平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2007年3月25日 幼児教育について

2007年05月27日 13時09分24秒 | Weblog
   幼児教育について

 人間の教育は、生後すぐから始めるのが大切だと私は考える。いや、生れる前から神に祈りつつなされるべきではないだろうか。今日本では、政府が教育制度を変えようとしている。
 「真に大切なことは何なのか」が充分に審議されたのか、不安な気持である。私が述べるまでもなく、ごく普通の、明るく楽しい生活をする、自由な思想を共有し、礼儀をわきまえ、逞しく自分の人生を歩む人、他人(の気持)を尊重する人間が、世界共通の望みではないだろうか。更に平和とギセイ的奉仕が理想であろう。
 キリスト教の精神にもとづき、日本最初の婦人記者・羽仁もと子女史(1873-1957)は1903年(明治36)「婦人の友」を創刊し、1921年(大正10)自由学園を創立した。彼女は幼児教育にも強い関心を持ち、全国各地に友の会幼児生活団と称する幼稚園を作った。
 福岡友の会幼児生活団は1943年(昭和18)4月に始められ、63年間続けられたが、時代の移り変わりで現在小笹にある生活団は閉鎖されることとなった。昨日3月24日、初代からの指導者・石賀信子さんをはじめこれまで関わりのあった方々が集まり、感謝閉団式が催された。
 この幼稚園がどれだけ他のそれと違ったものであったかはわからないが、特別な形でこの世に問いかけるものはあったように思われる。その一つ二つをあげれば、子供の能力を自由に伸ばそうとする、祈り、躾け(礼儀作法)、親が子供の教育に関わりを深くもつべきことなどがあげられよう。「婦人の友」という雑誌はすでに創刊100年を越えているが、真の平和をつくり出す歩みを願い、一人、また一つの家庭からの小さな提案がとりあげられ、広がることにより、それがやがて地域や社会を変える力となり得ると信じて、努力が重ねられている。
 羽仁もと子さんは、友の会幼児生活団でも自由学園でも、3つの標語を中心にしている。それは、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」である。頭脳を使い、体を動かし、霊の交わりを覚えるのが大切だといいきかせている。
 神の前にへりくだりながら、親も教師も子供も、自由に楽しく、汗を流し、お互いの人格を大事にし、人間の交わりを豊かにして成長する家庭、学校を目指して進みましょうと今もよびかけている。
 自己を過大評価して、自説に固執する教育者、政治家からは、よい国家を望むことはできないのではないだろうか。


松村 師

2007年3月18日 心を一つに集める

2007年05月26日 23時27分38秒 | Weblog
    心を一つに集める

 何ごとも終わってしまえば、もう少し何とかならなかったものかと思う。2006年度、A中学校の聖書科の非常勤講師をさせていただいた。授業の準備などを考えると、努力不足だったと反省する。連合の会長も先週最後の役員会を終えた。ハーと息がもれた。
 連合の総務委員会をはじめ何度も会合を重ねた。この2年間、年齢的なこともあったのだろうが、教会以外の仕事を幾つか依頼され、それらからようやく解放されて、4月からいよいよ教会の仕事に集中できることになる。
 教会のことを考えることが、どのようなことを考えるよりも楽しい。教会の仕事は、神様の創造の業に参与させられることだと思う。また、教会の出来事は、神様が成してくださる御業に期待を寄せ、祈る以外には、起こりようがないのだとも思う。今年度は、自分の心を一つに集めて、いろいろと考えることができるのはありがたい。
 しかし、このように時間を与えられて、じっくりと考えることができるようになったから、いろいろなことがうまくいくかというと、そうとも限らない。神様のなさることは私たちの思いを越えておられるからである。精々、やること、成すことが、空回りしないように気をつけなければと思う。
 私たちは、事を始めるときに、共通理解が必要だ。このことは、このために行っているのだと、その目指しているところを互いに理解していたい。己の心をひとつに集めるだけでなく、他者とも心を合わせたい。


