するまで、我先にと競って漁をしてきた。
 幾つかの種類は、養殖で賄えるようになったとは言え、それでも味は天然の魚には及ばない。年々、いろいろな種類の漁獲高が下がってきている。おまけに、このところの和食の世界的なブームである。魚の消費量も増えた。近海魚が食卓から消える日も間近と言われている。釣り人たちも、リリースなどと暢気なことを言っている時代は終わり、皆、まさに血眼で漁をしているといった風景があちこちで見られるようになるのではないか。
 燃料の高騰により、採算が合わないというので、休漁を余儀なくされている漁師たち。売れ残った魚は、飼料になるものもあれば、廃棄処分されるものもある。スーパーに夜遅くでかけたりすると、そこには5000円くらいの高級魚をはじめ売れ残っている魚が随分とある。
 これからは、消費する分(予約や注文)だけ魚を獲り、もし残っても確実に有効利用する、そうならないものか。そうすれば、少量の魚がすべて無駄にならず、漁の回数も減り、魚の生息量も減らない。漁業、農業、林業など、本気で、神様の委託に応える時代が到来している。


平良師

2008年7月13日 平和は身近なところから

2008年08月14日 11時05分23秒 | Weblog
   平和は身近なところから

 8月10日の「平和の日の礼拝」の中で、私たちは、今年、平尾バプテスト教会平和宣言2008を読み上げる。2008だから、また、何年か後に宣言文を作るということになろう。時代によって、平和の中身は若干変わる。今は、温暖化をストップさせることが、平和構築の最大の関心事だ。

 今、温暖化によって一番困っているのはアフリカの人々である。旱魃で井戸は枯れ、作物も育たない。穀物の値段は高騰して庶民に行き渡らず、飢死する子どもたちも多い。排ガスの2%がアフリカで、40%がG8の国々というから、その責任は大きい。その日本も大型台風、集中豪雨、それに伴う洪水に、アメリカは竜巻、ハリケーンで苦しめられている。

 極地の氷は解け出し、水没する島々もある。また、それに追い討ちをかけるように、アフリカのあちこちの国々では、内紛によって多くの人々が難民となり、厳しい生活を強いられている。世界的な物価高騰で人々の生活は苦しい。

 日本社会に目を移すと、連日の家族殺し、強盗、殺人、放火、のニュースである。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)。

 しかし、平和の実現は、すぐ近くからだ。それなしには、大きく遠い平和を実現することはできない。

 私自身は、室内の冷房温度を3度上げ、釣りも減らし、体重は1キロ落とした。妻は徹底している。この2ケ月で体重を7キロ減らし、食器洗いの湯量を減らし、風呂にも入らない。省エネか。


平良師

2008年7月6日 ヴィジョンは

2008年08月11日 22時39分10秒 | Weblog
      ヴィジョンは

 ヴィジョンは、目の前に現れてくる課題を解決していくこともそうだと言えるし、3年先の夢もまたヴィジョンである。10年先というちょっと遠い将来の夢もまたヴィジョンである。そして、それらは神様が示されるものである。
 私たちはこれから、どのような教会を目指そうというのか。幼子や若者たちの多い教会なのか。ご高齢の方々へ配慮に満ちた教会。社会的弱者への支援に取り組む教会。家族関係はじめ人間関係について提言できる教会。海外から来ている人々ともシステム的に礼拝できる教会。さらに規模の大きな教会。スモールグループによる教会。開拓伝道の夢。支援を求めている教会とパートナーシップを結ぶ。
 いろいろである。どのようなヴィジョンを神様は私たちに与えようとされているのか。とりあえずは、今、目の前にある課題に対して考えなければならない。礼拝の回数、多目的ルームの拡張、ご高齢の方々への送迎のことなど。3年先はどうなるのだろうか。
 10年先の平尾教会をどのように夢に描くのだろうか。否、どのようなヴィジョンをいただけるのだろうか。あとどれくらいで、群れに対する器の限界が来るのだろうか。あっという間にそのときは来ると考える人もいれば、5年という人もいる。逆に、今がピークではと、これからを心配している方もいよう。
 それぞれにそう予想する根拠があるのである。ヴィジョンは、未来をどう読むかということと、主に託すということとの中から生まれる。


