当事者として神様の前に
先々週の火曜日、沖縄のある教会の牧師と会う機会があり、名護市長選挙の動向が話題となった。O牧師はとても温和な方だが、告示の数日前に沖縄に振興策費用として、500億円の用意があることを政府が発表したことに沖縄の人々を馬鹿にしていると憤慨されていた。
いわゆるアメである。ところが、本日の開票作業の結果、反対派の稲嶺氏が、当選したのだった。沖縄の人々の決意に対して、改めて敬意を表したいと思う。辺野古の自然を守ろうとした人、また、沖縄県内の基地の移設はどこであっても断固反対の立場をとった人、反対理由は他にもあるのだろうが、何はともあれ、ほっとされたと思う。私たちは、宗教者だから、政治的なことに関しては、あまりな態度表明はしない方がよいと考えることもある。
しかし、意識できないだけであって、多くはその当事者になっている場合が多い。沖縄の人々は、これ以上、沖縄の環境をめちゃくちゃにされてたまるか、犠牲にされてたまるか、命の危険に晒されてたまるか、と当事者として声を挙げている。そして、このような沖縄の状況を作っている責任は我々にあって、我々もまた当事者である。
戦争ができる国になって、自分の息子や孫たちが戦場に行って、人殺しをさせられる状態を想像したとき、恐ろしい気持ちになる。だから9条は死守したい。が、そうなったときの責任は我々にある。当事者だ。いずれ神様の前にすべての者が罪の当事者として立たされる。
平良 師