平良 師

2007年3月11日 4年目を終えるにあたり夢再び

2007年05月25日 15時58分06秒 | Weblog
 4年目を終えるにあたり夢再び

 早いもので平尾教会に招聘されて4年を終えようとしている。頭髪は減り、お腹は出て、外見的な変化もさることながら、内面的にも、私の中でいくつかの認識が変わった。
 私は牧師の責任を今さらのように考える。牧師の仕事の第一は、御言葉への奉仕である。それから、信徒の方々への牧会。これらについて、信徒の方々から祈っていただいているにも関わらず、十分ではないことを申し訳なく思う。人間的な未熟さからご心配やご迷惑をおかけすることも多い。お詫びしたい。
 牧師の仕事と言えば、教会のヴィジョンを具体的に信徒の方々に提示すること、これもそうである。教会がこれからどのような方向に歩めばいいのか、いったい課題は何か、解決すべきことは、などなど。しかし、ヴィジョンは、神様が与えてくださるものだから、そこには当然祈りが伴う。だから、具体的なものをなかなか提示できないとき、もっともっと祈らねばと思う。
 それから、ヴィジョンは何も牧師だけが与えられるものではないから、信徒の方々からうれしくなるようなヴィジョンの提示があることをいつも期待している。牧師も信徒も共に手を取り合って、平尾教会を建て上げていく。
 主が共におられ、主の教会を建て上げていく作業は実に楽しい。この楽しさに与れる私たちは何と幸せだろう。私たちは、平尾教会の未来に思いを馳せる。教会の未来の姿が、一人ひとりの心のうちにある。そして、何らかの形で夢は成就するだろう。


平良 師

2007年3月4日 2007年度の歩みのポイントから

2007年05月24日 12時19分04秒 | Weblog
 2007年度の歩みのポイントから

 2007年度の歩みのポイントは、今の礼拝の形をどのようにするかであろう。この3ケ月の平均は、100名を超える。この状況は、とてもうれしいことである。
 しかし、できるだけ礼拝に出席した方々が、よかったといって帰られるようにしてさしあげたい。そのために、どうすべきなのか。空間は広げられたらよい。
 そうすると、今のところ、後ろの扉を開けることしかない。そのことも考えて、それができるような作りになっている。しかし、それで、困ることは、音が聞き取れなくなるのではないか、空調が効かなくなるのではないか、ロビーの部分は暗いのではないか、二階で遊んでいる子どもたちの声が、そのまま礼拝堂に飛び込んでくるのではないか、などなどである。
 しかし、ロビーの暗さは明るい電灯をつけたので心配はなくなった。また、音に関しては、補聴器の設備をつける、また、空調に関しては、衝立で仕切る、また、子どもたちの声については、努力の余地が大いにある、など、方策はある。
 それも、150人くらいまでのことだから、それ以上になった場合はどうするのか、将来的なことも同時に考えていきたい。多目的ルームの同時使用や二部礼拝も考えられる。
 しかし、迎える教会の中味、パソコンでいうとソフトを整えることも同時に必要になってくるのである。教会学校の整備もある、また、地区別や年齢別の集会を持つことで、教会員や求道中の方々との交流や受け皿の場ができればとも思う。


平良 師

2007年2月25日 福音によって真に自由にされた人

2007年05月23日 16時59分37秒 | Weblog
福音によって真に自由にされた人

 恩師エドアルト・シュヴァイツァー教授(チューリッヒ大学神学部名誉教授)の訃報をスイスの友人から受け取った。享年93であった。
 伝統あるチューリッヒの新聞Neue Zuercher Zeitungにおける死亡広告は、教授の高弟で現チューリッヒ大学学長ハンス・ヴェーダー教授の名前で掲載され、追悼記事はやはり教授の教え子のヴェルナー・クラマー教授が書いていた。
 新約聖書学の分野において多くの著作を残されたが、そのうちの、私の数え方が間違っていなければ10冊が日本語に翻訳されており(そのうち三冊は拙訳)、日本における読者も相当に多いと思われる。
 私は1972年から78年にかけて教授から神学博士論文執筆のご指導を親しくしていただくという幸運に恵まれた者なので、卓越した教師を失なってしまったという喪失感は大きい。
 上述のクラマー教授は追悼記事の中で、「自宅におけるオープン・イヴニングにおいて、山登りにおいて、あるいは寮の舎監として、彼はすべての者に、何の取り繕いや偽りなしに(unverstellt)親しく接した」と書いておられるが、それは私が抱いている思いとまったく同じである。
 どこの馬の骨かもわからないような私ごとき者を、一人の学徒として温かく扱ってくださったこと、私たち家族を何度となく自宅に招いて食事と語らいの時をもってくださったこと、先生得意の山登りにも連れていってくださったこと、森の中を二時間ほど歩きながら学位論文の内容について語り合ってくださったことなど、忘れることはできない。
 1984年の国際新約聖書学会がバーゼルであったときにも、休憩時間に、「誰か会いたい人がいるか、連れてきてあげるから言いなさい」と言ってくださるような先生だった。
 本当はテュービンゲン大学のE・ケーゼマン教授にお会いしたかったのだが、残念ながらその大会には欠席されていたので、「C・K・バレット教授(ケンブリッジ大学)に」とお願いすると、数分後に、あまり背の高くない先生が巨漢のバレット教授を私のところまで連れてきて紹介してくださった。
 また、1980年の来日の際には、日本での恩師荒井献先生が網膜はく離の手術をされて新宿の病院に入院されていると申し上げると、「それならぜひお見舞いに行こう」と、東京での過密なスケジュールの合間を縫うようにして見舞いをなさるような先生であった。そこには福音によって真に自由にされた人の、謙虚で、何物にも囚われない自由闊達な姿があった。