平良師

2008年6月29日 神学校献金について

2008年08月06日 22時44分21秒 | Weblog
    神学校献金について

 全国壮年会連合が中心になって推進してくださっている西南学院大学神学部の神学生の奨学金のための神学校献金を、わが平尾教会がほんとうに熱心に捧げてくださっていることに対して、神学部関係者として、私は深く感謝している。
 いつの頃からか平尾教会では、六月末の神学校週間における献金のみではなく、年間を通じてこの神学校献金を覚えるようになり、かなりの方々が毎月定期的にそのための献金をしてくださっている。そしてまさに年間を通じて献金するというこの意識こそ、決してそんなに大きな教会であるわけではない平尾教会を、ここ20年以上もの間、その献金額において常に全国のトップファイヴの中に位置せしめてきた要因であることは明らかである。
 このような意識については、亡くなった小野保兄がかつて小倉における全国壮年大会の中で証ししてくださったことがあるし、B兄やO兄も、壮年会連合の機関紙に文章を書いてくださっている。そして私もまた、三年前の全国壮年大会ではそれについて、「一度に一万円の献金をするのはかなり大変なことだけれど、毎月千円の献金を一年間するのはそんなに大変なことではない」とアピールさせていただき、その後もその時のことについて、西南神学部学生会の機関紙『道』に書かせていただいた。
 西南学院教会のようにこの方法をわが平尾教会から学ばれて、現在では全国でダントツでトップの献金をされているような教会もあるので、きっとこうしたアピールをたくさんの人が聞いてくださり、神学校献金もきっと大きな伸びを見せてくれるにちがいない、と私は大いに期待した。しかし、結果はまったく逆で、その年の献金額は、前年をわずかだが下回るものでしかなかった。もちろん私は大いにがっかりしたが、しかし同時に、教会におけるわざというものは、こうした類のもの以外ではないのだということをも、そこでしっかりと学ばせていただいた。
 つまり教会のわざにおいては、目立たなくてもこつこつと、たとえ少数でもそれに気づかされた者が、倦まず撓まず(うまずたゆまず)、静かに黙々と、継続してそれを担っていくことしかできないのだ、と。神学校献金においてのみならず、すべての奉仕においてそのことを意識していきたいものだ、と思わされている。

2008年6月22日 死刑制度と平和

2008年08月05日 23時00分13秒 | Weblog
    死刑制度と平和

 今の法務大臣になって、死刑執行の数が増えている。これまでの法務大臣とは違う。法制度に則り、粛々とやらせていただく、という。慎重に慎重を重ねて行っているともいう。
 キリスト者の立場で、死刑制度を考えるとどうなるか。イエス様の教えではそれはノーだ。なぜなら、汝の敵を赦せと言われるイエス様は、報復を固く戒められている。神の与えられた命を奪うことはいかなる場合にも許されていないと理解する。被害者のご遺族の痛みを思うと死刑もやむなしと私たちは言いたくなるのである。
 しかし、現法務大臣は、合法的なやり方で、凶悪な殺人を犯しているという人もいる。疎外され、傷つけられたからといって、いとも簡単に人を殺す加害者、これも異常な社会である。そして、そうやって殺人を犯した者に対して、これまた簡単に死刑だ、死刑だと叫び、粛々と実施させていただくという社会も異常である。
 今日、佐々木和之さんのルワンダの平和構築運動の報告を聞いた。ルワンダではジェノサイトで国民の1割の人々が犠牲になった。政府によって恐怖を煽られ虐殺をしたフツ族と被害者になったツチ族の人々の和解のためのプログラムを作って、それを実施しておられる。深い傷をどのように癒やしていくのか、多くの問題が横たわり簡単ではなさそうだ。
 しかし、人が深い傷を癒やすためには、和解と赦しが必要であることは確かなようだ。殺人者には死刑をで、ほんとうの解決がなされるのだろうか。


