家族に囲まれて
7月27日の夜の11時頃に阿部康子姉が、天に召された。彼女は、自分が召されたときにはと、いくつかのことを言い残していかれた。葬儀はたくさんの賛美歌を歌って欲しい。中身はこれこれの賛美歌で、最後はハレルヤコーラス。死ぬまで自分を貫いた人だった。
献体は規定に合わず適わなかった。調子のいいときには、車いすではあったが、毎日でも天神にでかけた。そこには、行きなれた店々があり、馴染みの店員がいて、彼らとしばらく話すことも楽しみだったようだ。
彼女のご実家は、当時は天神の有名なカメラ屋さんだった。天神はかつて慣れ親しんだなつかしい場所だった。彼女の若い時を知る人は、あるときまで歩行もできており、話し方も今よりも鮮明だったという。
私は月に一度、昨年から銀行にお金を下ろしに行く手伝いをするようになり、2回に1度は、高宮の駅ビル1階の喫茶店で、コーヒーを一緒に飲んだ。これは日頃、阿部さんとゆっくりと話す機会のない私にとって、いい時間だった。内容の多くは、世相について。日本はヘルパーさんが不足しており、近いうちにインドネシアから若い人々を受け入れるという話も彼女から聞いた。
彼女と喧嘩をした人も多い。彼女いわく、喧嘩は家族の一員となった証拠。してみると、彼女には多くの家族がいた。私もその一人に加えられた。また神の家族の教会員一人ひとりにとって、彼女の苦しみや喜びを時に共有できたことは今喜びになっているに違いない。
平良師
7月27日の夜の11時頃に阿部康子姉が、天に召された。彼女は、自分が召されたときにはと、いくつかのことを言い残していかれた。葬儀はたくさんの賛美歌を歌って欲しい。中身はこれこれの賛美歌で、最後はハレルヤコーラス。死ぬまで自分を貫いた人だった。
献体は規定に合わず適わなかった。調子のいいときには、車いすではあったが、毎日でも天神にでかけた。そこには、行きなれた店々があり、馴染みの店員がいて、彼らとしばらく話すことも楽しみだったようだ。
彼女のご実家は、当時は天神の有名なカメラ屋さんだった。天神はかつて慣れ親しんだなつかしい場所だった。彼女の若い時を知る人は、あるときまで歩行もできており、話し方も今よりも鮮明だったという。
私は月に一度、昨年から銀行にお金を下ろしに行く手伝いをするようになり、2回に1度は、高宮の駅ビル1階の喫茶店で、コーヒーを一緒に飲んだ。これは日頃、阿部さんとゆっくりと話す機会のない私にとって、いい時間だった。内容の多くは、世相について。日本はヘルパーさんが不足しており、近いうちにインドネシアから若い人々を受け入れるという話も彼女から聞いた。
彼女と喧嘩をした人も多い。彼女いわく、喧嘩は家族の一員となった証拠。してみると、彼女には多くの家族がいた。私もその一人に加えられた。また神の家族の教会員一人ひとりにとって、彼女の苦しみや喜びを時に共有できたことは今喜びになっているに違いない。
平良師