青野 師

2007年2月18日 建物もまた伝道する

2007年05月22日 17時01分16秒 | Weblog
   建物もまた伝道する

 今の会堂が完成し12年が経った。このすばらしい会堂も13年目に入った。時の経過を思う。外見は、壁などにも亀裂は入らず、今のところ、なかなかよい管理状況である。
 しかし、床のオーク調の塗装があちらこちらはげたり、屋根のつなぎ目のセメントがはげたり、駐車場のタイルがはげたり、壁紙がはげかかったりと、ちょこちょこと手直しをしなければならない箇所もでてきた。それから、一昨年は、エレベーターの修理も行った。空調設備もそろそろ寿命を迎えようとしている。
 形ある物は、いずれは崩れていくから致し方がない。崩れたり、使用できなくなったら、修理する。しかし、祈りを集め、精魂傾け造った会堂なのだから愛情をもって大切にしよう。施設を大事にし、管理していくことは、これから何十年もこの建物を使用していく上で必要である。
 それにしても、まずは、今のこの建物の各スペースが、フルに使用されていることを喜ぼう。最近は、会堂講壇横の右室は、楽器の収納と練習場所となり、ロビーは、子どもたちがテーブルを設置して、食事どきを楽しんでいる。もう使用していないところはなくなった。
 ただし、使用頻度が増えれば、それだけ建物の傷みは進む。これも仕方のないことだ。しかし、建物は使用してこそ意味がある。私たちは、この建物をこれからもさらに活用して、伝道活動に役立てたいと願う。主が与え賜うたこの建物は、今までもよく伝道してきた。大いに主に感謝。


平良 師

2007年2月11日 課題に応えられる教会に

2007年05月21日 17時18分43秒 | Weblog
  課題に応えられる教会に

 教会には、不特定多数の人々が集う。それぞれに、悩み、課題、重荷を負っておられる。そうでないという人はいない。そして、教会はできるだけ一人ひとりの悩みや課題に応えられたらいい。
 また、今はいいが、今後予想される問題もある。経済的な悩み、子育ての悩み、家族の悩み、健康上の悩み、仕事上の悩み、高齢に伴う悩み、など挙げるといくらでもある。それら一つ一つに、教会が応えられたらどんなにいいか。教会にそれだけの力があったらと願う。
 しかし、牧師はほとんど、無力に近い。精々お話をお聞きしたり、どこかにお連れしたり、という程度である。祈ること、御言葉が、一番の力だから、それがあれば十分と言ってくださる方もおられる。確かに御言葉と祈りは、すべての力に勝る。
 それでも、わずかなりとも具体的に力になれる方向性を教会は志向すべきだも思う。なぜなら、イエス様も具体的に病を癒された。教会には、その道の専門家が少なからずおられる。医療、心理、教育、福祉、建築、情報など、さまざまにおられる。
 教会員の誰かが、もしこのようなことで悩んでおられるのなら、この人が、それについては力になってあげられる。また、誰かが、このことで困っておられるのなら、教会のこういうシステムが機能する。
 もちろん、それは行政に任せた方がいい、病院に行かれた方がいい、それらのアドバイスや判断も含めてのことである。相互牧会の必要性はこれからさらに大きくなろう。