平良師

2008年6月15日 悲しむべき事件から

2008年08月04日 22時54分55秒 | Weblog
    悲しむべき事件から

 先日、多くの人を殺傷する事件が起きた。派遣会社に勤めていて、近いうちに解雇されるのではないか、といった不安の中にあったという。中学生くらいまでは優等生だったというが、それ以降は自分は落ち目となり、負け組という意識を持っていたらしい。だからといって、多くの人々を殺傷するなどということが、許されるはずはない。
 近頃のこうした、ある意味では、自分の不遇を嘆き、それを他者への憎悪に転嫁する事件をどう考えたらいいのだろう。彼には友人がいなかった。一方において、こうした人間の不安や孤独の問題をスピリチュアリティーという占いまがいのことによって、いわゆる「癒し」を得ようとする人々が増えているともいう。
 今や、スピリチュアリティー業界は大繁盛だ。管理職にある孤独な人たちも、随分多くヒーリングとか言われるカウンセリング的占いに訪れる。それに乗じて、悪どい霊感商法なるものも横行している。
 日本社会がとても不安定になっているのだ。労働者、年金暮らしをしている人、学生たちが、明るい未来を描けないでいる。こうした事件が何と多いことか。
 今日は、参議院で首相の問責決議案が可決された。揺れる日本、揺れる日本人の心である。安心できるものを手にしたいと思う。キリストにある信仰により、感じる不安や苦しみを私たちは何とか乗り越えていける。癒しもありがたいが、主のくださる苦しむことのできる能力こそが今の時代にはむしろ必要だ。


平良師

2008年6月8日 ようこそ平尾バプテスト教会へ

2008年08月03日 14時04分24秒 | Weblog
  ようこそ平尾バプテスト教会へ

 本日は、平尾教会のキリスト教特別集会へようこそお越しくださいました。心から歓迎致します。キリスト者の自己紹介を致します。
 先週あるテレビ番組を見ておりましたら、鶴見俊輔さん(小田実などと「ベ平連」を結成、哲学者)が、こんな内容のことを言っておりました。「一番はつまらない。一番になろうとするのは、世俗の価値観に屈することなのだ」。なるほどと思いながら聞いておりました。
 彼は、哲学者ですから「自分の中のつぶやきに耳をかしなさい。それにこだわり続けなさい」と教えてもいました。つまり、容易に世の価値観に流され、真理から目を背けるようなことをしないように、ということなのでしょう。
 ところで、聖書の中で、イエス様は、ご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。パウロは、イエス様にある真理を得ようとして走りぬけ、そして、神様からの賞を得るように努めよ、と奨めています。
 パウロのそのような教えは、聖書の示す価値観をもって生きるようにとのことなのです。信仰は、人間を拘束したり、不自由にするのではないか、と考える方は多いと思います。時に、そのような宗教もあります。しかし、神様は、イエス・キリストを十字架におつけになって、私たちの罪を赦され、真実の愛を示されました。
 これがキリスト教における真理です。そのことで得た自由に生きているのがキリスト者です。皆様のお越しを歓迎し、主に感謝致します。

2008年6月1日 これまでとは違う質が求められる教会

2008年08月02日 16時14分53秒 | Weblog
 教会の成長を願うならば、あらゆる面において、質の変化を考えなければならない段階に来ているのではないだろうか。まず、牧師である。牧師の牧会姿勢や説教の内容などもこれまで通りでいいかどうか。
 ある方は、人数が増えていくと、もっと抽象的な説教をした方がいいという。多くの方々が来られるということを考えるならば、どの人、どの立場の人が聞いても、福音が伝わるためには、より幅のある抽象的なものの方がいい、というのである。これについては、私の場合、聖書を講解的な形で説教しているので、現状でいいとは思っているのだが。
 しかし、牧会においては多くの方々の悩みや抱えていることに対応するために、複数の関わりが組織的に必要になってくる。これは、二人の協力牧師も牧会にあたっておられ、他教会に比べると恵まれている。
 それから、年齢別集会や地域別集会は、さらに充実されることが期待されるのである。そうした小さな集まりにおいて、悩みなども聞かれ、相互に牧会できるようになればすばらしい。教会の組織もそれに見合ったものであることだ。それぞれの委員会の働きをみると、それなりに充実しているのはうれしい。
 ただし、管理機能が、強化されるのは必然だ。例えば、総務で現在準備中だが、災害時の避難経路の確認や事故が発生した際の対応の仕方を整え訓練しておくことなど。また、教会の意味や伝道の目的と使命など、群れの方向性は絶えず確認の必要がある。


平良師