平良 師

2007年2月4日 祈りのみち

2007年05月20日 23時37分52秒 | Weblog
     祈りのみち

 「ゆきなれた路の/なつかしくて耐えられぬように/わたしの祈りのみちをつくりたい」これは、八木重吉の「祈」という詩だ。
 行きなれた路、なつかしい路、幼い頃に遊んだあの路。私の鹿児島の実家の近くには飛行場があった。飛行場は海に面していた。今の溝辺町に移転する前の話だ。プロペラ機だけの時代。私たちは、のんきに飛行場に入って、野球をしたり、凧揚げをしたり、虫取りをして遊んだ。
 ときには、滑走路のほんの近くの草原に体をうずめ、肝試しをしたりした。無謀なことだった。随分、迷惑もかけていたに違いない。今では、考えられないことだ。滑走路の向こうには、麦畑が広がり、ひばりがあがり、さらにその向こうは海岸で、釣りもよくやった。そうやって、日暮れまで夢中で遊んで、ふと見上げた夕焼けがとても美しかったことを覚えている。
 あのなつかしい路、その夕暮れの中を、友だちを自転車の荷台に乗せてよろよろと帰ったあの路。思い出すと、何かしらぐっと胸が熱くなる。その路は、飛行場が移転するまで、私の中学生の頃まで残っていた。
 八木重吉は、そのような、なつかしい祈りのみちをつくりたいという。それはどのような路だったのだろう。おそらく、それは、突発的な祈りの路ではないだろう。
 日々の地味な、祈りの路だ。日常の中で、習慣的になされている祈りの路だ。振り返ると、自分の人生がぼんやりだが、愛おしく見えてくる、そのような祈りの路だったのではないか。


平良 師

2007年1月28日 福岡連合青年会修養会

2007年05月19日 23時30分18秒 | Weblog
   福岡連合青年会修養会

 日本バプテスト福岡連合の青年会修養会(以下、連合の青年会)は簡単な礼拝とその後のなべを囲んでの集いで盛り上がった。モツなべがこんなに美味しいとは始めて知った。
 当日、平尾バプテスト教会(以下、平尾教会)では臨時総会があった。連合の青年会は4時からの予定だった。私は早めに会場(西部バプテスト教会)へ向かった。
 今回の講師は平良牧師だった。連合会長は、青年会開会の趣旨を開会礼拝のときに次のように述べた。「平尾教会は青年層のためのいろんなプログラムがある、中年層もほかのバプテスト教会に比べて割と多い。平良牧師のノウハウとは・・・」と。
 平尾教会の今までの成長に福岡連合の教会が関心を持って下さったようだ。今年度の連合青年会のテーマは「継承」。
 平良牧師によれば「継承は礼拝の場に在る」。大分の青年もがそれに同感したようだ。講演に関してさまざまな意見もあった。講演後、2グループに分かれてディスカッションが持たれ、疑問、分析、課題、対策、感動など、様々な発言がなされた。実に充実した修養会だった。
 二日目、平良牧師は平尾教会が取り組んでいる伝道活動、すなわち礼拝に導く伝道活動等を例に出しながら、よりわかりやすく具体的に講演をされた。その後、連合の青年会は講演に対する意見を交わした。特に参加者が関心を示したものは共同保育と青少年「Peace.Com」だった。
 何より、青年会が中高生のために奉仕できることに大いに感動したという意見があった。平尾教会においての多くの行事・伝道の働きは、すべて神様への礼拝に導くものであることを改めて感じた。そのために、教会員全体が協力し合うことのすばらしさに感謝する。
 講演が終わってから、平良牧師とFさんと私(二日目も参加された方)は「横綱ら~めん」で昼食を共にした。もちろん、平良牧師のおごりだった。二日間、特に冷え込んでいたが、私は寒さを感じなかった。


張 師

2007年1月21日 私たちの物語

2007年05月18日 17時29分59秒 | Weblog
    私たちの物語

 私たちの物語は、つきつめていくとキリストの物語であるか、あるいは、キリストとの出会いの物語であって欲しいと思うのだ。私たちの物語は、私たちを語るべき物語であるというよりは、イエス・キリストを語る方向性であって欲しい。
 私は、幼いときこうであった。それから青年、そして、成人してこのようになった、しかし、キリストの出会いにより、私は救われ、今、こうして主に導かれ、主を喜んで生きている。世には、サクセスストーリーと言われる個々人の成功物語がある。
 しかし、私たちの物語は、キリストによる救いの物語である。これは、「証し」とも呼ばれる。今、政治の世界でも、企業でもどの世界でも、ストーリーを語るということが、たいへん重要な鍵になっているとある本に書いてあった。
 私たちキリスト教の世界では、初代教会の時代からなされてきたことが、現代、あらゆる方面で注目されている。インターネットの世界では、ブログがどんどんできている。
 その多くは、自分の物語を語るためである。私も実は持っていて、説教内容をそれに載せてある。これは、U兄が、ホームページの容量の関係で、そのようにしてくださったのだ。
 しかし、現代人は、自分のことを誰かに、多くの人々に知って欲しい、実際会うことをしなくても。そして、その内容には真実であるかどうか、疑わしいものも随分とあるという。私たちの物語は、どこまでもキリストの物語で真実でありたい。


平良 師